お 正 月

06’1’11
 子供のころは本当に正月が楽しみだった。
 戦争前の、一見平和な時代である。 植木屋が来て、小さいながら門松が門の前に立てられる。
 暮れも押し詰まって、「のし餅」が届くと、翌日あたりに父が「ちょうど良い硬さになった」と言って、几帳面に寸法を測って切る。 切られた餅を広げたござの上に並べていくのが私の仕事だった。 冷蔵庫もない時代、我が家で一番寒い北側の部屋に運んで、並べるのだった。
 今、スーパーで買う切り餅は小さいが、父の切るお餅はその倍くらいの大きさだったように思う。 子供だったから大きく思えたのかもしれない。

 神棚や、台所の荒神様や、庭隅のお稲荷さんに上げた小さな鏡餅の記憶はあるのだが、床の間に置かれたであろう大きな鏡餅の記憶がない。 ひな祭りには床の間の掛け軸も立ち雛の軸になっていたから、正月には正月らしい絵柄の軸がかかっていたのだろうと思うのだが。

 台所からは豆を煮る匂いが漂い、正月気分はますます高まる。
 みりんとお酒に「屠蘇散」を入れた「お屠蘇」が好きで、飲み過ぎたのか、コタツで寝ていたら、「こいつ酔っ払ってるよ」と言う兄の声が遠くで聞こえたのも思い出だ。
 正月にしか出されない松葉と松ぼっくりの描かれたお皿で、おせち料理を食べるのもうれしかった。

 正月には着物を着せてもらうのも楽しみの一つだった。 明治生まれの母は、お盆には絽の着物、正月には富士絹の着物を着せてくれた。 この着物には、書初めの墨がいくつかはねてしまっていた。 絞りの三尺を締めて、新しい下駄を下ろして、私の晴れ姿は出来上がる。
 「本当はウサギだよ」と兄が教えてくれた「狐の襟巻き」は、年の離れた姉が買ってくれたものだった。

 それもこれも一年生の時に始まった戦争と、母の病状の悪化で、思い出のかなたの話になってしまった。
 

 正月をまた楽しく思えるようになったのは、私自身が子供の親になってからのことである。 家族のために「おせち」を作り、家族一同着物を着て過ごすことにしていた。 ウールの着物が登場して、子供にも気兼ねなく着せてやることができた。 もっとも、息子は少し大きくなれば、おとなしく着物を着てはいなかったけれど。

 夫が亡くなり、息子たちも独立してからの正月は、「子供や孫が来る」楽しみになった。 しかし、自分も年を重ね、子供たちもそれぞれの家庭が落ち着いてくると、私は「みんなが来るのはうれしいけれど、面倒だな」と言うのが本音になってきた。
 以前のように正月休みを長く取る店もなくなり、元日から買い物もできる。 おせちを作る家も減ったようで、この暮れは、「材料」もほんの少々しか置かれていなかった。 出来上がったものの売り場は広く、高価な「お重詰め」もよく売れると聞く。

 そもそも女を休ませるための「おせち」と言う説もあることで、毎日が正月みたいな生活のこの節では、特にご馳走を作る必要もないし、おせち料理は、若い人の口には合いそうもない。 我が家でも、一応おせちは作るが、息子たちが来る日は「鍋料理」に決まってきた。

 世の中が変わり、暮れに忙しい思いをしなくても年を越せる時代は、年をとった私には、ありがたいことである。 少なくとも、「面倒」に思わず、歓迎してやれるだけでもいい。 残念ながら、最近は「屠蘇散」が簡単に手に入るわけではなくなり、ワインや、清酒で新年を祝うことになってしまっている。
 時代とともに正月のありようも大きく変わったが、正月を楽しみにできた若いころが懐かしく思い出されることである。

 


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