10’1’22
一人暮らしの友達は、お正月に見える子供さんたちには、「お寿司とピザ」だと言う。 その言葉が耳に残っていたので、暮れに新聞折り込みできた「お寿司とピザ」のチラシは取っておいた。 近くに住む甥の家でも今年は「お寿司とピザ」にして、嫁いだ娘たちには同じ日に来るように連絡もしたし、予約もすでに済ませたと言う。
「なるほどなぁ」と、「年末年始は込むので、予約を・・・」と、チラシにあったことを思い出していた。 前日までの予約で「割引」の特典もあるらしい。
我が家も「流行」に乗ることにしようと、息子には、「お寿司の予約をするから、来る日をはっきりして」とメールを送った。
息子たちは元日の夕暮れにやって来た。 嫁御の実家に寄ってきて、「今夜はお寿司」と言う話でも出たのだろう。 あちらのお母さんが、わさびを一本持たせてくれていた。 実家が奥多摩なので、奥多摩産のわさびだ。 お寿司を本物のわさびで食べられるようにとの心遣いである。 前に、自家製のわさび漬けを頂戴したこともあった。
予約した時間になってもお寿司が届かないので、電話をしてみた。 「今すぐ出ます」と、お決まりの返事である。 何のための予約だったのだろうと思ったが、出前の若者は、「バイクを倒しちゃって・・・」と謝っていた。
ところが、少し遅くなったけれど、さぁ食べようと言うときには、何と、私の頭から「頂戴したわさび」は飛んでしまっていたのである。
孫に「わさびは苦手」の子がいるので、全て「さび抜き」で、わさびは「別添え」にしてあったのだが、誰も何も言わず、「別添えのわさび」で食べていた。
息子たちが帰った後、片づけをしていて、銀紙に包んだままのわさびを発見した。 なんてことだ! せっかく持たせてくれたのに・・・! なんとも申し訳のないことをしてしまったと嘆いたところで、「後の祭り」だ。
「本物のわさび」は久しぶりだった。 最近はお刺身を食べるのにも付いてくる小さな袋入りのわさびで間に合わせていたし、必要なときには買い置きの「チューブ入りわさび」を使っていた。 「わさび漬け」を買うことはあっても、わさびそのものを買うことは久しく無かった。
せっかくのわさびを無駄にしたのでは更に申し訳が無いと、それからの私の食事は、「わさび」を必要とするものが多くなった。 お刺身、鯵のたたき、鰯の酢じめ、しめじと三つ葉のわさび和え、・・・、ちょうど友達からもらった「自然薯」があったので、「山掛け」も度々食膳に上った。 変にツンとする辛さではなく、ほのかな甘みもある、「さすが本物」の味わいである。
わさびを下ろすにあたって、小さな「おろし金」を使った。 それは、亡夫が安曇野の「大王わさび農場」から、お土産に買ってきてくれたものだった。 古びた袋に入ったままで、考えてみると使うのは多分初めてだった。
小料理屋などで、刺身の盛り合わせが出される時に、客の前でわさびを下ろしてくれる、あの小さ目の「わさびおろし」を更に一回り小さくしたくらいの大きさで、さすがに、細かくきれいに摺り下ろせる。 良い香りも立つ。
買って来てくれた夫も、おそらく忘れていたのではないかと思うのだが、元気なうちに使うべきだったと後悔しても、いまさらどうにもならない話である。
奥多摩のお母さんにも、亡夫にも申し訳無かったが、小さなおろし金を使いながら、無駄にすることなく、わさびを使い切ってほっとした。
私には、どうも、細かな気配りが欠けていると、改めて思ったことだった。 年を重ね、この傾向は、良くなるよりは、ひどくなる方が確率としては高かろうと思うと、イヤハヤであるが、人の好意を無にすることの無いよう、心しなければと思っている。
後悔と反省の入り混じったわさびだったが、“ほろ苦さ”も“しょっぱさ”も無く、香りと辛味を十二分に堪能できたのは、まことに幸せなことだった。