戦後の復興

04’3’23
 アンコールワットを中心とする、カンボジアの遺跡ツアーに参加したことが、かの国の人々の生活を垣間見る機会ともなった。 ほんの通りすがりにちらりとのぞいた程度のものではあるのだけれど、思い出したり、考えさせられたりすることが多かった。
 カンボジアと言っても首都プノンペンあたりとは事情が違うだろう。 私が見たのはカンボジアでは三番目に大きい町、シェムリアップの生活である。

 日本の戦後と似ていると言うのが最初の印象だった。 あの見事な遺跡を残した文化と、現在の人々の貧しさとのギャップは、そのまま京都、奈良に素晴らしい文化財を抱えながら、食べることに追われた終戦前後の我々の姿である。
 粗末な、椰子の葉で覆われた家は、焼け野原に焼けトタンで作ったバラックでの生活を思い出させる。 その中でひもじさと寒さに耐えた我々のほうが、寒いだけ過酷だったのかもしれない。

(寺院の庭の小さな学校)

 ガイドのソクさんは27歳の青年。 「勉強したかったけれど、戦争でできなかった」、と言う。 日本語をマスターし、ガイドとして働いている彼は、大変な努力をしたに違いない。 戦争中の日本も、中学生以上は軍需工場への動員で勉強はできなかった。
 戦後50年余を経て、当時の「卒業証書」をやっと手にできた人の話が新聞紙面に登場することがある。 東京大空襲は3月10日、九死に一生を得たものの卒業式どころではなかった人たちなのである。

 ソクさんは「日本のように、早く復興したいけれど、学校も足りないし問題が多いから」と語る。 確かに、日本の戦後は「奇跡的」と評された目覚しい復興振りだった。

 三毛作も出来るカンボジアの稲作は、広い水田にタネをばら撒くと言う。 日本のように植えれば収穫量の上がることを知りながら、面倒はしないのだそうだ。 日本と違い、土地が広いと言うこともあるのだろうが、国民性の違いが大きいのだろう。 いい米はねずみの被害が多くて収量が減るとか。 日本なら先ずねずみの駆除を考え、少しでもたくさんの成果を得ようとするだろうから、国民性の違いとは面白いものである。 そんな国民性だから復興もはかどらないのでは、とソクさんは危惧する。

(教室風景)

 思えば、戦中戦後は日本中が一つになっていた時代だった。 それが戦争によるものだったことは残念だけれど、それが早い復興につながったことは否めないだろう。
 戦後の日本も次第に豊かになり、豊かになりすぎて精神の貧困を招くに至っている。

 「どこそこの雑炊は箸が立つ」などということが話題になった時代を思うと、隔世の感がある。
 少し説明を加えよう。 当時はひどい食糧難で、町の食堂の雑炊も薄かった。 汁の中にわずかな米粒が浮いているのでは箸も立たないと言うのである。 「箸の立つ店」は人気があるというわけだ。 そんな食生活だから、肥満も糖尿病も「あるわけがない」。

 しらみが媒介する「発疹チフス」が流行り、学校の帰りに街角で、背中に噴霧器の筒先を入れられてDDTの散布を受けたり、今なら人権問題に発展しかねないこともあったけれど、それだけ「切羽詰った」事態だったのだろう。 

 四半世紀にも及ぶ内戦の影響を今も引きずるカンボジアでは、子供は多いが年寄りの姿はない。 平均寿命は六十歳と言うことだ。 一生懸命働く人の姿を目にしない。 失業率も高いようだ。 出稼ぎも多いらしい。 「日本語を覚えれば仕事が増える」と聞いた。 観光客相手の仕事と思われる。

(観光バスを見る子供達)

 日本の戦後10年に比べると確かに復興のテンポは緩やかだ。 貧富の差は大きいようだが、「食べられない」ということはないのかもしれない。

 不足している学校を作り、子供達が学校に行ける環境が整い、そこで勉強する子供たちが成人となった時に、この国は大きく変わるのだろう。
 終戦後、学校が戦災にあった私たちは隣の学校に間借りをしていた。 冬になってもガラスが入らない状況の中でだったが、曲がりなりにも勉強できたことはしあわせだった。
 自分自身の昔を思い出すと共に、この国の前途を考えさせられたことだった。


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