05’6’23高校生の一人息子が、両親を殺し、その部屋を爆破すると言う事件が起きた。 父親に前日、「オレより頭が悪い」と、馬鹿にされたので凶行に及んだと言う。 母親は、日ごろから「死にたい」と言っていたので、殺してやった、と。
逮捕されたときの所持金は三万円。 包丁一本と携帯用ゲーム機にゲームソフトが所持品だったという。 宿帳記載には偽名を使ったが、住所は本物だったし、少年が一人で泊まることに異常さを感じた宿からの連絡で逮捕に至ったようだ。
所持品を聞いてもこの少年の「したことへの意識」の一端が想像できるように思う。
「お前は本当に馬鹿だねぇ」くらいのことは、大きくなったわが子に対して、誰でも言うことがあるのではないだろうか。 「もう、死にたくなるよ」も、また然りである。
「馬鹿だ」と言いながら、その子を愛し、頼りにもしているのが親だ。 それをいちいち真に受けて「殺したい」と本気で思われた日には、親たるもの、いくつ命があっても足りない。
事件の少年も一人息子で、親の愛と期待の大きかったことは容易に想像できるけれど、どこでどう狂ってしまったのか。 親子の関係も難しい世の中になったものである。
「頭が悪い」とののしられて、「親の子だよ」とでも、反論できれば問題は起きなかっただろう。
一口に親子関係というが、親子はお互いにどこまで相手を理解できているものかと考えることがある。 子供が小さいころには、親はしっかり子供のことを分かったつもりでいるのが普通だ。 普通の家庭ならば子供のほうも親を一番信頼しているだろう。
しかし、十代になれば子供は親の知らない世界を持つ。 男の子は特に、「都合の悪いこと」は親にも隠す。 「親よりも友達」である。 あるときは一人前の口を利き、あるときは甘えてみせる。 細かいことを言われるのを嫌う。
わが息子どもを思い出すと、素直そうに「はい」と言った子も、いちいち逆らった子も、言うことを聞かなかったという点では同じだった。 身長も大きくなっていく息子どもに、「梯子をかけてでもひっぱだいてやる」と思ったものだ。 向こうから見れば、「ちっとも気持ちを理解しない古い人間」と映ったのだろう。
長ずるに及んでは、「何を考えているのやら」と言うことが多々ある。 結婚して家庭を持つようになれば、さしずめ「よそのおじさん」である。
ここに至って、親のほうが「ちっとも親の気持ちを理解していない」と思う番だ。 「こんなヤツだったのか」と、わが子育てのまずさを思い知らされることにもなる。
私自身、親の素性も、定かには知らない。 祖父母のこと一つを取ってみても、顔も知らないし、名前も「なんだっけ」である。 現代は長生きで写真もあることだから、孫も顔くらいは分かるだろうが、私の場合は、わずかに一枚の写真が残っている父方の祖母と母方の祖父以外は、顔も知らない。
子供たちも私の親のことは多分何も知らないだろうし、私や自分たちの父親がどんな育ち方をしたかも知らないと思う。 そう考えると、親子の縁と言うのも、まことにはかない、ごく限られた時間の中に存在するもののように思われてくる。子供が小さかったころ、とにかく可愛くて、「将来この子達と、思うような関係でなくなったとしても、今、こんなにわが人生を充実したものにしてくれているのだから、決して愚痴は言うまい」と、なぜか思ったことを思い出す。 その覚悟があったせいか、私が冷たい人間なのか、人様よりは子離れができているようである。 敵はとっくに親離れしているのだから、こちらもわが人生を楽しくしなくてはいけない。 と言いながらも、「たまには顔でもみせればいいのに」と思うのが親だ。
どう考えても、親子の関係で、損な役回りは親の方である。
最低、恨んだり、恨まれたりしなければ、それで良しとしておかなくてはならない時代のようである。