私の住む羽村市から隣接の福生市に向かう多摩川の堤防は、私の散歩コースの一つである。
四季折々に表情を変える多摩川に沿っての散歩は楽しい。デジカメ片手の散歩では、鳥だの、花だの、足をとめたくなる物には事欠かない。
対岸の草花丘陵の春霞み、釣り人の姿の涼やかな夏の朝、秋の紅葉、冬の雪景色・・・、見慣れているはずの景色に感動させられる。
この散歩道の途中に枝垂れ柳の大木があった。
奥日光、小田代が原に「貴婦人」と呼ばれている白樺があるが、このしだれ柳は、私にとっての「貴婦人」だった。
黄緑色の芽を吹く春、緑の深まる夏、黄葉の秋、落葉の冬。吹く風に柔らかくなびき、夕日には美しいシルエットを見せる。
こともあろうに、この「私の貴婦人」が枯れてしまったのだ。水辺ぎりぎりにあったから根元が流れに洗われ、根が露出してしまったのだろうか。何だか元気がないみたいだなと思ってから、完全に枯れてしまうまでの早かったこと。去年の春には青々としていたのに、一年もたたない今、太い幹は途中から折れ、真っ黒な枯れ木になってしまっている。
冬の落葉樹でも、生きている木には「勢い」がある。近寄って見れば厳寒の頃にはもう小さな芽が見えているものだ。一方、花を咲かせていても樹勢が衰えてくれば枯れ枝が目立ち、次第に花数も減り、衰えていく。当然樹木にも寿命があるのだろうが、「衰えていく」様はわびしいものである。
「あんなに生き生きしていたのに、一年後のことはわからないものだ」と、枯れたしだれ柳をわが身に置き換えて考えてしまう。私自身も、今日は元気でも、明日のことは分からない年齢になっている。
無残な姿をさらしているしだれ柳もやがては土に還り、川べりにはまた新しい木が育っていくのだろう。
一見悠久と思える川の流れも「方丈記」の冒頭にあるように、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。栄枯盛衰は自然の流れ、止むを得ないことである。
今日の散歩で、しだれ柳の枯れた姿をカメラに収めた。 散歩道の楽しみでもあり、潤いでもあったものが失われたけれども、現実にこの木が朽ちていく様子をしっかり見守っていこうという気持になっている。