04’7’24「オーシンツク、オーシンツク」、よく鳴いている。今年は夏休み前から鳴いている。去年の初鳴きは八月十一日。それでも早いと思ったものだ。偶然にも亡夫の誕生日だったので、よく覚えている。
夫は生きていれば七十五歳。元気でいても何の不思議もない歳だと思われるのに、亡くなってもう十八年にもなる。若いころ、「つくつく法師」が鳴き始めると、「あぁあ、今年の夏休みも終わるなぁ」と、ため息まじりに話す人だった。教師という職業は、自分には不向きだとよく口にしていたし、退職したら畑を借りて「花つくり」に精を出し、「焼き物」をして楽しむという夢を描いていた。
この節は教師への締め付けが厳しいのか、夏休みも原則として毎日出勤だという。昔も原則は原則だったし、日直や何やらで、夫婦で同じ仕事をしていたわずかな期間を考えても、夏休みに揃って家にいられたのは一週間あるかないかというのが現実ではあったけれど、子供たちのいない学校は気が楽というのも事実だった。
教師といえども、世間で思われるほどのんびりと夏休みを楽しめたわけではなかった。まして管理職になってからは、夏休みなど取れるわけもなく、ただ気持の上で、いくらか「夏休み」をしていたのではないのだろうか。
今年のようにまだ夏休みにもならないうちから「つくつく法師」が鳴き出したのでは気の毒だったなと、思わず笑ってしまった。まだ二十代のころ、職場で子供が擦り傷を作って見せに来たりすると、「そんなの大丈夫だよ。赤インクでも塗っといてやろうか」などと構っていた。校長の評価は「大きな声を出さないでも、子供を自由に扱える先生」ということだった。実は拳骨が飛ぶこともないわけではなかったのだけれど。
我が子をお風呂に入れてくれながら「肩まで沈め」と大声を出すので、「ここは校庭ではありません」と私が顔を出すようなこともあり、今ならさしづめ「問題教師」と言われそうな一面も持っていた。しかし、受け持ちの子供たちにも好かれ、父兄の信頼も抜群だったのだからおかしなものである。亡くなってからも、多くの人に「良い先生だった」と言われ、「本当に良い先生だったらしいね」と、息子たちと話したことだった。息子たちがまだ小学生のころ、終業式の日に遅く帰宅し、「お帰りなさい」と玄関に出迎えた子供たちにいきなり「まだ起きていたのか」と言うので、「うちの子供たちも今日は終業式だったのよ」と私が口を挟む一幕があった。仕事で人様のお子さんの成績をつけ終われば、我が子の成績にはさほどの関心はなかったとも見えた。先生としては良かったらしいけれど、父親としてはね・・・と私が思う所以である。
一緒に旅に出た娘が、お土産を買いながら「仏様にもお菓子を買おう」と言い出したことがある。バレンタインデーにはチョコレートが仏壇に上がっていた。娘は私が思う以上に父親思いなのかもしれない。確かに、折りに触れ「お父さんが生きていれば・・・」とか「生きていた時に・・・」と話す娘だ。夫が生きていれば、今とは違う生活の面白さがあったのだろうと思うと残念である。
遠くで雷が鳴り、「つくつく法師」の声がぴたりとやんだ。
夏休みは始まったばかりである。