私 の 性 格  

 

10’9’27
 人には人それぞれの性格がある。 もって生まれたものもあれば、育つ過程で身につくものもあるのだろう。
「自分の性格が嫌いで、何とか直したい」という新聞の身の上相談を見たことがあるから、自分の意思だけではどうにもならない面があるのかもしれない。 大体、自分で思う性格と、他人の見た性格とは一致するものなのだろうか。 

 私は、客観的に性格を判断してもらう経験を二度している。 最初は、学生時代に、就職を控えて受けた「性向調査」なるものだった。
 どういう方面に進むのが向いているかの判断に使うためだったのか、進むと決めた方向が適しているかどうかの判断だったのか、細かいことは覚えていないのだが、設問に答えていく方式だったと思う。 その内容は記憶にないが、出された結論だけはしっかり覚えている。

 『やや病的な内向性』というのがそのとき出された結果だった。 自分自身、内向的な性格であることは承知していたが、「やや病的」ときたのには、いささか引っかかるものがあった。 家族や、親しい友達には「確かに」と言われたが・・・。

 二度目は北海道旅行の折、五稜郭ではなかったかと思うが、「コンピューターによる性格診断」の出来る場所があった。 五十年以上昔のことで、「コンピューター」の何たるかも定かには知らなかった頃の話である。
 これも設問に答えたのだろうが、「入力した」とは考えにくいので、紙にでも書いてそれを使ったのではないかと思う。 多分、いろいろと性格を判断されたのだろうが、私がその「的中」にかなりのショックを受け、その後も折に触れ思い出すそのときの判断の一つが、「肉親に対する情が薄い」というのであった。

 当時の私は、自分の気持ちの中にある「冷たさ」を自覚していた。
 物心ついたときから病人だった母を十歳で亡くし、父も高校生の時に亡くなった。 父が元気だった頃には、当然のことながら何の気兼ねもなく住んでいた家も、父亡き後は兄一家の居候的立場となり、甚だ居心地の悪い場所になっていた。 休日もなるべく家にいないようにと、よく展覧会のはしごをしていたものだ。 今思えば、まだ兄も三十代で、難しい妹の気持ちまでは測りかねていたのだろう。
 十九歳年上のたった一人の姉は、私とはものの考え方がかなり違うので、特に仲の良い姉妹ということもなく過ぎていたが、姉はそれなりに心配をしてくれていたようだ。 次兄も、私のすぐ上の兄もそれぞれ近くに居を構えていたが、次兄の兄嫁とは、どちらが小姑か分らない関係だったし、唯一愚痴を聞いてくれたすぐ上の兄は、結婚後間もなく、自分の子の顔を見ることもないままに急逝した。 前日、たまたま行きあった時に、「今夜来ないか」と言われたのが最後で、翌朝の通勤途中、心臓発作であっけなく二十八年の生涯を閉じてしまった。

 その後の私は、兄にも姉にも気持ちの上でちょっと距離を置いていた。 それが、自分が傷つくことから自分自身を守る一番の方法であると思っていた。 そして、それが心に潜む「冷たさ」の原因だと分析していたのである。 ただ、子供の頃、両親には本当に可愛がってもらったという思いが私の支えになっていた。

 私自身が結婚して、新居に落ち着いたときには、「休日でも気兼ねなくいられる場所ができた」と思ったものである。 しかし、生まれた娘には、難産の末の知的障害があり、長生き間違いなしと思っていた夫も五十代で亡くなり、「家族運の悪さ」は尾を引いていた。

 五十歳を目前に、一念発起、運転免許を取ったときには、教官に「あなたは大きな事故を起こすことは絶対にない人だと思うよ」の一言を頂戴した。

 これらのことを総合すると、私と言う人間は、『肉親に対する情の薄いマイペースの人間で、やや病的な内向性のため、なかなか人になじめず、度胸がないので大きなことはなし得ない』と言うことになるのだろうか。 
 確かに、「家族運の悪さ」とあいまって、私は、何事にも「自分のペースを守り、悪あがきはせず、思うようにならないことにはきわめて諦めの良い」人間になってしまったようである。 「孤独が好き」とも思わないが、一人で行動することを、少なくとも苦にはしていない。

 『人生、なるようにしかならない』。 これがわが七十余年の人生で得た結論と言うのも、いささか寂しい気がしないでもないが、「そういう性格」と思えば、これもまたいたしかたのないことなのである。    

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