友禅の制作者


千切屋治兵衛

野口

大羊居

中井淳夫

安田

花也

倉部






千切屋治兵衛


(1)近代までの歴史

千切屋一門は藤原不比等を祖とし、奈良時代には春日大社の神人工匠(宮大工)をしていました。年に一度花を生ける千切台を奉納していたために「千切花」を家紋に使うようになったといわれ、後に屋号も「千切屋」としました。建設業であるところから平安京建設に参加することになり、以後、京都に居を移してそのまま数百年を過ごしたと思われますが、応仁の乱により近江国の甲賀郡西村というところに疎開しました。千切屋一門の姓は西村ですが、それはこの西村に由来するそうです。他にも京都の老舗一族には西村という姓がありますが、それはやはりそこに疎開した人たちの末裔だと言われています。

1555年(弘治元年)、当主であった西村与三右衛門貞喜は、妻の実家である本島氏が三条室町で法衣業を営んでいたところから、その援助を得て同地で法衣業を営むことになりました。妻の実家に援助してもらって創業とは、後の偉大な歴史からすれば意外です。しかしタイミングは最高でした。この年は毛利元就が厳島の合戦で勝って頭角を現した年であり、混乱の室町時代から群雄が天下統一を目指す本格的な戦国時代に変わる時代の区切りだったと思えるからです。

西村与三右衛門貞喜は、千切屋一門の中興の祖として現在も祭られており、その命日には一門(千治・千總・千吉)が集まるそうです。千切屋は、江戸時代になると法衣業から呉服業へと転業しました。戦乱の世においても宗教だけは金が集まっており、それを狙って法衣業をしていたのが、戦乱がなくなって一般の消費が回復すると呉服業に転業したということですから、よく世の中の流れをとらえていたと思います。

貞喜から数えて3代目には3人の男子がいました。長男が与三右衛門の名とともに継いだ本家は後に断絶してしまいましたが、次男が治兵衛、三男が宗(總)左衛門を名乗って分家し、それぞれ千切屋冶兵衛(千治)、千切屋總左衛門(千總)の祖となりました。さらに5代目から分家した人に吉右衛門という人がありそれが千吉の祖となり以上3家が近代まで残った千切屋一門です。江戸時代には他にも吉左衛門、宇兵衛、五兵衛などの分家もあって、当時の言葉で「千切屋百軒、誉田屋九十九軒」というのがあったそうです。最大時には100家以上の分家があったという意味ですが、それに迫る2位の「誉田屋」とは、矢代仁や山口源兵衛の先祖です。

分家が100以上あったと言われる時代は千切屋一門の最盛期であり、「京都三条から江戸日本橋までの街道沿いで一番の身上」と記録されるまでになりました。「東海道の間で一番」というと大阪が抜けてしまうのが気になります。近世以前もっとも大きな産業は農業、次が衣類だったでしょうから、当時の日本の一番の企業は、各地の大名が米を換金する大阪の金融業がトップ、2番が京都の呉服業だったということでしょう。

江戸時代には幕府の出した奢侈禁止令により、しばしば「糸高の製品安」という状況に陥る呉服業界特有の不況がありました。そのたびに一門でお金を出し合って西陣の製織業者を救済したことを示す資料が残っています。この資料により分家の数や拠出た金銭の額の比率から分家間の序列もわかります。今日美術館で見られる小袖は、作った職人の名前こそ伝わっていませんが、その多くが千切屋によって企画・販売されたものでしょう。しかし、このように栄えた千切屋一門も、江戸の後期には100の分家が60に減り、本家も断絶し、明治まで残ったのは上述の3家にすぎません。

明治以降、千總は、封建社会が終わって住所や職業が自由になったことで新たな消費社会が出現したことを的確に察知し、デパートと結びついて全国に販路を広げていきました。しかし、そのためには手描き友禅では数が足りませんから、広瀬治助(屋号が備後屋だったので備治とも)が発明した写し糊を使った型友禅の技術を取り入れて、多彩の友禅染を安価で大量に生産できるようにしました。しかし、型を使うとロットの問題が生じます。すなわち手描きなら1枚ずつ作るので、図案が悪くても損失は1枚ですが、型を使うと複数作らないと採算が合わないので、図案で失敗すると損失が大きくなるのです。そこで、西洋化によって失業した日本画家を図案家として雇ってデザインの向上を図りました。この時期の千總の経営は先進的・合理的です。

千總の図案に携わった日本画家には今尾景年などがいます。純粋な芸術家を友禅の図案の世界に引き込んだことは、日本の染織史に重要な貢献であったと思います。また美術界に対しても、明治前期の西洋文化偏重の時代に日本画家に生活手段を与え、これを絶やさないことに貢献したといえます。

それに比べると千切屋冶兵衛の存在は地味ですが、現在でも東京国立博物館には、西村治兵衛(千切屋治兵衛の社長ですね)がパリ万博に出品した友禅染の巨大な額が収蔵されており、近代における活躍の痕跡は残っています。

昭和のバブル期ぐらいまでは、千切屋冶兵衛には100人ほどの社員と3つの工場がありました。私が知る千切屋治兵衛のイメージは、安田や中井の芸術的な作品を制作する文化集団ですが、少し前の千切屋治兵衛は、3つの工場で型染も含む普及品も生産し、多くの営業員が売り歩く立派な、そして当たり前の産業企業でもありました。

(2)考案部の存在

千治の戦後の時代において特筆すべきことは「考案部」の存在です。成功している呉服メーカーには、たいてい美術的な才能がある大番頭がいて着物の制作を仕切っているものです。かつての千治では一の橋由雄さんがその役割を担っていたと思われます。この人は後に独立して「一の橋」を創業するのですが、その後にできた「考案部」は、そのような有能な番頭の役割を制度化したものと言えます。チーフを務めたのは、有田の絵付け師の家に生まれた池田源次郎氏で、その下に10人のスタッフがいました。「考案部」が実際にはどのような組織であったのか、どのような仕事をどのような手順でしていたのか、今となってはわかりません。デザインについて助言するスタッフ組織であったのか、下絵の制作という本業も担うライン組織だったのか、助言組織であるならば経営方針にも関わったのか(呉服メーカーはファッション企業ですからデザインの方針は経営方針でもありますね)、おそらく厳密な決まりはなくて、社長とチーフの池田源次郎氏の人間関係次第だったでしょうね。

(3)現在の状況

90年代後半、千治は本社と3つの工場の全てを売却し全ての負債を返済しました。これにより自社で制作する機能を失い、全ての商品を外注により制作し、社員としては営業員のみを置くという業態になりました。このような状況に嫌気が差したのか、16代西村冶兵衛は社長職を引退し、次代の社長として17代が育つまでという条件でサクラクレパスの社長が千切屋冶兵衛の社長を兼業することになりました。

リストラによって規模が縮小したとはいえ、千切屋冶兵衛がこの呉服業界に存在する意義は、実際の会社の存在以上のものがあると思います。そのひとつが、現在、呉服業界で活躍する元社員とその2代目です。安田・中井系の優れた糊糸目友禅を継承し創作する「一の橋」を創業したのは千切屋冶兵衛の社員です。またこの一の橋から独立したのが「京正」であり、同系統の優れた友禅を創作しています。また紬の「室町の加納」も先代は元千切屋冶兵衛の社員です。いずれも日本の着物の伝統の大事な部分を担っています。また残念ながら数年前倒産した「次田」も元社員でした。

(4)千切屋冶兵衛を支える主な染匠

@藤岡(糊糸目友禅)

京友禅の主流であるゴムではなく、糊という自然素材が持つナチュラル感を効果的に使った柔らかいタッチの糊糸目が特徴です。下は「春の果物」という作品です。



A野村(糊糸目友禅)

糊糸目ができる一流の制作者でありながら、染色補正などもしてくれるので頭の柔らかい人なのでしょう。顧客から千治に面倒な注文があった時は野村さんが制作しているようで、私も以前、インドや中東の歴史をテーマにした作品を制作していた時は、全て野村さんに作ってもらっていました。下の作品は絹芭蕉地をつかった秋の単衣用の付け下げ。



B藤沢(刺繍とゴム糸目友禅)

本来は一流の刺繍職人、刺繍を主体にした作品を作っていますが、かつて悉皆屋的な活動もしていて、細密でくっきりしたゴム糸目の特長を生かした作品もつくっていました。下の作品は桂昌院が奉納した袱紗「近江八景」を再現した訪問着。



C村田(糊糸目友禅)

糊糸目ができる制作者で、中井をわかりやすくした感じもあるように思います。



D市川和幸(染匠いち川)(糊糸目友禅、ゴム糸目友禅)

琳派をテーマにした作品を中心に制作しています。京都染色美術協会(美協)のメンバーです。現在はブログやインスタもやっているので、ぜひ見てください。



E西山謙一(無線友禅)

無線友禅やダンマル描きを専門とする制作者。無線・ダンマルという技法は絵画に近いという特性があるので、必然的に創作的な作風が多くなっているようです。



F中井、安田、倉部については独立した項目をつくりました。

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野口


(1)近代までの歴史

野口家の初代、金屋安兵衛は桑名の出身で京都の金屋吉兵衛(金吉)に奉公し呉服商と両替商の修業をしました。享保18年(1734)に独立を許され油小路四条上ルにおいて金安の屋号を以って呉服商を創業し、また隣接の店舗において両替商も営みました。これが280余年の歴史を誇る野口家=野口安左衛門の始まりです(野口姓を名乗るようになるのは3代目の金屋安兵衛が将軍家斉公に拝謁し苗字帯刀を許されてから)。

4代目の野口安左衛門は御所に出仕し中務伊勢守大目という官名を拝受し駕籠丁の長として各地の行幸に供奉しました。明治初年には現在華洛庵として残されている旧本社を建てました。後の調査でこの建物と茶室は小堀遠州作であったことが分かり京都市の有形文化財として保存されています。

6代目の安左衛門は、染織品の偉大なコレクターで、ロックフェラーとも取引があった野村正次郎との交流でも知られています。明石染人・皆川月華・山鹿清華・岸本景春・田村春暁という一流の染織家ばかりを集めて染色研究会「千種苑」を創設したり、上村松園・梶原緋佐子・本谷千種らの女流画家を会員として「星紅会」を創設して彼女らの下絵による着物を発表したりしました。

戦争中は技術保存資格者として生き延び、戦後は特に小紋が評判になり、三越など有名百貨店で大いに売れ「小紋の野口」として有名になりました。8代目当主は7代目の五女で野口晴代さんという女性です。野口と言えばセンスが良く、おしゃれ、ブランドもので目が肥えた女性も魅了するイメージですが、それはこの人が創ったものです。普通の問屋のおじさんのセンスでは、今どきの女性に相手にされませんよね。現在は9代目で7代目の孫の1人が務めています。

(2)人気ブランドとして

ブランドとしての野口という名前は、「美しいキモノ」「きものサロン」などで紹介される事も多いのでご存知の方も多いでしょう。現在の野口は、京友禅界において、「女性が着たいと感じるものを作る」という能力では第一人者だと思います。しかし昭和50年代の呉服業界はフォーマルばかりが異常に売れる時代であり、小売店は留袖と訪問着と袋帯を3点セットのように売っていました。そのためカジュアルに強いという意味の「小紋の野口」というのは、あまり役に立たない称号となっていました。そのためフォーマル分野も強化する必要が生じたのです。京友禅界には悉皆屋という制度があるので、投資さえ惜しまなければ、高級なフォーマルを作ることはすぐできます。しかし、カジュアルで培った「野口らしい」というイメージをフォーマルにも反映させて、見るだけで野口とわかるフォーマルをつくるのは難しいことだったと思います。どんなに京友禅界が奥深くても、「野口らしい」の本質を理解して、それを提供してくれる悉皆屋はいないですから。

野口は、「野口らしい」フォーマルを開発すべく、従来から野口が制作していたフォーマルに加え、複数の友禅作家を(ほぼ)専属としての囲い込んでいきました。この時代の野口の作家としては、友禅では、橋村重彦、山本晃、米沢新之助、堀栄、刺繍の杉下、少し後に加わって現在まで続く辻が花作家の森健持、千治や一の橋と共通ですが、刺繍の倉部があります。しかし、私の見るところ、もっともフォーマルにおける「野口らしさ」の創造に貢献したのは岡本等ではないかと思います。この作家との出会いにより、野口ははじめて、これまで培ってきたカジュアルにおける「おしゃれ」と同じレベルの「おしゃれな」フォーマルのスタイルが確立できたと思います。(岡本等は、野口スタイルの確立後、残念ながら若くして亡くなっています。)

(3)野口を支えた作家と様式

@岡本等(故人)

「贔(ひいき)」の屋号をもっていました。作風は、伝統的な京友禅の色、特に朱系の色を排除して、そのかわり、紫、水色、ピンク、ミントグリーンという配色を主役にしました。またカラー糸目(色糊を糸目に応用したもの、あるいは糸目に対し後から彩色したもの)を効果的に使いました。下の作例に見るように、カラー糸目は限定的に使い、彩色の色と糸目の色を濃淡関係にすることで、華やかでありながら上品さも維持しています。



A橋村重彦

糊糸目にこだわる正統派の京友禅作家として橋村重彦がいます。千總の代表的な下職であった高橋徳からスタートし、中井淳夫の下職(彩色担当)、野口の契約作家と京友禅界の「エリートコース」を歩んできました中井淳夫にかかわったのは、高橋徳の仕事をしているとき、中井淳夫の作品を見てその深い色に感銘を受け、直接頼んで弟子にしてもらったそうです。





B米沢新之助

本格的な手描きの京友禅には珍しいイラストのようなタッチが特徴です。イラストのようなタッチというのはかわいらしいですが、安い小紋や長襦袢のような量産品では成功しても、何十万円という金額で売らなければならない本格的な京友禅では受け入れられないことが多いのです。しかし、この作家の作品は、イラスト風でも京友禅の雅や品格を失っていません。



C箔剥がし(高橋豊彦)

通常よりも派手目な彩色で友禅し、その上から箔を貼り、また剥がすという技法です。作品表面においては友禅した生地に箔がドット状に残っている状態になっています。その部分的な箔により友禅の色が緩和され、視覚的には地味な色に見えるのです。下の作品は祇園祭の懸装品(けそうひん)の1つである「イリアス」をテーマにしたものです。ローマ教皇が発注し、ラファエロが下絵を描き、ブラッセルで織ってバチカンに納められたものですが、なぜか出島に現れ、全6枚のうち2枚を加賀前田家、4枚を京都の町衆が買ったものです。びっくりするような出来事ですが、バチカンから盗み出したものの、ヨーロッパでは換金できず鎖国中の日本に持ってきたんでしょうね。 箔剥しという技法の独特な雰囲気で、織物の重厚感と数百年の経年変化を表現しています。 写真はプリアモス王の場面ですが、ギリシア人らしい格好をしていないのは当時は時代考証という発想がなかったためです。



D倉部については独立した項目をつくりました。

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大羊居


(1)近世における大黒屋と近代における大彦・大羊居の歴史

大彦の初代である彦兵衛は、隅田川の水防御用(水害時において洪水を防ぐという役目を負うという、江戸時代のおける公共事業の民間委託のようなものではなかったか、その報酬としては河川敷の利用権や歓楽街の利権などを持っていたのではないか)を勤める河村家に生まれました。しかし家業は継がず、当時江戸有数の呉服問屋であった大黒屋の主人、野口幸吉(四代)に気に入られて養子になり、幸吉の長女の幸(さち)と結婚しました。

大黒屋は蔵前にあり、初代大黒屋幸吉が創業したのは1772年という老舗でした。野口幸吉は代々、大黒屋幸吉、略して「大幸」を屋号としていました。四代幸吉には松三郎という息子がおり、この人が大黒屋松三郎、略して「大松」を名乗りました。一方、河村から野口に姓が変わった彦兵衛は、大黒屋彦兵衛、略して「大彦」を始めました。明治8年のことで、大彦の創業ということになります。

江戸で友禅が制作され始めたのは、化政期であるとも遷都により天皇家や公家達が引っ越してきた明治以後ともいわれますが、それでも高級な友禅染は全て悉皆屋を通じて京都に注文されていました。たとえば日本橋の三越でも実際に制作する工房は京都にあったのです。そこで彦兵衛は、京都に負けない友禅を東京でつくるのを目標にして染繍技術の研究を行い、大奥の衣裳の復元に成功したり、また新しい意匠に挑戦したりして「大彦」の名は京都に負けない東京の友禅として有名になりました。

彦兵衛には功造(明治21年生)と真造という2人の息子がいました。功造は高等小学校を卒業後、京都の大橋で修業を積みました。当時の大橋の事業内容から見て、修業の内容は最新技術である写し糊技術の習得だったと思われます。功造が修業を終えて東京に戻って以後、小石川の染工場において写し糊による型友禅を制作しています。

一方の真造は、芥川龍之介と同級生であり一緒に文芸クラブを作っていました。芥川龍之介は、学生時代に「廿年後の戦争」という短編を書いています。日本とフランスの海軍がホノルル沖で海戦するというストーリーで、この作品の巻末に「出版人 野口真造」「大彦出版」という記述があります。もちろん本当に出版されたわけではなく子供同士の遊びではありますが、両者の親密な関係を連想させます。有名になってからも芥川龍之介は大彦や龍村について文章を書いており、当時の人気作家が書いているだけにPRに効果があったのではないでしょうか。

初代の彦兵衛が隠居した後、功造と真造の兄弟は、二子玉川あたりに最新の捺染設備を整えた大規模な染工場を建設して、その運営に力を注ぎます。この時代は着物は伝統工芸ではなくファッションであったわけですね。

しかし、彦兵衛の死後、兄弟は近代的な染工場は売却して量産品の制作は止め、再び美術的な作品の制作へと方向を戻します。これについて、大彦の公式ホームページでは、龍村平蔵の忠告があったとしています。兄弟は仕事を分離することとし、真造は大彦の名を継ぎ、功造は本家の大幸の「幸」の字の上下を入れ替えて「大羊居」を名乗りました。「大羊」というのは漢字の成り立ちからいえば「美」という字を意識したように思いますが、大羊居は公式にはそのような解説はしておらず、やはりあくまで「大幸」をもじったものということのようです。分離の理由については不仲になったという理由ではありません。量産品の製造には「規模の経済」が働くので、両者の資本や能力を合わせた方が有利ですが、高級品の一品制作では規模の経済は働かず、創作性(制作者の個性)の方が大事なので、一人になることに合理性があったのだと思います。2人はそれぞれ友禅の最盛期の作品を再現したり、斬新な意匠を考案したりして天才の名をほしいままにしました。昭和33年には欧米各地でも展覧会をしています。

写真は当社が所蔵する野口真造のタピスリー。




真造は一男七女に恵まれ長命であったので戦後も大いに活躍し伊勢遷宮に際して染色品を納めたり、重要無形文化財の指定など文化庁の行政にも関わりました。功造は子がなかったので真造の四女である貴美子さんが養女となって大羊居を継ぎました。真造の死後は長男の彦太郎が大彦を継ぎ、父や祖父に引けを取らない仕事をしていました。その作品は毎夏日本橋高島屋で開かれる大彦・龍村展で見る事が出来ました。彦太郎の死後は真太郎が継ぎましたが、残念ながら現在は高島屋との関係は無くなっており、大彦展もありませんが、廃業したわけではないということです。

(2)大羊居の作品


モザイク牡丹(裾部分)


更紗遊苑(裾部分)。


長谷路(裾部分)。長谷路は長谷寺から室生寺までの道で、現在はハイキングコースです。写真は、裾模様の長谷寺名物の牡丹ですが、肩と袖は室生寺名物のシャクナゲです。


桐に誰ヶ袖(裾部分)。以前、「美しいキモノ」の企画で目黒雅叙園の百段階段に飾ったことのある作品。


飛鶴瑞祥(裾部分)。鶴が小さいことで雄大な景色を感じさせます。



下2点は名古屋帯。





上は「楽園」。かつて野口真造に「象のいる天国」という留袖があり、そのダイジェスト的な作品。白い象と貴婦人が摩耶夫人を連想させるので、花まつりにどうでしょうか。下は「更紗遊苑」。庭がテラス式になっているので、ネブカトネザル2世が築いたバビロンの空中庭園を思わせます。

(3)大松

さて、大彦から見れば本家筋に当たる大黒屋松三郎こと「大松」は、その後、弥一郎→彦一郎→雅史と四代続いています。かつては北秀の特選品や北村芳嗣の個展作品を作っており、東京で最もおしゃれな問屋といわれた北秀の社風そのものの都会的な作品をつくっていました。北秀破産後はどうなるかと思いましたが、現在も健在で当時と同じ魅力的な作品をつくっています。


明の大航海時代の寧波をテーマにした夏の訪問着。


蓬莱島(部分)。江戸時代の小袖にもあるテーマ。


北秀の社長であった北村芳嗣の個展のために制作された色留袖


古典的な花の丸に洋風なモチーフであるインコを取りこみ、袋帯にしたもの。



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中井淳夫



中井淳夫は千切屋治兵衛の下職の1人であり、もっとも芸術性の高い作品を作った人でした。父親は中井潤さんと言い、淳夫さん、治彦さん、恭三さんの3人の兄弟です。淳夫さんと恭三さんが(有)なか井商店、治彦さんが(有)中井染匠を経営し、ともに美協(京都染色美術協会)に属していました。淳夫さんはすでに亡くなっていますが、知識や作風を受け継いだ身内として恭三さんの子の亮さんがいます。

中井淳夫の作品の意匠は創作的に見えても、歴史的な作品のなかに本歌があります。それを裏付けるように、中井淳夫のかつてのモダンなデザインスタジオには膨大な資料があったことが知られています。しかし古典的なモチーフの多くは、中井の作品上では完全に消化されていて、現代の着物の着方にあわせたものにアレンジされています。一方、神坂雪佳のような近代作家に取材したものは、アレンジせずそのまま描いています。才能のある人どうしの礼儀なんでしょうね。


小袖写し花の丸文様(部分)。大きな花の丸と意匠化された垣根を描いた訪問着。本歌は江戸時代の小袖ですが、中井作品が本歌と違うのは、影のように寄り添う銀箔だけによる花の丸を描き加えていることです。多彩な花の丸だけの江戸時代の本歌は、おおらかな「物語」のような作品ですが、中井の作品は影のような無彩色の花の丸を描き加えることにより、心理描写を含んだ陰影のある「近代小説」になっています。今昔物語と芥川龍之介の短編のような関係です。



入れ子構造の色留袖(裾部分)。扇面の中に波、波の中に霞、霞の中に桐紋と、本来は無関係で並列的に並べるべきモチーフを入れ子構造にした色留袖です。創作性が高い作品に思われますが、これも江戸時代に本歌(高島千春「求古図譜織文之部」天保11年、小学館「文様の手帖」より)があります。本歌と比較すると、中井は、外側に扇面を加えることで、入れ子構造の意味を濃くしています。



胡桃(裾部分)。ダンマル描きによる作品です。日本の染色用語のダンマルは英語ではダマールで、インドネシアで穫れる樹液です。現地では立派な産業で栽培されて出荷されています。ダンマル描きは、これを揮発で薄めて筆で描いて防染するものです。蝋染と同じく、薄く塗ると半防染効果がありますから、それを利用して陰影や明暗を表現し、写生的な表現ができます。 筆で絵のように描くことができるので、技法としては扱いやすく本来の蝋染より簡単なのですが、「絵画のように描ける」ということになると、絵画としての評価を受けることになり、単なる「正確」や「丁寧」ではなく「芸術的」であることが求められるようになるので、作者にとっては「簡単」とは言えません。当然、作品にも作者ごとの作風というものが現れてきます。



重ね雲訪問着。全身に重なる雲が描かれ、主要な雲は取り方になって、中に琳派の植物文が入っています。植物文は地色や雲の色と調和していますが、それは色に親和性があるとともに、白い糸目が介在しないからです。せっかく模様の色と地色を合わせても白い線で分断されては無粋ですよね。この作品は防染工程があるので、無線友禅ではありませんが、糸目を隠す技法が使われています。



干支訪問着。各地の民芸玩具で干支を描いています。



松皮取り訪問着。全身が遠山、霞、松皮の取り方になっており、主要な部分に琳派の植物文が糸目のある友禅で描かれています。糸目は白ではなく淡いグレーなので、まず淡いグレーで全体が無地染めされ、その後友禅工程が開始されたものと思います。中井は生涯で多くの琳派の植物文を描いてきましたが、晩年の作品には、全身を取り方におして、その中に図鑑のように自分がかつて描いた多様な種類の植物文を詰め込んだものがあります。後継者に見本として残す意図ではなかったか、と思っています。



堅固な構成を持つ訪問着。松竹梅と菊というありふれたテーマですが、竹を竹垣とすることで、全ての柄を四角形の中に押し込め、石造建築物のような堅固な構成にしています。大事なメンバーの竹を伐採して命を奪ってまで、このような構成にこだわっているのです。この作品に限らず、中井作品には無計画に柄が散らばるようなものはありません。


安田



(1)安田とは 当店のブログでは、中井と安田を京友禅の双璧のような扱いにしていますが、それは千治、一の橋あるいは京正の価値観を引き継いだものです。中井が創作的でオンリーワンであるのに対し、安田は繊細な糊糸目でナンバーワンのイメージがあります。しかし、中井淳夫が、優れた創作性とともに、糸目・彩色・刺繍(あしらい)と友禅工程のすべてについて優れた職人を養成していたように、安田にもじつは優れた創作性があります。

安田に創作性がないような気がするのは、安田の様式が人気がありすぎてホンモノの数百倍の模倣品がつくられてきて、ほとんどの人はその模倣品を先に見てしまうからです。安田はもともと千切屋治兵衛の下職でしたが、現在は千切屋治兵衛の仕事はせず、千切屋治兵衛から独立した一の橋、一の橋から独立した京正の仕事だけしています。 かつては東京の北秀の仕事もしていて、北秀はそれを主に銀座のきしやに卸していましたから、東京のユーザーは安田の名前は知らず、「きしや好み」の一部になっていたと思います。

(2)安田様式 着物のデザインには、重厚な加飾によって豪華な画面をつくるという良さと、あっさりと軽やかな表現で洗練された画面をつくるという良さがあります。しかし着物全体に重厚な加飾にすれば、コストがかかるとともに成金趣味のあかぬけないものになりかねません。また、あっさりだけでは、ただの淋しい着物になってしまうかもしれません。

この2つの要素を着物(小袖)の歴史に照らしてみれば、「重厚な加飾による豪華な画面」とは江戸前期の慶長や寛文の小袖であり、「あっさりと軽やかな表現で洗練された画面」とは、江戸後期の白揚げ(友禅で糊防染だけして色挿しをしない)の小袖です。つまり、この2つの要素は、着物の歴史そのものを説明しているといっても良いと思います。

相反する2つの命題を両立させ、豪華でありながら洗練された着物をつくる方法として、安田は、雪輪・楓・文箱などを取り方として画面上にいくつか配置し、これを容器としてその内部に友禅モチーフを集中させ、それ以外の部分は、波などで、あっさりと仕上げるという図案を考案しました。1枚の着物に、着物の歴史の2要素を詰め込んだといっても良いこのスタイルが安田様式です。

取り方を使った安田の様式が分かりやすいように写真を撮ってみました。




波に霞(裾部分)。京正が制作したもの。直線で表現された霞が取り方になっており、中に菊や扇面などの模様が入っており刺繍も多めです。取り方の外は波で白揚げの表現になっています。



水車に波(裾部分)。北秀が制作したもの。琳派のモチーフにも登場する水車と波です。水車は取り方となっていて、内部は友禅、箔、刺繍、描き疋田で重加飾されています。取り方外部の波は、白揚げだけの表現ですが、水車を回す力強い波で波頭が見えます。



扇子と松。北秀が制作したもの。閉じた扇子が取り方で、中に松や植物文が入っています。取り方の外は白揚げで描かれた松の枝ですが、ちょうどその場所がグラデーションになっていて、糊糸目の乳白色と地色とグラデーションが美しく調和しています。



単衣用の訪問着として北秀が制作したもの。無彩色の単彩で仕上げられています。実際の景色ではなく、巻物を解いたら風景画が現れたという設定です。松が線描きで描かれていますし、色も無いので糊糸目の特長が良くわかります。




千切屋治兵衛が制作したもの。夏用の絽の付下げ。流水に雪輪の組み合わせで、雪輪は取り方となっていて、内部は友禅、箔、刺繍、描き疋田で重加飾されています。取り方外部の流水は白揚げです。



北秀が制作した振袖(裾部分)。現在ではほぼ制作されることがない、全身疋田の豪華な振袖。


花也



1.京友禅の系統

花也(はななり)は、くわ垣工芸が制作する友禅のブランドです。くわ垣工芸が制作する京友禅は、主に安田・中井の系統に属するものですが、中井と安田はいずれもかつては千切屋治兵衛の下職でした。この千切屋治兵衛の銀座担当の部長が独立して創業したのが一の橋であり、ともに経営していたその弟が独立して創めたのが京正であり、その京正の元社員が独立したのがくわ垣です。

くわ垣工芸が使う職人は、たいていは中井と安田の下職か、過去に下職であった人たちです。本来であれば、中井や安田が囲い込んでおり、別の人が割り込むことなどできなかったのですが、90年代末以後、千治、北秀、ますいわや、きしやなどが事業を縮小したり破産した結果、中井や安田も仕事が減って下職の手が空くようになり、くわ垣のような新興勢力にもそれを利用するチャンスが生じたのです。

くわがき工芸のブランドの「花也(はななり)」は、「はんなり」の語源です。意味は「スカッとした美しさ」ということでした。綺麗なものに対して「花なり!」と言ったわけですね。今日では「江戸の粋」VS「京都のはんなり」というような使い方をするので、淡い色のぼかしを多用したふわっとしたものが「はんなり」のイメージですね。語源まで遡るとイメージは違うようです。

2.花也の作風

花也の作品は、安田を扱う問屋にいたという本人の経歴と、もともと安田にいた職人を下職に使っているということから、安田の傍系であるように思われてしまいますが、現在の作風には安田の作風とは全く違うものもありますし、安田系統の作品でも安田とは違う独自性を獲得しているものもあります。

(1) 線描きのある作品







上の写真は付下げ、下の写真は名古屋帯のお太鼓です。模様の輪郭を取る通常の糊糸目よりも難度の高い線描きを多用した作品です。線描きが難度が高い理由は、糸目の本来の機能は染料どうしが滲まないための堤防ですが、線描きはその機能を超えて、糸目の線の形状そのものが鑑賞されるからです。

(2) 白揚げのみの作品


江戸時代前期において友禅、刺繍、箔とすべての加飾技法が進歩し、意匠も奇想天外なものまで試されたにもかかわらず、江戸後期においては彩色の無い白揚げの小袖が流行りました。江戸の粋というものでしょうか。この2点は江戸後期の様式を引き継ぐ白揚げのみの作品です。色がないので糸目が主役ですから、糊糸目を鑑賞するにはちょうど良い作品です。

(3)描き疋田のある作品。


疋田には本来の絞りの疋田の他に型疋田がありますが、ここで紹介するのは描疋田です。上の作品は、本の文字が書いてある部分を描疋田にすることで画面を装飾的にしています。着物の意匠としては、本を絵本にして友禅モチーフを入れるものですが、描疋田の存在感で友禅に勝るという自信があるのでしょう。

(4)安田様式



花也の着物は、安田系の一員として、典型的な安田スタイルの図案を踏襲したものが多くあります。この付下げは、斜めの取り方を模様の容器として使い、中に宝尽くしを詰めています。この部分が刺繍や箔を多用した重加飾部分で、その周囲は対照的な白揚げ(友禅糊による防染のみで彩色していない)だけの松場であっさりした加工にしています。

(5)中井系統





花也の下職には中井淳夫ゆかりの職人さんもいるので、比率は多くないですが中井の系統の作品もあります。上は、川端竜子の「草炎」に取材したもので、箔だけのようですが、下に友禅がしてあります。
下は、本来軽いものである霞を重厚に表現した帯です。意外に赤い色で霞を描き、その上に箔を置いて赤を隠してしまい、さらにその上に金彩で羊歯を描き、その一部に金糸で刺繍をしています。

(6)その他



額縁取りと言われる模様の配置です。友禅のほか、蝋染、刺繍、金彩、描き絵を併用した京友禅の技法を色々見せてくれる作品です。



海に松島が描かれています。島には人影もなく、通り過ぎる船もなく、鳥も通わず、ただ波が繰り返すばかりです。平家物語の俊寛を思わせますね。淋しい柄ではなく、あんたの人生どうなのっていう柄ですね。、



古典模様の「波に千鳥」です。



倉部



倉部さんは、刺繍と箔を主体とした作品を制作しています。刺繍と箔は本来関連性のない技法で、1人の人間が2つの技法を習得するのは不合理ですが、倉部さんも刺繍の人間国宝である福田喜重さんも刺繍と箔の両方を専門にしています。実際には複数の職人さんが分担しているのでしょうが。

刺繍と箔が同一者によって行われる理由は慶長縫箔にさかのぼります。慶長縫箔は染織史でいえば辻が花の後の様式です。絞りと描き絵で構成された辻が花はたおやかな雰囲気があります。絞りは色の境界がグラデーションになるところから輪郭線が柔らかいですし、描き絵は毛筆による墨の線ですから繊細です。それに対し、その後に主流となる慶長縫箔は、刺繍と金箔という立体感があるものと光り輝くものという、強者どうしの組み合わせです。またそれを着ていた人も、辻が花は主に滅びていく室町的な戦国大名、慶長縫箔は天下を獲る近世的な戦国大名のイメージです。

江戸時代の小袖には友禅の名品も多いですが、ユーザーは町人に限られ、武家は江戸時代が終わるまで縫箔の小袖を着ていました。そして彼らの小袖を制作していた職人たちは「縫箔屋」とも呼ばれたのです。刺繍と箔というまったく異なる技術が1つの工房に同居したのは、江戸時代の250年間を通しての伝統であり、倉部さんや福田喜重のように刺繍と箔を同一人または同一工房が同時に制作することは伝統に忠実ともいえるのです。

千切屋治兵衛、野口あるいは一の橋の刺繍や箔を主体にした作品のうち最高級のものは倉部さんが作っています。千切屋治兵衛、野口、一の橋はそれぞれ作風が違いますが、実際に制作しているのは同じ倉部さんだった場合、作風の違いというのは出るのでしょうか。そんなこともテーマにしながら、以下で作品を紹介していきたいと思います。

(1)千切屋治兵衛


「薫炉」と名付けられた作品で、香炉に秋草を詰めたものがモチーフになっています。技法を変えることで質感の違いを表現していて、植物である秋草はまつい繍によるたおやかなタッチですが、香炉の金工の蓋は駒繍による厳しいタッチになっています。実際に金属の硬さや秋草の軟らかさが伝わってきます。


桐唐草文様の豪華な蒔絵の文箱をモチーフとして刺繍で表現した作品。金糸の駒繍で表現された桐紋は3パターンの繍い方がされていて変化を楽しむことができます。一方、唐草は補助的に金描きで表現されていますが、刺繍に比べて立体性のない金描きを併用することにより作品に奥行きが生じています。蒔絵という工芸で一度表現されたものを、刺繍という別の工芸に置き換えた例ですが、元作品にない立体性を加えることで、単なる写しではなく創作性を加えていると思います。


うさぎと波の組み合わせは、謡曲の「竹生島」に由来します。琵琶湖の白波をうさぎが走ってくる様子に例えた一節です。ここでは白いうさぎを刺繍で、波を金描きでシンプルに表現しています。

(2)野口


貝合わせをテーマにした作品です。貝殻の凹型を表現するために、縁は駒繍、途中は渡り繍(下地に密着させて隙間なく広い平面を詰めていく技法)、底は菅繍と技法を分けて立体感を表現しています。


花簪をテーマにした作品です。花の部分の柔らかさと金属部分の厳しさの切り替えが見どころだと思います。刺繍における質感の表現の良い例だと思います。


野口における倉部作品の集大成のような作品。花の部分は相当込み入っているのに視覚が混乱しないのは、それぞれの花について技法を変えることで遠近感を表現しているからです。近景は駒繍(前に出ているように見える、実際に立体的である)、中景は繍切りなど生地を埋める技法、遠景は菅繍(生地の緯糸の凹部に当てはめるように繍っていくことで生地に減り込んでいるように見える)で繍っています。このように1つの画面に様々な技法を使うのが京繍の特長で、中国刺繍との大きな違いです。中国刺繍では刺繍の面積は広くても1つか2つの技法しか使われていないものが多く、豪華でも平板なのです。


刺繍はコストの割に加工面積が小さいので、刺繍の訪問着はパーティーの場では目立たない着物になりがちです。そのために刺繍は効率的に散らし、さらに箔やぼかしで面積の水増しをするのです。しかしこの作品では、刺繍をマエミとオクミに集中的に配置し、箔も面積を広げるというより集中を高めるように使っています。当然、他の場所は一層寂しくなっているのですが、見る人の視線が前姿に集中させることで、他の箇所が寂しいことに気が付かないようにしています。


エジプトをテーマにした作品。箔の種類(銀の含有率の違いによる)によって色が違うことを利用して、船や戦車の模様を作画しています。

(3) 一の橋


源氏物語の車争いをテーマにした付下げ(部分)。葵祭を見に来た葵上と六条御息所が牛車の留め場所をめぐって争い、それを怨んだ六条御息所の生霊が葵上を憑り殺すという展開に取材したもの。2種類の車輪が争っているように見え、添えられた植物は葵。



正倉院文様である向かい鳳凰を縁蓋を使った箔と金糸の刺繍で描きました。

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