娘 と 私  

 

10’4’12
 糖尿病の食事管理が思うに任せず、いつ何が起きても不思議ではないと言われていた娘が、予定通り?脳梗塞を発症した。
 夕方、仕事から帰宅した玄関前で、「転んで起きられない」と言う出来事が最初だった。 初めてではないようだとの診断だったが、幸いなことに今回も軽かったので、急性期を過ぎ、五か月間のリハビリを終えるころには、ほぼ以前の生活に近い生活ができるまでに回復した。 とは言っても、左半身にごく軽度の麻痺が残り、玄関前のたたきや、玄関の上がりかまちをすんなりと上がることはできなくなったので、それなりの改修が必要になった。  

 逆子の未熟児で、出産時の難産が原因で知的障害もあり、「育つかどうか分らない」と言われた「箱入り娘」だった赤ん坊が、どうにか五十年生きてきた。 丈夫にしたいという思いが強すぎたようで、肥満児になり、それがその後の娘の人生に災いを及ぼすことになったのだから、全ては親の私の責任かもしれない。 
 十二年前に心不全を起こしたときも、「唯一のメリットは若さ」と言われたその若さがものを言ったと見えて、一週間の集中治療で死の淵から生還したのだった。 そして今度は脳梗塞である。

 赤ん坊の頃は「虚弱児の見本」で、虚弱児の特徴である「地図舌」を、インターンの学生に見せてほしいと頼まれ、病院に連れて行ったこともあった。 「こんなでも学校に行くようになれば意外と丈夫になるから・・・」と医者に励まされたが、小学校に入るまで医者にかからない月は、ただの一度もなかった。
 夏、気温が上がれば体温も上がる。 肺炎を起こしても発熱する体力はないから、少しでも気になることがあればすぐ連れてくるようにと言われていたし、よその子供さんとの接触は厳禁で、小児科の待合室では「病気を拾うから」と、「新生児室」で診察を受けていた。
 「親が自分で育てなければ無理だろう」と言うことで、私も勤めをやめ、内反足の治療にも通った。 乳幼児の各種予防接種も、ある程度大きくなってから病院で受けたりしたが、五十年前には、まだそういう細かな配慮をしてもらえたのである。 それに、何よりも娘自身の生命力が強かったと言うことだろう。

 半年の入院生活を経て退院してきた娘も、家にじっとしていたのではせっかく回復した身体機能も低下してしまうだろうと、午前、午後と散歩に連れ出すことから始め、洗濯物をたたんだり、窓の雨戸二枚を閉めてもらったりと、少しずつ体を動かす時間を増やしていった。
 長くは無理だが、少ししっかり歩けるようになってきたので、発病するまで世話になっていた福祉作業所にまた、半日だけ通うことにした。 リハビリにもなると考えてのことである。 一般企業に勤めていたころには、通院のための休みを取るにも気兼ねをしたが、リストラ後、通っている作業所は、親の私も安心していられる場所である。

 朝はお迎えがあり、半日で帰るので、帰りは迎えに行く。
 仕事だけを二時間して帰るよりは楽しいのではないかとの職員の勧めで、お昼を仲間と一緒に食べてから帰るようにした。 お弁当を持たせるつもりでいたが、「ヘルシー弁当」があると言うので、私も助かるし、それを頼んで様子を見ることにした。 献立を見ると、野菜が少ないので、それは家の食事で補ったり、量の多いご飯は残したりすることで調整している。 
 以前のように自転車で自由に動き回ることは無理になったが、食事の管理と言う点から見るとむしろ利点となったのも皮肉な話である。 車への乗り降りに多少時間はかかるものの、自分で乗り降りできるようになり、杖は次第にお守り的存在になってきている。

 娘が一日の仕事をすませ、帰宅後、自力で家に入り、普通に暮らせるようになるまで、私も活動停止である。 私がいなくても自分の食べることくらいできて、更に夕方の献立を一品くらい作っておいてくれる、発病前の状態に戻れれば、言うことは無いのだが・・・。
 何はともあれ、入浴のサポート程度でことが足りるようになったのは幸いだった。 老化も健常者よりは早いと聞くから、我が家では親と娘、「先にぼけるが勝ち」になりそうな気配である。 娘のためにも、私自身のためにも、まだしばらくは元気でいなくてはならないのだが、これが一番難しい課題であるのは間違いのないことである。     

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