02’8’10
東京が連夜の空襲を受けていた終戦前の春浅いころ、高円寺の我が家は、父、病気の母、中学生の兄、小学校四年生の私の四人家族だった。姉は子供と義兄の田舎に疎開し、上の兄二人は軍隊にいた。
空襲警報が出ると、私は隣の家族と、南へ二キロほど離れた済美山という小高い山の横穴防空壕へ避難することが多かった。
その晩はなぜか家にいた私に、父が今夜は危なそうだから一人で今から済美山に行けと言う。
照明弾に照らし出される凸凹道を急いだ。「新道路」と呼んでいる道だった。空にはサーチライトの光が交錯し、高射砲が轟き、消防自動車のサイレンが四方に響いていた。
防空壕の中で後から来た人が、「高円寺の四丁目から五丁目までやられているよ」と話すのを耳にした私は、いても立ってもいられなかった。四丁目と五丁目との境界線は家の前の道なのである。
警報の解除されるのを待ちきれず、私は防空壕を飛び出した。青梅街道を横切り、家の無事が確かめられるところまで走り続けた。新道路の高円寺橋あたりは避難してくる人でごった返していた。火はもう目前に迫り、人々の顔は赤く、木のはじける音とともに火の粉が舞い上がる。人の流れに逆らって、私はとにかく家に戻ろうとしていた。
名前を呼ばれたような気がして横を見ると兄がいた。私を迎えに来たと言う。夢中で家に帰った。家では寝たきりだった母が縁側の柱に寄りかかっていた。母を背負う帯も置いてあった。
幸いにも我が家は戦災を免れて、戦争は終わった。
今、JR中央線と高円寺・中野間で立体交差する環状七号線は車の列の絶えることがない。この道路こそが、あの晩、空襲の大混乱の中を私が走り、奇跡的に兄と行き会えた「新道路」なのである。
高円寺橋も、桃園川が暗渠となった今はない。両親も早く亡くなり、兄も二十台の若さで他界した。
知る人もいなくなった半世紀前の出来事である。