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最近は「疲れること」をした翌日は「休養」と決めてあり、月曜日には出かける予定を入れてなかったが、「休養」の必要がなくなったので、なかなか日が取れずにいた「ルノワール展」を見に行くことにした。 上野の美術館にはよく出かけていたものだが、新しくできた六本木の国立新美術館に出かけるのは、私にはかなりおっくうなことに思えた。 年を重ねるにつれ、次第に都心に出る回数が減り、人ごみに行くよりは大自然の中に出たいと思うようになっていた。
若い頃からルノワールの絵が好きで、良く見に行っていたが、今回でルノワールは卒業しようと思っていた。 紙質の良くない絵葉書も幾枚か、どこかにしまってあるはずだし、かなり昔から展覧会を見ていた。
数日後の午後、都心に出る予定があるので、その日の午前中に行こうかと思ったりしていたが、込んで、「入場制限」でもあれば、午後の予定に間に合わなくなるのではないかとの心配もあったので、思い切って出かけることにしたのである。
朝の開館と同時に入る予定が、羽村からの中央線直通電車に乗り遅れたりして、だいぶ遅くなったので、込んでいるだろうと覚悟して入ったら、拍子抜けするくらい空いていた。 一点一点ゆっくり見て回れた。 初めて見る作品が多いように思ったが、忘れているのかもしれなかった。 もう一度見ておきたいと願っていた、二人の少女がピアノの前にいる『ピアノに寄る』は出ていなかった。
色彩的にも、テーマも、現代的とは言えないだろうが、私には、やはり落ち着ける絵画である。
「音声ガイド」は借用しなかったが、「映像コーナー」は椅子に座って、ゆっくり見てきた。 ルノワールの画風の変遷や、その時々の心模様を、NHKの石沢典夫さんの声で解説する映像は、なかなか面白かった。
私は今までも、どうせ覚えてはいないからと、作品の横につけられている「説明文」をあまり丁寧には読まないのだが、今回はメガネをかけても読みにくかった。
いつもより、照明が暗い印象だったのだが、「温度、湿度、照明は、作品保護に関する国際的な基準と各所蔵先の貸し出し条件に従って調整されています」とわざわざ断ってあるので、「理想的と感じられない場合もあるかと存じますが、ご了承ください」の一文に、納得せざるを得ないことになる。 作品の保護ももちろん大事なことだし、世間の人はもっと「目がいいのだろう」と思うより仕方が無い。
しかし、『ブージヴァルのダンス』のモデル女性が、かのユトリロの母親だと言うことを、説明文から初めて知り、大変興味深いものがあった。 ルノワールとユトリロを比較すれば、私は、むしろユトリロの方が好きなのだから。
展覧会も、最近はいろいろと趣向を凝らすようで、「光学調査」と称して、作品の「赤外線写真」と「X線写真」が一緒に並べられているコーナーがあった。 「赤外線写真」は、一見、モノクロ画像のようだったが、私には「X線画像」は「見る必要のない」ものだった。 作品の「骨」まで見なくても、私はきれいな作品を見るだけで十分だと思うのである。
いつもは最後まで来ると、戻って何点かの作品をもう一度見たくなるのだが、今回は「もういい」と思った。 私の目には、照明が暗すぎたせいかもしれない。 図版カタログも、買わなかった。 「荷物を増やすまい」と思うのである。
家に帰ってから、以前の「ルノワール展」の図版カタログを出してみたら、「あ、これもあった」と言う作品が何点かあった。 更に同じ作品なのに異なる標題がついているものも発見した。 翻訳した人が違うのだろう。 この図版の奥付によると、1974年の秋に上野の国立西洋美術館での「ルノワール展」で購入したものらしい。 改めて見ても感動が蘇る作品の数々である。
正直なところ、「これで卒業」と思うには、今回の展覧会は、いささか物足りなさが残った。 私自身が鈍感になって、若い頃のように感動を得られなくなっていることも考えられるが、考えようによっては、、遠くまで出かけるのも年々大変になるだろうから、このあたりで、少しずつ「きりをつけていこう」と思う気持ちに、迷いを生じるには至らなかったのだから、むしろ幸いだったのかもしれない。