10’11’10
用件は「長寿会への入会勧誘」だった。 昔は「老人会」と言ったものだが、いつの間にか「長寿会」になったと見える。
入会する意思のない旨を伝えたが、「入ってもらわないと、助成金がもらえない」とのことで、否応なしに入れようと言う魂胆らしい。 役も回ってくるのだろうし・・・、と言うと、二〜三年は大丈夫だと言う。
活動内容のプリントと、入会申込書をおいて行かれた。 プリントに「同じ時代を生きたもの同士、話題も趣味も共通だから・・・」とあるのには、正直、「参ったなぁ」である。 俳句の作品が並んでいる中には知り合いも何人かいた。
昔、短歌を詠むことに熱心で、さる同人誌の同人になっていたこともあったが、主宰者が亡くなり、休刊になったのを機に、私の熱も冷めてしまっていた。 当時の同人誌をついこの間処分したばかりだった。
ゲートボールも、輪投げも、カラオケも、旅行もそれぞれ楽しいだろうとは思うが、現在の私は、今やっていることをやめてまで参加する気にはなれない。 奉仕活動の神社の清掃も、「そう言えば亡くなった義姉が良く行っていたなぁ」と思うのだから、昔と同じなのだろう。
時間に追われて、いくつかのサークルをやめたりしていると言うのに、新たに意に染まない会で、活動をするのも納得の行く話ではない。 「助成金のための入会」と言うのも、はっきり言えば気に入らない。
年寄りの多い今の時代に、三町内会で会員百人というのも少ない気がする。 入会申込書には、「助成金申請以外には使いません」とあるから、確かに助成金をもらうための入会勧誘なのだろう。 六十歳以上が有資格者らしいが、今時、六十歳の人は自分を年寄りだなぞとは思ってはいまい。
お付き合いだと思って入るべきか、とも思うが、活動に参加する当てもなく、それでいて役は回ってくるというのもまた、ストレスの元以外の何者でもない。 ろくな働きはしなかったものの、二年続いた町内会の役が、来年三月でやっと終わり、やれやれと思っているところである。
夫婦そろっていれば仕事の分担もできるだろうが、我が家では、何から何まで一人で片付けていかなくてはならない。 先の短い年齢になっているし、できるだけ、自分のしたいことに時間を使いたいのも事実である。
考えあぐねて、亡夫がいたらなんと言うかなと考えた。 生きていれば、私が入らなくても入ってくれただろうと思う。 「一生この地に住むのだから仕方ないだろう」と言うかも知れない。 そういう人だった。 そして私は、「それではいつになっても進歩も向上もない」と異を唱えることになるのである。
「なんで次々と面倒な話を持ってくるのよ」と、気が滅入る。 一晩迷ったが、やはり、どう思われてもいやなことは断ろう、と決めた。 翌朝、隣のダンナサンに、「助成金のためとは言え、出られない会に入ることには抵抗があるので、申し訳ないが・・・」とお断りした。 「誰にも事情はあるから・・・」と、言ってくださって、話は終わったが、関係者には悪い印象を与えたことだろう。
何を言われようと、とにかく私はお断りしてすっきりした。 「わからずやのバァサン」と思われただろうが、二度とお誘いはあるまいから、長寿会に関しては一件落着である。
町内会とも、ご近所とも、最低限のお付き合いはしてきたつもりである。
五十年を経て、私もそれなりに図太くなり、周囲に気ばかり使うこともなく、わが意を通せるようになったと言うことかもしれない。
深い悲しみと交換に得た今の自由を、障害のある娘が元気で仕事に行けているうちは、私自身のために使いたいと思っている。 私の人生も先は知れている。 残り少ない人生を可能な限り自分のために使いたいと願うのは、やはりわがままなことだろうか。 助成金要員としても役立たずで、申し訳のない気もしないではないが、長寿会とは生涯ご縁のないことになりそうである。