06’1’27寒中、木々の芽はもう春を迎える準備を終えている。 多摩川べりにそびえ立つ欅も、程なくやわらかな緑の若葉に覆われることだろう。 のびのびと心地よげに四方に枝を伸ばしている欅である。自然の中を歩きながら目にする木々は、当然のことながら、「自然のまま」の姿である。 日の当たる側に大きく枝をはり、葉を広げ、風に逆らうことなく風下に向かって枝を長く伸ばす。 弱いものは淘汰され、ところを得た高木、低木がそれぞれの命を生きる。 その場所に応じた姿かたちを保ちながら・・・。 それは、決して見苦しい姿とはならず、ある時はたくましく、ある時は繊細な枝振りの美しさを見せている。
山の柿 さて、我が家の庭木に目を移そう。 気の毒なものである。
植えた時点では、いずれも「苗木」であり、植えた人間もまだ若く希望に満ちていた。 我が家の庭に、程よく調和し、季節季節にはきれいな花が庭を彩る光景を思い描きつつ植えたものだろう。 しかし、時の流れは猛烈な速さである。 あっと言う間に木々は大木になり、人は老いる。大きくなった木の手入れには体力が必要である。 植えた人間の体力が下降気味になる頃に、木々はまだ壮年期である。 壮年期の木々に対峙するのは、正直、しんどいことである。 さりとて、我が家一軒だけ、住宅地のジャングルになるのも勇気の要ることであるから、何とかしなくてはならない。
「せっかく植えたのだから切りたくはない」と、思うのも人情である。 ましてや「命ある」ものである。 切らずにすめばそれに越したことはない。 その結果として、木々には無理を強いることになる。大きく延びた木は「日がかげる」と芯を止められ、「隣に迷惑だから」と枝を切り詰められ、「風通しが悪い」と枝抜きをされ、人間の好みで剪定され、窮屈な空間で一生懸命生きていくことになる。
我が家の楓
梯子を上ったり降りたりして刈り込んだり、剪定したりした木を、下から眺めるのは、それなりの満足感を得るものである。 だが、木にとっては決してうれしいことではないだろう。庭木が一体何本あるのか数えたこともないけれど、ぶつかり合いながらごちゃごちゃとある。 余りに込みすぎているからと、思い切って一本を切り、「あぁ、すっきりした」と思っても、翌年には、そこにもう一本植わっていたとは思えないほど、両側の木が伸びている。 木を選び、それぞれがのびのびとできるようにしてやれば、そのほうが良いのかもしれないけれど、いまさらそれも難しい。
新築のお宅の庭先にきれいに植えられた木々を見ると、「いいなぁ」と、昔を思い出し、懐かしさも感じるものの、「30年後は大変」と、ついつい思ってしまうのである。 自然のままに生きるのは、人間同様、木々にとっても難しいことなのである。