10’12’8
仲の良い夫婦と言えども、飛行機事故ででもない限り、夫婦が一緒に亡くなることはまずない。 統計的に見ると、五十歳を過ぎて、夫婦そろっているのは意外に少ないものだと聞いたことがあるが、それはかなり以前の話なので、現在はだいぶ事情が変わってきているのかもしれない。
配偶者の死は「人生最大のストレス」だと言う。 かなりの年齢になっても、亭主関白で世話の焼けるご亭主の場合には、亡くなってくれるとほっとすると聞いたこともあるが、最近は子供たちが独立したあとは夫婦二人暮らしの時間も長いことだから、やはりその「相棒の死」は、大きな悲しみだろう。
私がその悲しい経験をしたのは五十代の初めだった。 重篤な病人の余命はあとわずかと告げられていても、目の前に、とにかく生きていて、多少なりとも会話のできる状態では、なかなかその人のいない世界を想像することは難しい。
逝かれたあとの、あの、地中に吸い込まれていくような、深い悲しみや絶望感は、なかなか口で説明できるものではない。 二人暮らしであれば、一人になった孤独感はいかばかりかと思う。 住んでいる家が急に広く感じられることだろう。
私は「年賀欠礼」の葉書を出したことがない。 兄や姉の場合は、友人とは直接関係ないから・・・と思っていた。 夫のときも出さなかった。 こちらは「出す気になれなかった」と言う方が正確かもしれない。 出さなくても、身内や、親しい人たちは知っていたから、年賀状も頂戴しなかった。
夫はまだ、仕事の面では現役だったから、関係者からきちんと連絡をしていただき、葬儀には多くの方がお出かけくださっていた。 連絡漏れで、年賀状を下さった方には、年が明けてから、連絡不行き届きのお詫びを息子から差し上げたと記憶している。
一口に「喪中」といっても、その範囲は人それぞれである。 連れ合いの親兄弟までとなると、かなり広範囲になる。 同居か否かにも拠ることだろう。 「仕事関係」には一切出さないと言う人が多いようだ。
遅くなってしまったと思いながら、頂戴した挨拶状にお悔やみの葉書を書いた。 書き出しなどはみな同じとは言うものの、これだけは手書きの方が良かろうかと、まずい字でしたためた。 ポストに投函して、私は、「暮れの仕事」を一つ終わらせた気持ちだが、これを下さった方たちは寂しいお正月を過ごされることだろう。
年を重ねたせいか、訃報に接する機会も増え、「年賀欠礼」の挨拶状を頂戴することも多くなってきた。 私自身は出したことのない挨拶状だが、これを出すことによって、悲しみの整理も多少はできる面があるのかもしれない。
お悔やみ状をお返ししている方が幸せであることは間違いのないことだが、できるだけ頂戴しないに越したことはない挨拶状であることも確かなのである。