06’6’27もう四十年も前のことになるのだろうか。 今は亡き義兄が我が家に泊まったことがあった。 翌朝、「羽村はいいねぇ。 鶯の声で目覚めるなんて素晴らしいことだよ」と言う。
都心暮らしの義兄は、生まれ故郷で聞く鶯の声にひとしおの感慨があったのだろう。 確かにそうだなとは思うものの、「慣れ」とは恐ろしいもので、私はさほどには感じなくなっていた。春になれば鶯の鳴くのが当たり前と思った時代も瞬く間に過ぎて、ここ二十年ほどはめっきり少なくなってしまった。
鶯だけではなく、庭に来る野鳥の種類が、どんどん減ってきていた。 テレビのアンテナで鳴くカッコウや、河原で鳴くヨシキリの声に初夏の訪れを感じる生活が、次第に「過去のもの」になって行く。 ギャーギャーと美しい姿に似合わぬ悪声のオナガも、めったにやって来なくなった。 昨年はついに庭で鶯の声を聞けなくなった。 メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリ、ツグミ、それに我が家の住人、スズメは相変わらず姿を見せる。
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ところが、今年、うれしいことに鶯がまた来た。 三月の何日だったろうか、まだ上手とはいえない鳴き方で庭に来たときには、自然と頬の緩むのが分かろうと言うものだ。
驚いたことに、以来、六月末の今日まで、この鶯が我が家で鳴かない日がないのである。 鳴き方もすっかり上手になってすばらしい美声を聞かせてくれる。 昨年のご無沙汰の埋め合わせのように、日に何度もやってくる。鶯は、元来警戒心の少ない鳥なのだろうか。 庭で草むしりなどをしていても、すぐ横の木で盛んに鳴く。 近くで木の剪定などを始めると、さすがに飛び立つが、声の聞こえなくなるほど遠くには行かず、またすぐに戻ってくるから「懲りてはいない」らしい。
姿を確かめようとせず、知らん顔をしているのが鶯には安心感を与えているのかもしれないが、この小さな鶯一羽に、気持ちがいかに和まされるかを改めて感じている。
梅雨の晴れ間の夕方、家に入りながら「今日はもう来ないのかな」と思っていると、タイミングよくまたやってきて大きな声で鳴く。 今日は鶯のさえずりに合わせて、どこからともなく「偽鶯」の声が聞こえてきた。 「谷渡り」に合わせて「偽鶯」も「谷渡り」。 笑ってしまった。 本物と偽者の競演だ。 偽者が結構うまいのがおかしい。
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娘が、「鶯が良く鳴くねぇ」と言う。 「本物も、偽者もきれいな声で鳴いているよ」と応える。 まことに平和なひと時である。
しかし、この鶯、この三ヶ月余り、いつも一羽だけで来るのがいささか気になるところなのである。 そろそろ山に帰る時期だろうに。