猫 の 死 骸 

    

12’3’26
 灯油を補充しようと、石油ストーブのカートリッジタンクを手に、勝手口から裏へ出た私は思わず「ギョッ」として足を止めた。 物置へ行く狭い通路の真ん中にあるのは、紛れもない「猫の死骸」だった。 毛の色から見て、つい二〜三日前に、庭の花壇で寝そべっているのを追い飛ばした猫らしい。 車に轢かれた猫を目撃することは多いが、そういったむごたらしさの無いのが救いだった。
 何だかいやに平たいなと思った。 猫の死骸はたいてい横に寝ているような姿で、脚を伸ばしているのが普通だと思っていたが、この猫は四つんばいだ。 丁度、亀がそのまま押しつぶされたような感じだった。 しかし、毛は普通に風に揺らいでいるから、押しつぶされたのではなさそうだった。 周囲もとくに汚れてはいず、苔の上に「逆さ大の字」になって寝ているといった姿である。 とは言っても、そうしっかり観察したわけではない。
 「またか・・・」と思う。 実は以前にも庭で猫が死んでいたことがあるのだ。

 亡夫がいれば、おそらく片付けてくれた仕事であるが、今は自分で何とかしなくてはならない。
 幸か不幸か、前の経験が生かせて、先ずレジ袋と新聞紙を用意する。 ほかを見ないようにしながら、後ろ足一本を持って広げた新聞の上に載せる。 死後どのくらいたっているのか分らないが、死後硬直が始まっているらしく、思わず放り出すこともなく載せられた。 足の骨ばった感触が気持ちのよいものではないから、ここが一番いやなところである。
 新聞にくるみながら形を整え、ほぼ長方形にしてきちんと包み、レジ袋に入れる。

 昔、飼い犬が死んで、処分方法を市に相談したところ、「ゴミとして処理するから、ダンボールに入れて持ってきてください」とのことだった。 そのときは、愛犬を「ゴミ」にするには忍びないので、庭に穴を掘り、首輪をつけたまま、庭の花と一緒に埋め、お線香を上げて弔ってやった。 後日、盛り上がっていた土が沈みこみ、無事、土に還ったことが想像できたのだった。 しかし、野良猫にそこまでしてやる気はなかった。
 石鹸で手を洗いながら、猫も元気なようでいても、やはり、「明日のことは分らないのだなぁ」と、不思議な気分でいた。 一方では、素手で猫の死骸を始末できたのだから、私の神経もずいぶん太くなったものだと一人で感心していた。

 タイミングの悪いことに、その日はゴミの収集が終わったばかりで、次回まで幾日かあるのが気がかりだった。 今年は寒いから、裏の日の当たらない場所に置けば大丈夫だろうとは思うものの、雨にぬれないようにとか、それなりに気になることが増えたのは確かだ。

 待ちかねたゴミの収集日が来て、包んだものにも異常がなかったので、市指定の袋に入れ、生ゴミと一緒に門の前に置いた。 カラスがついばんだりするといけないので、ぎりぎりの時間に出した。 程なく収集車が来て、回収して行ってくれたので、幾日振りかで胸のつかえが取れた感じだった。

 以前に処理した猫には不思議なことがあった。 その日は、その死骸を見つける直前まで大雨が降っていた。 それなのに、その猫は全然ぬれていなかったのである。 しっかり硬くなっていたし、どう考えても、我が家には「死後」やってきたと思わざるを得なかった。 時々庭で見かける、きれいな三毛猫だった。 何だか人間不信に陥る出来事でもあった。
 そして、今度の黒の濃淡のトラ猫もおかしな姿で死んでいた。 少し前に、猫を何匹も飼っている人が、「毒でももらったらしくて何匹か死んだ」と話しているのを聞いていた。 ことによると、そういう事情があるのかもしれない。 猫は芝生や花壇に糞はするし、植木鉢はひっくり返すし、私も好きではないが、「毒団子」を作る気にまでは到底なれない。

 我が家にはいろいろなものがやってくる。 ジュースの空き缶から、猫の死骸から、猫に食い散らされたらしい鳥の残骸から、死んだ青大将まであった。 猫が運んでくる生ゴミの始末をすることも珍しくはない。 何でこうなるのかなと思うこともあるが、深くは考えないことにしている。 深く考えると、私の「人間不信」が、ますます助長されそうな気がするからである。 

 野良猫はみな「孤独死」だ。 猫も「ゴミ」にされたのでは気に食わないかもしれないが、たとえ一時にしろ、「可哀そうに」と思う人間がいて、それなりに「丁寧に包装したゴミ」として処理してやるのだから、成仏してもらわなくては困る。 あの猫たちも、今頃は、あの世の「猫仲間」で楽しくやっていると思いたい。  
 ご縁のあった「死後の生き物たち」も、それなりに分ってくれていると見えて、今のところ「たたり」と思しき出来事は皆無である。

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