夜叉神峠で


03’5’23
 山岳写真家、白籏史朗さんの作品に、私はすっかり魅せられていた。写し出された荒々しい山肌の中にさえ感じられる繊細さが好きだ。尾瀬ヶ原の池塘に生えるミツガシワが水面に落とす影の美しさを、私に教えてくれたのも白籏さんの写真だった。花のかわいらしさは知っていた。しかし、葉の陰影がこれほど美しいとは気付かなかった。美しさを見抜く目の確かさに驚く。幾度かテレビに出演された白籏さんの話を聞き、飾らないその人柄にも好感を持った。
 もう十年前の話になる。平成四年十月、ハイキングクラブの仲間と、南アルプスの夜叉神峠に行ったときのことである。落葉松の続く斜面の向こうには、日本第二の高峰北岳から間ノ岳、農鳥岳にいたる、いわゆる白峰三山がくっきりと姿を見せていた。三山から山小屋のほうに目を移した私はドキッとした。白籏さんが山小屋の前に立っているのだ。白髪まじりの豊かな髪、赤銅色の顔、がっしりした体つき、紛れもなく白籏史朗さんその人だ。
  「サインしてもらおう」、とっさにそう思った。幸いにも、私が持っていた地図、『南アルプス北部』は、白籏さんの調査・執筆によるものだった。表に北岳山荘のスタンプを押してあるのが少し失礼かと思ったが、思い切ってお願いした。にこやかに応じてくださった。『私たちの山 私たちの南アルプス 1992・10・4 白籏史朗・於夜叉神峠』 達筆だった。うちの会長が、当日のコースについてアドバイスを受けている様子をカメラにも収めた。「私と一緒に撮ってください」とは言えなかった。
 助手に撮影機材を背負わせ、ご自分は一升瓶をぶら下げて山小屋を出て行かれたのと入れ違いに私は中に入った。そこの売店に『写真紀行 白籏史朗の日本アルプス』という写真集があった。記念に買うことにして店の女性に声をかけた。彼女はものもいわずに外へ飛び出すと叫んだ。「せんせーい、サインしてあげてくださーい」と。身体半分以上が枯れ草に隠れるまで下りていらしたのに、戻ってくださったのには恐縮した。その写真集にはすでに『四季ありてアルプスは美し 白籏史郎』と、毛筆のサインと落款があった。テーブルの前に座られた白籏さんは「お名前は」と尋ねられ、「フルネームで」とおっしゃる。そして、私の氏名と日付を書き加えてくださった。筆の字も見事だった。
 人にサインを頼んだのは生まれて初めてのことだ。「もうこの地図は使えない」としばらくしまっておいたが、「使ってこそ地図ではないか」と思うようになった。今は大事な御守りでもある。以前にも増して、私が「白籏ファン」になったのは言うまでもない。            

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