焚 き 火   

 

09’11’11
 秩父の琴平丘陵にハイキングした時のことだ。 西武鉄道の影森駅からこのハイキングコースのスタート地点となる大渕寺へ向かう途中、年配の女性が桑畑で焚き火をしている風景に出合った。
 桑畑はきれいに整理され、出たごみを燃やしているところのようだった。 もくもくと上がる白い煙が風になびいているその風景は、まことに懐かしかった。 昔はよく見かけた風景だが、本当に久しぶりに出会えたと、感慨深いものがあった。

 十一月も半ば。 落ち葉の季節である。 日光の二荒山神社で、紅葉の落ち葉を竹箒で掃き集め、落ち葉焚きをする神職と巫女さんの姿がテレビニュースで放映されていた。 水色の袴の神職と赤い袴の巫女さんが、落ち葉をはき集める様子は、季節感たっぷりで、気持ちの和み、安らぐ風景だった。

 かつては、どこででも普通に行われていた落ち葉焚きも、今では落ち葉はただのごみとして扱われる時代である。 集めてゴミ袋につめたものを、ゴミ回収車が持っていく。
 我が家では、木の下の落ち葉はなるべくそのままにして土に還したいと考えたり、道路に散るものは庭隅に積んで堆肥にしようと思ったりはしているが、これも都会の真ん中ではとてもできることではない。
 街路樹の落ち葉は近所の人には厄介者であり、庭木の落ち葉はしばしばお隣さんとのトラブルの原因にもなると聞く。
 銀杏の落ち葉で黄色く染められた道や、かさこそと落ち葉を踏んで歩く道が喜ばれるのは、ごくごく限られた例になっているようである。

 落ち葉焚きを市街地でうっかりやろうものなら「通報される」と言う世の中である。 処罰の対象にもなるらしい。 ダイオキシンの発生を防ぐためと言うが、落ち葉焚きでダイオキシンがそれほどに発生するとも思えない。 「ついでに」家庭内のごみをかまわず燃す人がいると言うことかもしれない。 そんな心配をするほど、公徳心も地に落ちたと言うことだ。
 この節では、お正月の「どんど焼き」だけが、公然と行える唯一の「焚き火」になっている。

 終戦直後、戦災の焼け跡の整理に来ているおじさんたちは、寒い朝は焚き火をしていた。 「焼け跡」である。 燃やすものには困らない。 通学途中の私たち小学生に、「寒いから少しあたって行けよ」といつも声を掛けてくれて、私たちも空けてもらった大人の隙間に入って、少し暖まってから登校したものだった。

 私たちの学校は戦災で焼失し、少し離れた隣の学校で「間借り」の状態だった。 焼け跡のバラックから通学する友達もいる大変な時代だったけれど、今思うと、大人もおおらかだったし、子供たちも素直でしっかりしていた。

 私は焚き火が好きだった。 一人でも、じっと燃える火を見ながらいろいろなことを考えるのが好きだった。 近年は、何もかもが、すっきりと「きれいになった」世の中ではあるが、会話の弾む焚き火の楽しさも、焚き火で作る焼き芋の味も知らない人間が多くなり、世の中はすっかりギスギスした味気ないものになってしまっている。
 童謡『焚き火』の一節。 『山茶花、山茶花、咲いた道、焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き〜♪〜』。 今年も山茶花は咲いているが、この「童謡の世界」は、もう遠い昔の話になった。 寂しいことだ。

 焚き火には人の気持ちをはぐくむ上で、かなり大きな効用があったような気がしている私である。

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