12’1’30
少し遅めの「新年おめでとう」と、梅酒で乾杯の後は、にぎやかな食事会だった。 お上品に料理を少しずつ運んでくるわけではなく、大きなお盆の上に、会席膳や、かやくごはんや茶碗蒸し、味噌汁やデザートの白玉団子まで載せたものが運ばれていた。 飲み物は各自好みのものを選んで前もって注文してあったし、会場は「身内だけ」みたいな気安さがあった。
会席膳の中の大きく区切られた部分が、更に小さくいくつにも区切られて、その中に一つずつ、小鉢が入っているのが目新しかった。 とにかくたくさんあった。 「少しずついろいろなものが食べられていい」と言うのがみんなの感想だ。
その中に、ブロッコリーの小房とくし型に切ったトマトと、海老が彩りよく盛られた一鉢があった。 次々と小鉢を空にしていた時に、斜め前にいたK子さんが、「ここに海老がのっていたの?」と尋ねる。 「うん、のっていた」と回りは言う。 「じゃぁ、ここの三人だけが海老無しなんだ」と。
小さな海老一匹のことだから、店に文句を言うほどのことではないのかもしれないが、店のミスであることは明らかである。 言ってもらったほうが店のためだったとも考えられるが、この件は、結局そのままで終わった。
些細なことではあるが、「海老無し」だった三人は、おそらく、そのことを完全に忘れることはないだろう。 その後のビンゴゲームで、もらった景品がだれそれよりも悪かったなどということはすぐ忘れてしまっても、「三人だけ海老がなかった」話は、笑える思い出になったとしても、案外記憶には残るに違いない。 「そうそうあの時は・・・」と、思い出すこともあるだろう。
「些細なこと」は、意外と人の記憶に残るものなのである。 たとえば、大きな借金の場合は、返す方も忘れはしないのだろうが、貸した方も催促しやすいと言うことはある。 しかし、ちょっと小銭の持ち合わせがなくて・・・などと言うケースの借金は、借りた方は忘れるかもしれない。 しかし、貸した方はなかなか忘れないものだ。
以前、食事をした店で、出された湯飲みに口紅が付いていたことがあった。 代金を払いながら、そのことを告げたが、私はもう二度とその店に行く気はない。 もちろん「申し訳なかった」と詫びられたが・・・。
店にとっては、取るに足らない「些細なミス」も、結果的には幾人かの客を失う可能性があると言うことである。
私自身、友達をある場所に案内すると言う口約束を果たしていないことが、ずっと気になっている。 今年は暖かくなったら、何はさておき出かけなくてはと思っている次第である。
何事も「些細なこと」ほど大事にすべきなのだと私は思う。 ひいてはそのことが「人間性」を問われることにつながると思うからである。 些細なことの積み重ねで、お互いの信頼関係を作り上げているのが人間社会というもの。 心しなくてはいけないと、思っているところである。