08’2’12
雪が”ひひと降る”と言う状景を見たくて、真冬の北海道にも行った。
雪の降る十勝平野を観光バスはひた走る。 日暮れ近く、車内では寝ている人も多かったが、私は凍てつく窓ガラスに息を吹きかけながら、流れる外の風景に見入っていた。 あたりを白と言うよりは薄ねずみ色に包んで、降りしきる雪。 遠くに、ひっそりと幾軒かの家と木立が見えるだけ。 私は、想像していた通りのそんな風景に満足していた。
1987年春、明日をも知れぬ病人を抱え、病院と家とを往復しながら、なんともやりきれない絶望感を紛らわせたくて車のラジオをつけると、いつも流れてくるのが、吉幾三の歌う『雪国』だった。 この曲が大ヒットしたころだったのだろう。 歌詞も切ない。
まだ五十代と言うのに「今は、気力で生きている状態」と主治医から言われている夫との過ぎ去った日々を思うと、切なく、どうしようもなく落ち込むのだった。
雪が降るのをあきもせず眺めている私を、「好きだねぇ」と笑っている人だった。
桜が葉桜になるころ、夫は逝った。 私は、助けられなかった自分を責め、妙な自信があって、健康管理にあまり熱心ではなかった夫を恨めしくも思い、暗い穴の中に吸い込まれるような深い悲しみの中にいた。
長い間、この歌を聞くと、私は涙を抑えることができなかった。 二十年たった今でも、一人で聞いていると、ふっと昨日のことのように当時の気持ちの蘇ることがある。
『雪の降る町を』にも思い出がある。 シャンソン歌手の高英男が歌っていた、内村直也作詞、中田喜直作曲の歌である。 「すごく好きだけれど、歌詞がよく分からない」と言った私に、当時のこととて、どこでどう調べてくれたものか、歌詞を書いてきてくれたのが結婚する前の夫だった。 その紙をどうしたか記憶にないのだが、ノートの紙だったような記憶はある。 今では、覚えていた歌詞もあやふやになってしまっている。 遠い遠い昔の話である。 “想い出だけが通り過ぎていく♪〜”。 その通りだ。
子供のころに歌った「雪の歌」は楽しかったけれど、大人になってからの歌は、なぜかみんな切なく、むなしさを感じる歌である。
アダモの『雪は降る』を、先日、氷川きよしが歌っていた。 演歌の人なのに、情感豊かな歌い方で、聞かせてくれた。 さすが歌手だなぁと感じ入った。
“あなたは来ない、いくら呼んでも♪〜”。 少々意味は違うのだろうけれど、私の周りにも「いくら呼んでも来ない人」が増えた。“白い雪が、ただ降るばかり♪〜”。 本当に、何もかもを白く覆って行くだけだ。 何もかもが思い出になっていく。
でも、その雪の降るのを眺めていると、私の気持ちは安らぐのだから不思議と言えば不思議である。 雪が悲しみもさびしさも、すべてを覆い尽くしてくれるのかもしれない。 二月も半ば、「春の淡雪」を期待している私である。