03’6’16ブラウスを縫うつもりでこの生地を買ったのはいつだったか。シンプルなスタイルでいいと決めて裁ったのは去年の秋、そこでブレーキがかかってしまった。なかなか仕上がらない。
いつも生地を買うときに思うのは「一着分にしておこう。そうは縫えないから」だった。しかし、「これもいいな、あれもいいな」で、結局は二、三種類の生地を買ってしまう。その結果、生地がたまり、現在では「これは何を縫うつもりだったのかしら」と考える始末である。
年を重ね、もう生地を買うのはやめて、あるものをとにかく使うことにしようと思った頃から、なんとなく「やる気」が失せてしまった。やはり、「こんなスタイルの服を」と思いながら生地を選び、すぐ仕事にかからないと気持ちがそがれてしまうようだ。
このブラウスにしても、お正月までに仕上げると決めていたのに、もう夏になろうとしているのだから我ながらあきれる。超簡単なブラウス一枚、やる気になればすぐなのに・・・。
「よく使っていますねえ」とミシンやさんに感心されたミシンも、針がさび付くのではないかと思うほど使わない。たまにズボンの裾上げなどを頼まれてミシンを使うと楽しくて、又やろうと思うのだがどうも続かない。洋裁を正式に習ったわけではないけれど、育った時代が時代だった。終戦直後、生地も自由に手には入らず、普段着は布団地のズボンに編み直しのセーター。よそ行きは姉の銘仙の羽織を直した花柄のブラウスに、兄の剣道の袴が化けたスカートという時代。昭和二十二年、私立中学の面接に臨んだときの服装はこれだった。銘仙だから絹といえば絹ではあったが、下はごっつい剣道の袴だ。十九才年上の姉の苦心の作である。
(やっと完成)
真夏の一張羅は父の麻の着物で、細かい絣模様に、ララ物資(注)のレースをつけたワンピースだ。これは六年生の時の教材だったが、自分でも満足のいく出来栄えで、亡くなった母の浴衣でも同じスタイルのものを二枚縫った。 「時代のニーズ」ということだろうが、当時の婦人雑誌には、素人洋裁を助ける付録が多く、微に入り細にわたって縫い方が記されていて、それを見ながら縫い続けた結果、いつのまにか腕も上がった。
結婚後も、子供達のものも自分のものも手作りにして、結構楽しく、果ては人様のものまで縫わせていただくようになったのだった。子供の手が離れてからは、一日のほとんどの時間をミシンの前に座っているという生活もした。昭和四、五十年代のことだ。確かに既製品のサイズも少なく、太っている人、痩せている人など「規格外」のサイズの人は困る時代だった。私のような素人でも仕事が絶えなかったのは、そういう時代背景があってのことだった。「今は昔」の感がある。
当時読んだ服飾関係の雑誌に「二十一世紀になくなる職業」という記事があって、その上位に「洋裁業」が載っていた。「へえ、そうなの」と思ったものだが、二十一世紀の今日、街の中に「洋裁店」の看板を見かけることはない。
一方、既成品の豊富なことは驚くばかりである。逆に「生地屋」が少なくなり、ボタンなど、気に入るものを見つけるのが大変になった。こうなることを早くから見通す人がいたのだと感心している。
時代は変わったけれど、手持ちの生地は何とかしたい。とりあえず、この裁ったままの生地をブラウスに仕立てることにしよう。(注) 第二次大戦後、衣食住すべての面で極端な窮乏状態になりました。「日本の子供達を救おう」と食料品、医薬品から日用品に至るまでの膨大な救援物資が「ララ物資」として海外のNGOの手で届けられ、1946年から1952年の間に、1400万人以上の日本人がその恩恵を受けたといわれています。
(http://a50.gr.jp/jp/lara.html) から引用させていただきました。