10’6’10
今年の五月には葬儀が二回、法事が一回あった。 その二回の葬儀が、いずれも、亡くなった日から少し間をおいて行われた。 「友引」が入ったためである。
大安は結婚式を初め、祝い事には最適の日とされ、仏滅は、最悪の日であり、友引は「友を呼ぶ」ので、病気見舞いや葬式は避ける。 いつの頃からか、こんな習慣ができている。
しかしながら、大安吉日を選んで結婚式を挙げた夫婦が、程なく離婚する例は枚挙に暇のない状態だし、仏滅に式を挙げた私の兄夫婦は、「末永く」仲良く暮らしていた。
「友引」も、もともとの意味は失われ、「友を呼ぶ」とこじつけられて、病気見舞いや葬儀を避けることになったようだ。
私は、病気見舞いに関しては、見舞う方が気にしなければ構わないことだと思うのだが、病人の方が恐縮でもするのだろうか。
一方、葬儀が友引の入ることで先延ばしになるのは、まことに不都合な面があるのではないかと想像する。 ただでさえ当事者には大変な出来事の家族の死である。 スムーズにことが進んだとしても、何かと気疲れすることが多いのに、その時間が増え、更に暑い時期などには、さぞ気の重いことだろう。
火葬場が友引に休場するのでは、葬儀を延ばすのも止むを得ないことだが、最近は友引には関係なく仕事をしているところも増えていると聞く。 死ぬ時には友引を避けて・・・と言うわけにも行かないのだから、友引の後は火葬場も忙しいに違いない。
キリスト教や浄土真宗では、特に問題にしないというが、そもそも友引も仏滅も仏教とはまったく関係のないことらしい。
お寺さんの葬儀は友引に行われることも多いそうだが、それは、「友引を避ける」習慣から、お寺さんが時間的に余裕ができるためなのかもしれない。 友引はお寺さんの休養日でもあろうか。
都会ではあまり気にしないというが、東京と言う大都会の一部ではあっても、相変わらず「友引」で葬儀が先延ばしされる当地は、さしずめ「東京の田舎」と言うことになるのだろう。
考えようによっては、根拠もないことで生活を不自由にしているのだから、おかしな話にも思えてくる。
迷信の類をあまり信じない私にとっては、天気が良く、元気で、差し迫る忙しさもない日が、「大安吉日」であり、「友を呼んで」、一緒に山でも歩いていたいと思うのである。
友引にも仏滅にも左右されない生活が望ましいとは思うものの、「郷に入れば、郷に従え」ということもある。 この地に住む限りはそれなりに気を使いながら暮らすことになるのだろう。