甥 の 死  

 

11’4’27
 思えば去年の秋のお彼岸に来てくれたのが“元気だった”Sちゃんとの最後の出会いとなった。 息子たちさえ来ないのに、春秋のお彼岸にもお盆にもほとんど欠かさずに彼は来てくれていた。 お墓が羽村にあり、隣に住む甥とは兄弟のように親しい付き合いをしていた彼だったから、ついでに我が家にも来てくれたのかもしれないが、私はその気遣いをうれしく思い、いつも少しばかりのお茶菓子を用意して待っていた。

 彼の母親、つまり亡夫の兄嫁が九十歳近い高齢でなくなった頃、彼は首にできた「腫れ」が、「ガン」であることを知ったようだ。 三年前のことだろうか。 母親の葬儀を滞りなく済ませてから、彼の本格的な闘病が始まったのだが、その間の彼の気持ちを考えるとやるせない。

 耳下腺にできたガンの細胞を完全に取り除くことは難しかったのだろうか、手術後も放射線治療や、抗がん剤治療を続けていた。 治療で白血球が減る話は、原因不明の白血球減少が長年続いている私とは共通の話題で、「叔母さんは今どのくらい?」などと聞いていた。 話の様子から、決して安心できる状態でないことは感じていたが、それでも「元気そうに」来てくれるので、まだ急にどうこう言うことはないものと思っていたのだった。

 今年の三月、春のお彼岸には「来られない」と隣の甥から聞いた。 「車椅子」になって、「最後かもしれないから連れて行きたい」と奥さんからの電話だったが、ガソリンが手に入りにくい最中のことだし、いつも運転している奥さんではないから、「無理に来るな」と止めたとのことだった。 やはりそんなに悪くなってしまったのかと暗澹たる気持ちで聞いていた。

 四月になって、「そろそろ危ないので入院した」との知らせに続き、「今朝亡くなりました」と。 信じがたいことだったし、信じたくもないことだった。

 お通夜に行った息子の話では、かつての教え子たちが大勢来て、焼香台を急遽倍に増やしても終わるまで二時間もかかり、斎場もそれ以上の時間延長は無理と言うことだったようで、「お別れ」だけはできるようにしてくれたが、予定された食事の時間も場所もなくなってしまったとのことだった。 和尚さんはその間ずっと読経を続けてくださったと言う。

 翌日の葬儀は予定より十分早く始まることになり、品川の斎場まで、余裕を見て、私は七時に隣の甥夫婦と出かけた。 お通夜には千人近い人が来てくれたと聞いた。 

 平日だったのに、葬儀にも制服姿の教え子たちが何人も来ていた。 男の子も、女の子も、泣きながら焼香していた。 定年退職して一年、良い先生だったのだろう。 生徒たちにここまで、その死を悼まれて、「教師冥利に尽きる」と言うべきか。 彼の優しさがきちんと伝わっていたと言うことだ。
 壇払いの席で、友人に託された、故人のメッセージが読み上げられた。 「公私共に幸せな人生だった。 これからは高いところから見守っているから、空を見たら思い出してほしい」と。 「ありがとう」の言葉で終わるメッセージに改めて涙が出た。

 家に戻り、今年彼からもらった年賀状を出してみた。 暮れに軽井沢に行って来たとある。 そして、「今年もよろしく」と。
 最後に夫婦で旅行ができてよかった。 三月は勤めを休んで付き添っていたと言う奥さんは、しっかりと喪主を務めていた。 「疲れが出ないようにね」と声をかけたが、まだまだ仕事は続くから大変だ。

 「叔母さんの話はいつも楽しくていいね。 老後は叔母さんの様な生活をしたいと思うよ。」といつか言ってくれたのに、「老後」を待たずに逝ってしまった。

 Sちゃん、六十二歳なんて、ちょっと早すぎたよね。 ・・・。  

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