西陣と綴


西陣の伝統

西陣の現状

龍村美術織物

「太子間道」について

普及品の龍村裂で染織史を語る。上代裂編。(名物裂編は未定)

洛風林とは何か

唐織は日本オリジナル

梅垣の社長からメールをいただきました



絽綴






西陣の伝統



京都の西陣といえば日本を代表する織物の町です。もともと御所で使用する装束を製作するために職人が集められて出来た町ですから、その歴史は平安京の歴史と重なります。西陣の機屋(西陣では機屋ではなく「織屋」というようである。)といえば何代も続く老舗のイメージですが、織屋というものは染屋よりも浮き沈みが激しく、3代もたないとも言われます。そのため「うちは代々西陣で織物業を営んでいる家系だが、現在の屋号になってからは自分が初代である」という業者も多いようです。織っているものも時代によって異なり、かつては着物一般を織っていましたが、戦後は特に袋帯が多くなり西陣織といえば修学旅行のお土産の金襴地のグッズを思い出す方も多いのではないでしょうか。あまり知られていませんが、絣の伝統もあり、1800年ごろには矢代仁が、もう見本帳をつくって経絣(御殿絣と呼ばれた)を商っていました。絣織物の商品化ということでは、越後上布とともに日本最古ということになります。

西陣の経営面の伝統といえば、賃機(ちんばた)というシステムです。賃機とは、職人が織屋に社員として就職するのではなく、夫婦単位で織機を所有し、独立して織屋から注文を受けて織ることをいいます。これは西陣の生産様式に合った柔軟な組織構造だと思われます。発注者は自社が企画した帯が人気が出れば、出機(でばた)を増やすことで短期に増産することが出来ますし、不人気ならばやめればいいという柔軟なシステムです。一方、受注者である賃機は一つの機屋にヒット作がなくても別の織屋から仕事が取ることができ、その過程を通して熟練した職人になっていくわけです。しかし不景気の際の調整弁という性質も持ってしまっており、特に昨近はこのシステムが弱者を苦しめるほうへ作用しているようです。ただ不況が理由だけではありません。

1つは安い機械織の帯が増えたことで、コンピュータ付の高額な織機が必要になり、夫婦単位の賃機も過大な設備投資をしなければ受注できなくなってきたことです。しかしその織機を導入した後で受注が減って破産してしまう人もいるし、それを導入すれば熟練の技を発揮する機会がなく本来の賃機の強みをなくしてしまう人もいます。

もう1つは中国生産が増えたことです。西陣が織物の町であるといわれるのは有名な織屋があるからではなく熟練した賃機が大勢住んでいるからです。賃機の多くは京都市内から丹後になっていますが、それはまだ京都府の中でした。しかし中国生産の割合が増えすぎると西陣のシステム自体が壊れてしまいます。しかし西陣でも織工に後継者がいるわけでもなく、中国生産の流れは止められません。

西陣の帯にはメガネ型の金色の証紙がついています。証紙には製織した機屋を表す2千数百番までの番号が入っています。流通業者は帯を見たり触ったりして目利きしているように思われていますが、実際にはその番号によってよい帯かどうか見当をつけていると思われます。また流通業者は全ての番号を暗記しているわけではなく、私の場合すぐに言える番号は30社ぐらいです。以前ここにその30社の帯屋の名前と番号を列挙していましたが削除しました。少し前には名門だったはずが、最近になって中国で量産してネットで値崩れしたり、着付けを無料で教えて高く帯を売りつける業者の協力企業を名乗ったりと、あまりあてにならなくなったからです。

ユーザーにアドバイスできるとしたら、なるべく古そうな小売店にデッドストックされていたものを安く買うといいのではないかというぐらいでしょうか。また証紙番号については、若い番号のほうが老舗なのですが、ときどき2000番ぐらいの帯でとても良いものがあります。それはたいてい若い番号の老舗の兄弟で最近分家した織屋だったりすることが多いです。 

現代でいちばんおしゃれな帯を発表し続けているのは帯屋捨松(48)だと思います。 世間では、「洒落帯」というカテゴリーにありながら、ちっともおしゃれでない洒落帯が多いのですが、捨松はフォーマルな袋帯を作っても洒落ています。帯屋捨松の6代目の社長であった木村四郎は、かつて西陣の名匠といわれた図案家である徳田義三の下で修業した人です。そして7代目社長である木村弥次郎も徳田義三に師事し、岡尾邦彦とのコンビにより現在の帯屋捨松のスタイルを作りました。この2人は今も健在で後進の指導に当たっているということです。つまり現在の帯屋捨松のスタイル(デザインなど全て)は、西陣の歴史が古いといっても遠い先祖から受け継いだものではなく、徳田義三の影響下に木村弥次郎と岡尾邦彦のコンビにより確立されたものということです。また帯屋捨松という屋号も徳田義三が命名したそうです。つまり木村弥次郎という人は、西陣の機屋の7代目ですが、現在の捨松スタイルの初代であり、徳田義三派の2代目ともいえます。織屋は染屋よりも浮き沈みが激しく短命といわれますが、それでも西陣の歴史は長く続いています。西陣の伝統はこんな感じで受け継がれるものでしょう。

帯屋捨松の現況は、8代目にあたる木村博之さんを中心に20名のスタッフがいるということですが、その半分は二十代の若手だそうです。西陣の低迷が言われて久しいですが、魅力的なものをつくっていればちゃんと若い人は集まってくるもののようです。最近は中国にも工場があるそうですが、生きている企業であるからこそ、電機や自動車が中国に進出するように中国に工場を作るという流れになるのでしょうね。

今とても人気がある帯に洛風林がありますが、洛風林ブランドの帯の多くはかつては帯屋捨松で織られていました。徳田義三と捨松のデザインについて語るならば、徳田義三の図案もすべて受け継いでいる西陣のシンクタンクとも言うべき洛風林についても触れなければなりませんが、これについては別項を設けました。

徳田義三(かつて「しょうざん」が徳田義三の作品として制作したもの。)/帯屋捨松/洛風林



私が大好きな帯は織悦(964)です。どんなモチーフをテーマにしても洗練されたものをつくります。技術上の特徴は、帯地を織った後に裏地を縫付けるのではなく、最初から袋状に織っており表と裏の間に縫い目がない完全な袋帯であること、また地がらみ織とも言われる織り方で織られていますが、これは一見平板に見えますが実は高度な技術を要するもので、糸が引っかからず折りジワもつきにくいためトラブルが少ないということです。織悦の初代、高尾氏は明治30年生まれで、西陣の機屋で修業した後に独立開業しました。屋号の「織悦」は尊敬する光悦にちなんだものということです。



さらにマニアックなものを求めるなら大西勇(88)はいいですね。帯屋捨松に見るような個性をもっと濃くしたもので、こういうものを身につける人は経済的だけでなく精神的にも贅沢な人なのだろうと思います。





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西陣の現状





今回は、西陣の袋帯の現状とその事例をとりあげます。

1.西陣の袋帯の現状

(1)現状

残念ながら西陣の織物は、停滞する呉服業界の中でも、もっとも衰退し堕落した分野です。ネットショップで西陣の袋帯を買おうとすると、88万円→13万円などというのが多くあり、ユーザーはお買い得で喜ぶというより不信感を抱いてしまうと思います。

なぜそうなったかといえば、

@現在の売れ筋の着物はカジュアルな紬であるのに、西陣はフォーマル偏重であったために売れ行きが鈍り、流通段階にまだ相当の在庫が滞留していること。

A帯は着物より傷まないので耐用年数が長いのが災いして、バブル時代に大量に売ったものがまだ健在で買い直す必要がないし、古着でも流通していること。

Bジャカード織である帯は、初期投資である紋紙代(現在はプログラム費用)を回収するため作り過ぎになりやすく、値崩れしやすいこと。

C西陣の織屋というのは伝統を墨守する頑固な職人ではなく、企業家精神に富んだ事業家でもある。そのため伝統にとらわれず新しいものを創造することもあるし、売れなければ材料や製法を変更するなどして価格を下げる。それはビジネスとしては合理的だが、伝統工芸という立場から見ればニセモノに見えること。

などがあると思います。

(2)地方の民芸との根本的な思想の違い。

伝統工芸における織物といえば、手織・草木染でなければホンモノではないというイメージです。しかし西陣の帯は、明治時代に当時先進技術であったジャカード織をフランスから導入するなど、伝統工芸ではなく先進産業として発達した歴史があります。たとえば、龍村といえば、今では西陣の伝統を守っているように見えますが、初代龍村平蔵は、積極的にジャカード機を導入し、次々に新しい織り方を開発して特許や実用新案を取っているわけで、伝統工芸というよりもハイテク企業のイメージなのです。地方の紬には、柳宗悦の民芸思想に鼓舞されて盛んになったものも多いですが、西陣はそれとはまったく全く違う思想にもとづいて発達した歴史があるのです。

古い時代において手織の帯が多く、近年になって機械織に変わってしまったのは、昔の人が真面目で今の人が横着をしているというわけではありません。昔は技術的限界により機械では単純なものしか織れず、複雑なものはやむをえず手織していたのです。しかし、技術が進み、特に織機をコンピュータで制御するようになったため、複雑なものが織れるようになり、機械織の割合が増えていったのです。伝統工芸では、機械で織れるものをあえて手で織ることに価値があり、その結果生じる手仕事の風合いを愛でるわけですが、西陣においては、機械で織れないものを手織にしていたにすぎず、機械の性能が上がれば、機械がこれにとって代わるのは当然という思想があるのです。

そこで、現代において価値がある手織というのは、最新のコンピュータ付織機でも織りにくいものだと思います。たとえば、力をかけ過ぎると撚れたり切れたりしそうな糸を使ったもののように、よほど糸を丁寧に扱わないと織れなさそうなものは、やむをえず手で織るのではないかと思います。

また、断面が丸い撚金糸と平らな平金糸というように形状の違う糸が混じり合うようなものは、機械で織るにしても何センチか織ったら機械を止めて、糸を変えてまた何センチか織るということを繰り返すようになり、効率が悪いのではないか、だったらいっそ手で織ってしまおうと思うのではないか、ということもあるのではないかと思います。

反対に、細い糸で細かい模様が織りだしてあるものでも、すべて同じような絹糸ならば、コンピュータ付の織機で一気に織れてしまい、じつは価値がなく、作り過ぎて値崩れするのではないか、などと思います。

また、IT技術の進歩により、現代ではその気になれば、私が例にあげたようなものでもコンピュータ付の織機で織れるのではないかと思います。しかし、より複雑なものを機械(正確には「力織機」というべき)で織ろうとすれば、機械の価格も上がり、設備投資が大きくなります。大量に織ってどんどん世界に輸出できるものであれば、その設備投資は回収できますが、帯は日本人しか買いませんし、ヒット商品でも全国でせいぜい何十本です。それならば、銀行から借金をして機械を買うより、手で織った方がマシということもあるでしょう。文化や技術からくる理由でなく、経済的理由で稀少な手織が生まれる理由があるということです。

(3)手織か機械織か、日本製か中国製か、を見分けることができるかという問題

手織か機械織か、ということについて、これを周辺情報なしに、そのモノだけから見分けることができる人はいないだろうと思います。私も、銘柄、織られた時期、機械で織りにくそうな糸であるか、などの周辺の情報なしにはわかりません。なぜわからないかといえば、逆説的な言い方ですが、わかる必要がないからだと思います。その理由の一つは、西陣の織物にとって「織る」ことは数十ある工程の1つにすぎないということです。工業製品に例えれば、良い部品を確保するまで製品の性能はもう決まっていて、組み立ては誰がやっても同じというのに近いと思います。

もう1つは、手織と機械織は、織り方に違いがないということです。同じやり方で織っていて、それが最終的に人体につながっていれば手織(足踏みもありますから「人体」と言っておきます。)、最終的にコンセントにつながっていれば機械織というわけです。織り方が同じでスピードだけが違うので、完成品からは見分けがつかないのです。刺繍で、手刺繍かミシン刺繍かというのは裏を見るとわかりますが、それは繍い方自体が違うからです。

日本製か中国製かということですが、中国は人件費が安いのがメリットですから、機械織ではメリットが出にくいわけで、最初は綴のように、織機が簡単で人の手による部分が大きいものが中国製になりました。現在は、たいていのものが中国で織られていますが、現在の河村織物や帯屋捨松で、手織りをウリにしたものは中国製です。企業としては合理的なのだろうと思います。

このように書いてくると、手織であることや日本製であることにこだわるのは意味がないと思われるかもしれません。しかし、そんな時勢の中で、あえて手織で日本製で作ろうという帯であれば、そのときには、最高の図案家に依頼し、また最高の糸がつかわれるのではないでしょうか。そして量産しないため値崩れもしにくいでしょう。手織・日本製にこだわることは、そういう周辺に意味があるのではないかと思います。

(4)表示の変更について。

下の写真のいちばん右は、帯の品質表示の部分です。最近、西陣ではこのような品質表示をすることになりました。一般の人は、高級な帯は正絹で、安物は化繊という程度の認識ですから「絹55%、ポリエステル23%、指定外繊維(紙)4%、レーヨン18%」などという表示をみれば、絹は半分ぐらいしか使っていなくて残りは化繊なのかと、騙されたと思うかもしれません。

私は、いきなりこのような表示をして、ユーザーが理解できるとは思いません。これでは、「どんな人だった?」ときかれ、「優しい人だった」とか「真面目そうな人だった」と答える代わり、「骨はカルシウムで肉はタンパク質だった」と答えるようなものだと思うのです。しかし、それぞれの材料が用いられるようになった深い意味を知ると、意外に有意義な表示なのです。



@「ポリエステル23%」という表示について
昔は、金糸というものは、金箔を貼り付けた和紙をさまざまな太さに裁断した平金糸と、金箔を貼り付けた和紙を細く裁断したものを芯になる糸に撚りつけた撚金糸がありました。現在、西陣で多く使われている金糸は、さまざまな太さのポリエステルのフィルムに金(あるいはそれ以外のもの)を蒸着した平金糸と、そのフィルムをレーヨンなどの芯糸に撚りつけた撚金糸です。

A「指定外繊維(紙)4%」という表示について
「指定外繊維(紙)」とは、和紙に金箔あるいは銀箔を貼った伝統的な引き箔の和紙の部分のことです。帯の裏の糸が見えているところに、白い平たい糸が見えます。これが引き箔の裏の和紙の部分です。家庭用品品質表示法により繊維の種類を表示する際、指定のあるものは統一文字で表示することになっていますが、「紙」は当然指定されていないので、「指定外繊維」と表示されます。たとえば芭蕉布も、こういう表示をすれば指定外繊維です。この%が高いことは、伝統的な引き箔を多用しているということで、高級品であると判断できると思います。

B「レーヨン18%」という表示について
フィルムを巻きつけた(撚りつけた)糸の芯に使われている糸でしょう。表面に出ないので見えないものですし、軽さと強度で選ばれた素材でしょう。

このように解説すると、ポリエステルやレーヨンが使われている必然性が理解されると思います。伝統工芸の紬に、ポリエステルやレーヨンが使われていたらとんでもないまがい物ですから、西陣の帯と民芸の紬とは同じ織物でも、全く違う思想からスタートしているということになります。民芸的な思想のほうが今の日本では理解されやすいでしょう。西陣の帯は、ポリエステルのような自由な素材を使うなら、出来上がった作品も前衛的なら良いと思うのですが、現実の完成品は伝統的なスタイルをとりますから、価値が分かりにくいのだと思います。本金だから価値があり、フィルムだから価値がないと考えるより、なにか表現したいもののために、次々に新しい糸を創造していった知恵に価値があると考えたいです。

また「金属糸風」と呼ばれるものについては、単にニセモノというのではなく、帯として使用する場合、本金よりも耐久性があり、トラブルが少ないというのも事実です。「金属糸風」がなければ、振袖用の大胆な変わり結びなどできないかもしれません。

2.事例

(1)洛風林

洛風林は、近年もっとも人気のある帯のブランドです。洛風林じたいは西陣の証紙番号はなく、西陣の織屋ではなく問屋という位置づけです。しかし、織屋でも自分で織機を持たず、すべて出機(でばた、外注という意味)の織屋もあるので、メーカーと問屋の区別は曖昧です。結局、完成品に自分の意思をいちばん反映させている会社がメーカーだと思いますが、そういう意味では洛風林こそ真のメーカーでしょう。

さて、この作品ですが、西陣で繰り返し織られてきた「華紋」という柄ですが、赤系の色を一切使わないのに華やかです。「華やか」なものを作ろうとするとたいてい赤系の色を使い、「派手」で「若向き」になるものですが、この作品では、デザインや配色の巧みさにより、赤系を使わないでも「華やか」を実現しているわけです。それにより華やかだけど派手ではない帯になっているので、あるていど歳を取っても華やかな装いができるというわけです。

拡大写真ですが、平金糸(金属糸風フィルム)を捩って使っています。捩られたフィルムはあちこちの方向を向くので、光をあちこちの方向に反射させ輝度が上がります(写真2番目)。また金は一種類の色ではなく複数あるようですし、捩らないで使っているフィルムもあるようです(写真3番目)。何通りもの光り方をすることで、光が単調にならないのでしょう。

緑と紫の色糸ですが、それぞれの色の絹糸の中に、芯糸に緑または紫のフィルムを巻きつけた糸を適度に混ぜています(写真いちばん右)。こうして絹の自然な光沢を超えた輝きを演出しているわけです。

金糸にしても色糸にしても、いろいろな仕掛けをして輝きを演出をしているわけですが、それはすべて「赤系の糸を使わずに華やかにする」という目的を達成するためです。1つのデザイン上の特性を達成するために特殊な糸をわざわざわざわざ作る、それが西陣の文化です。



(2)捨松の手織

捨松には、「帯屋捨松」のロゴのある標準品と、ロゴがなく裏に西陣手織協会の「手織之証」がある手織りの高級品とがあります。しかし近年では手織り品ではありながら、西陣手織協会の「手織之証」ではなく捨松独自の「手織りの証」がついているものもあります。それは中国で手織りしたものです。私はなるべく日本製を買うようにしていますが、いずれはすべて中国製になってしまうのでしょう。写真のものはもちろん日本製の手織りです。

この帯のデザインは豊臣秀吉由来ということなので、おそらく中近東の織物を輸入して陣羽織としたものでしょう。豪華でありながら温かみもある、柔らかい雰囲気のある帯です。「温かみ」や「柔らかさ」を演出するなら真綿のような糸で織ればいいのですが、それでは田舎の紬のようになってしまい、秀吉好みの豪華さとは正反対になってしまいます。そこで、この作品では、真綿のような糸の束の中に一定の比率で細い金糸を混ぜているのです(写真3番目)。これで、「温かみ」「柔らかさ」と「豪華」という互いに異質な要素を同時に満たしているのです。

地部分(写真いちばん右)は、緯糸に平金糸と撚金糸が順番に織りこまれています。面が平らな平金糸と、面が丸い撚金糸は、光の反射の特性が違うわけですが、それを並べることで複雑な光り方になるでしょう。また経糸は、撚金糸と白い絹糸を使っています。これらが演出する金色の地は、2番目の写真で一部分見ることができますが、ちょっととらえどころのない金色ですね。



(3)池口平八

以前から取引先を限定しているので、ネットなどで見ることは稀(かつて取引先の小売店が倒産した時にネットに出たことがある)であり、そのため実物を見た方は少ないと思います。現在まで、出機を行っておらずすべて専属の職人で織っているので、作風も独特で品質も維持されています。

写真のものは、トルコあたりの更紗デザインを太箔の糸で表現したものです。左から2番目が地の部分の拡大です。経緯とも撚金糸ですが、緯糸に白い絹糸を加えていますが、かなり隙間のある生地です。トルコには麻の生地に重い刺繍で更紗を表現する工芸文化があり(写真いちばん右、18世紀のもの)、そのテイストを継承するために隙間の多い薄い生地に、太箔で更紗を織りだす作品にしたのだと思います。

左から3番目は、斜め格子の部分です。極端に太い平金糸が光を前面に反射しています。輝かせるという点では最強の表現でしょう。4番目の写真は花部分ですが、ここではじめて撚金糸を束ねて使うことによる立体表現をしています。



(4)龍村

平清盛が厳島神社に奉納した平家納経は、江戸時代初めに福島正則が修復させたのですが、それを担当したのが俵屋宗達です。その際、表紙部分を宗達が新調したのですが、それを織物で表現したものです。

帯の裏側(写真3番目)を見ると、白い糸がかなりの割合を占めています。この白い糸こそホンモノの引き箔の裏側です。ホンモノの金を使った金糸は、金沢でつくられた金箔を京都で和紙に貼り、それを包丁でさまざまな太さで裁断したものです。使われているのは、背景の唐草の金地部分ですから、背景とは言えかなり広い面積です。この部分の質感というものは作品の高級感を出すために重要ですから、フィルムでなく本金を使うことに意義があるのだと思います。

平金糸の背景の上の唐草は撚金糸(一部は紫の絹の色糸)です。平金糸の上の撚金糸は、色が同じなわけですが、それでもちゃんと見えるのは、表面が平面である平金糸と、表面が丸である撚金糸とで、光の反射角度が変わるからです。絵画であれば色を変えなければ輪郭がなく絵になりませんが、西陣では色を変えなくても糸の形状を変えることで作画することができます。創作の上で、西陣が絵画より有利な点です。

写真いちばん右は、鹿の足元の草です。草の表現は、平金糸と撚金糸という2種類の金糸を合わせたものです。光の反射角度が変わる両者を混ぜることで小さい面積でも強い表現になると思います。

最後に、もっと基本的なことですが、龍村の帯は絹糸の色がきれいですよね。



(5)徳田義三

西陣において、もっとも名前が知れた図案家です。のちに帯屋捨松の6代目の社長になる木村四郎さんが徳田義三の弟子であったという縁もあり、徳田義三は、一時、帯屋捨松の専属として仕事をしていたこともありました。それ以前の捨松は、西陣において博多風の帯を織っていたということですから、たいした帯屋ではなかったと思いますが、徳田義三を得たことで、現在見るような捨松スタイルを築いたのでしょう。徳田義三の死後、残されたすべての図案は洛風林が購入したようです。

しかしながら、「しょうざん」という会社が、生前に徳田義三と契約して「徳田義三」の名を冠したブランドの帯を発売していました。「しょうざん」は呉服メーカーの他に「しょうざん邸」というレジャー施設を経営するなどビジネス優先の会社なので、マニアには受けません(しょうざん生紬の訪問着なるものは、型染で絵羽になっており、通俗の極みだと思います。)が、この徳田義三ブランドのシリーズだけは、少数限定生産を守り、創作的にも品質的にも素晴らしいものでした。

写真は当時のもののうちの一点で、金糸だけで古典文様そのままの花兎文を織りだしたものです。2番目の写真は地部分の拡大ですが、経糸は撚金糸ですが、緯糸は平金糸と撚り金糸が順番に並んでいます。表面が平らで光を前方に素直に反射する平金糸と、表面が丸く光をあちこちに反射する撚金糸をセットにするということは、地に個性的な質感を求めた結果思いついたことでしょう。

兎の柄部分は、同じ金でありながら地部分とは色が違う金が使われています。また花部分には赤く光る不思議な金も使われています。金という色を、このような色に分ける色彩感覚、それだけで作画するという創造力は徳田義三だからこそだと思います。

また兎部分は立体感がありますが、写真の4番目を見ると、平金糸を捩って織りこむことで、「立体感」ではなく本当に立体になっていることがわかります。西陣の織物というと「伝統を守る」というイメージですが、この作品では現代作家のオブジェのような作りかたをしています。一般的には、少量生産の高級品ほど創作的な作り方をしているものです。平金糸をよじりながら織り込むなど、当時、機械ではできませんからね。



(6)池口平八

「琵琶湖」というタイトルが付けられた作品で、西陣の伝統のスタイルで琵琶湖の湖面を表現しようとした作品です。2番目の写真は、帯を近接で撮影したものです。見たところ、唐織のような糸の浮いた織り方など伝統的な西陣の織物ですね。

こうして織られたものが、リアルに湖面を表現できているかということですが、いちばん左といちばん右の写真を見てください。左はこの帯を少し離れて撮影したものです。右はモネの有名な絵ですが、この絵の海の部分を見てください。結構似ていませんか。この作品は西陣の伝統でリアルな湖面ではなく、印象派のタッチを再現したのではないかと思います。

しかしながら、湖面の地織りの部分を拡大して見る(写真3、4番目)と、ただ「西陣の伝統」というだけではないことがわかります。水面を表現するために透明な水色の糸を使っているのです。正確にはレーヨンの芯糸の周りに、透明と透明な水色と一部金色のフィルムを巻きつけた糸を作り、その糸で織っているんですね。こんな糸はまさか売っていないので、この作品のために糸自体を創作したのでしょう。

このようなモダンアートのような素材を使うことは、「西陣の伝統」に反するのでなく、何かを表現するために新しい素材さえ創るのが「西陣の伝統」なのでしょう。



(7)池口平八

狩野永徳の「唐獅子図」に想を得た作品です。まずオリジナルの狩野永徳の作品ですが、縦225cm、横が459.5cmもある巨大なものです。これは非常に有名ですが特殊な作品で、高松城水攻めの際に秀吉の陣中にあり、その後毛利家に贈られ、江戸時代は毛利家が所蔵しており、明治になって天皇に献上されたものです。宮内庁の管轄である御物だったために有名なのに国宝や重文にはなっていません。

戦場に飾られていたという伝説が生まれるほど、大きくて迫力がある一方で粗放ともいわれる作品です。この帯は、元絵の迫力をそのままに、粗放というところをなるべく遺伝させないように織物に写した作品です。

まず地ですが、オリジナルは通常通り金箔が貼られていますが、帯では、金銀の色紙のような表現に変えています。絵画や着物では、見たとおり紙や生地に箔を貼ればよい(印金または摺箔)のですが、帯地の場合は、完成した生地の上に箔を貼ったのでは、帯を締めたときに、絹である生地の動きに金属である金箔が付いてゆかず、箔が剥がれてしまいます。帯の場合は、糸の段階で箔加工をしてその糸で織らなければいけません。すなわち金銀箔を和紙に貼り、その和紙を裁断して糸にして、その糸で織り、生地の上から箔を貼ったように見せかけるのです(写真2番目、拡大は3番目)。たかが背景でありながら一気に織れず、細かい図案にしたがいながらしょっちゅう糸を換えて織っているわけです。

獅子は、内部にオリジナルにない模様を入れるなど、結構自由に図案化しています。写真4番目は、顔部分の拡大です。細部をオリジナル通りに織ることは現代の技術では簡単なことですが、あえてそれを避け、太い糸でオリジナルの力強さを写し取っています。



(8)大西勇

最近は全く見なくなった大西勇(88)のフォーマルな帯です。私が大西勇という織屋を知ったのは、十数年前の北秀の展示会場です。当時、私は捨松や洛風林ばかり追い求め、北秀でもそれを買おうとしていたのですが、北秀の帯担当の人から「当社も捨松や洛風林を得意としてきましたが、最近は総合問屋でも扱いだしたので、さらに本物志向ということで、大西勇を取り入れました。」ということでした。

私の印象では、大西勇というのは、捨松や洛風林がさらにマニアックになったという感じでしたが、その日以来、機会があれば仕入れるようにしてきました。もっともその後しばらくして北秀が破産してしまったのでたいした数ではありませんが。

手織りによる精緻な華紋です。2番目の写真を見ると細部が息づいていますね。この生き生きした細部の正体ですが、織りとしてはこの程度の細かさは普通ですから、糸にあるのでしょう。それが漆箔の糸の力だと思います。

この作品は、漆箔の質感をテーマにしていて、写真3番目、4番目をみると、通常の金糸やフィルムのような輝きがない赤い糸や白い糸が見えます。それが漆糸で、本来であれば、和紙に漆を塗り、それを芯糸に撚りつけて(巻きつけて)糸にするのですが、現代では漆風のフィルムを使っていると思います。

西陣の織物では、さまざまな色をつかって作画するだけでなく、平金糸・撚金糸という糸の形状も使って作画するわけですが、それに加えて金と漆、あるいはそれらを模したフィルムという質感の違いを利用した作画もできるということです。



(9)大庄

太い箔を使い放題に使って作画した帯です。使っているのはすべてフィルムですが、本金を節約したわけでありません。フィルムでなければこんなに自由に作画できませんし、帯として体に巻きつけて使用する場合の耐久性が確保できません。デザイン性や実際の使用を考えて、積極的にフィルムを使用したものです。

緯糸の太いフィルムで柄を表現し、経糸の撚金糸で押さえています。絵緯糸は波だって、立体的な表現となり、さらに、色が変わる部分では、いちばん右の写真のように、太箔が撚れています。これが何とも言えない迫力を生み出しているのでしょう。どんなことがあっても、これだけは機械では織れないでしょうね。



(10)織悦

織悦というのは、都会的で洗練された意匠で業界でも敬意を表されています。また軽くて締め易いということでも定評があります。一方、表現が平面的で厚みがないところから、物足りない、高そうに見えないという人もいます。また、私の知る限り、ここ何十年間か意匠パターンや織り方を変えていないことから、織悦を買いそうな人はすでに持っていて、これ以上需要が広がらないという悩みもあります。

さて、ここで紹介する帯は、大きな柄で色も派手であるところから大胆な印象ですが、赤の色がとても上品で、こういう色を見ると、私は「織悦らしい」と感じるとともに、友禅の高級品と共通性のある色だと思います。

桜と楓が金糸で表現されていますが、金の色が微妙に違うのがわかりますか。写真2番目と3番目ですが、2番目は撚金糸で桜、3番目は平金糸で楓です。色を変えず、糸の形状を変えて表現しているのです。

いちばん右の写真は、帯の裏側を拡大したものです。本金の裏側の和紙の白が見えているのです。織悦の金糸は、ずっと本金を守っています。質感重視です。





龍村美術織物



初代龍村平蔵は明治9年、大阪の商家に生まれました。平蔵の祖父は孫が平蔵1人しかいなかったため大変可愛がり茶道・華道・書道・香道・仕舞・俳諧などの英才教育を受けさせました。祖父の死後、平蔵は呉服商を営む叔父(のちの初代大阪市長)の援助を受けて織物商を志します。それと共に伝統格式を重んじる西陣の機屋に対抗するために織物の研究を始めました。その研究の成果は天才の名にふさわしいもので30代にして30以上に及ぶ実用新案件を取りました。また博覧会などに多数の作品を出品し、西陣の機屋にも一目置かれるようになりました。

平蔵の織物は研究しながら織っているのでコストが掛かります。しかし模倣品を安く売る者が現われ、しばしば裁判で争わなければなりませんでした。模倣者は近世以前の古裂を証拠として提出し、平蔵が発明したとされるものは昔から西陣では周知のものであり、実用新案件は無効であると訴えました。この裁判を契機に平蔵は本格的に古裂の研究や再現を始めました。そしてこの事業がのちに平蔵がしたことの中で最も有名になります。

このころ(明治20〜30年代)はリヨンから伝わったジャカード機が西陣でも普及し始めたときです。それまでは空引機といって、高さが3メートルもある織機を上下2人の人間が声を掛け合って操作していました。上の人間の役割を紋紙に置き換えて1人で織れるようにしたのがジャカード機です。伝統的な発想をする機屋は機械を使うものには芸術的な価値はないと思いましたが、平蔵はジャカード機はただ速いだけでなく、空引機よりも複雑なものが自由に正確に織れるという特徴に着目して芸術的な作品の製作に採用しました。今でこそ龍村の帯といえば伝統工芸ですが、当初は新技術導入に積極的なハイテク企業だったのです。

ジャカード機は空引機よりも速いので織るコストは小さい代り、紋紙作成に大きなコストが掛かります。そのため紋紙の費用を回収するまで同じ柄を織らなければならず、図案が悪くて売れなくても途中で止めたら損します。そのため図案には特に注意を要します。そこで平蔵は図案作成に従来の下絵職人でなく、本格的な芸術家を起用し管盾彦を始めとする多くの若い芸術家のスポンサーになりました。また戦後はピエールカルダンやクリスチャンディオールに生地を提供してパリコレにも進出するなど多彩な活動をしました。芸術院賞、恩賜賞など多くの賞も得ています。

平蔵には夭折した子の他に、謙・晋・徳・元という4人の息子がいました。このうち謙が2代平蔵、元が3代平蔵となりました。晋は、「龍村晋」という屋号で分家しています。「龍村晋」ブランドは、桐生にあって晋の子によって現在も継承されています。また謙の子で光峰(こうほう)という方がおり、「龍村光峰」というブランドで少量制作しています。「光」という文字がつくのは、初代平蔵の雅号が「光波」であったように、一族が好む雅号のようです。徳は、龍村の中でも自動車のシートのような工業的な部門を担当しており、事業家として非常に優秀であったそうです。他の兄弟が金のかかる芸術的な仕事を続けることができたのも徳の貢献あってこそだったのかもしれません。徳の事業はすでにトヨタグループに売却されたということですが、それは多大なキャピタルゲインを龍村にもたらしたようです。4代目は徳の子が選ばれています。それが豊氏で龍村美術織物の常務を勤めており後継者とみなされていましたが、平蔵と意見の違いがあったとかで、豊氏の弟にあたる龍村旻(きよし)氏が代表取締役に就任しました(平成16年7月)。

正規の龍村美術織物のブランドとしては「たつむら」と主に高島屋で扱っている「龍村平蔵謹製」があります。

当店の在庫品の龍村の内、特にお勧めは名古屋帯です。龍村の帯といえば高額なイメージですが、それと同じものがエッセンスとして表現されていて価格は1/3です(20万円前後)。着物をよく知っている人でも龍村といえば丸帯や袋帯か85000円の光波帯(普及品の仕立てあがり名古屋帯)しか知らないので、名古屋帯を身につけていれば「きもの通」のイメージがあります。

龍村には逸品と呼ぶにふさわしい貴重なものだらけですが、そのなかで最も値引きしてくれない、龍村のガードが固いものはなんでしょうか。
それは85,000円(一部は95,000円)の光波帯です。龍村の帯は参考となる小売価格が設定されており、それに対する何十%という形で卸価格が決められます。今日、西陣の帯のなかには流通業者に何倍も儲けさせてくれるいい加減なメーカーもあるので、龍村はもっとも流通業者の利幅が小さい、商売上旨みのない帯ということになります。
それでも100万円ぐらいの帯ですと何十万(前半のほうですが)円かぐらいの利益はあるので、自分の利益を減らして10万、20万と値引きをすることはできます。しかし元が85,000円ですと利益は数万(もちろん前半)円ですから、そこから1万、2万と値引きをすると営業員の給料などの経費が出なくなってしまいます。そのため百貨店も小売店も85,000円という参考上代を守らざるを得なくなっています。

袋帯



紬に合わせる袋帯。龍村では紬に合わせるための袋帯も作っています。結城や作家モノの紬のような高価な紬には龍村の帯という選択もありと思います。



名古屋帯



額装/テーブルクロス/タピスリー



ビンテージ。初代平蔵の作品。






「太子間道」について



絣が発生したのは7〜8世紀のインドというのが定説です。

「定説」には必ずそれを否定するような証拠があるもので、絣の起源についても例外ではありません。現存する日本最古の絣は、正倉院と法隆寺にある「太子間道」で、聖徳太子の愛用品とされるものです。7〜8世紀のインドで発明されるものが、6世紀の日本にあったら完全にオーパーツですね。「太子間道」は「間道」といってもかなり変形した縞模様で、下の写真のようなものです。



ちなみにこの写真は、龍村の85000円の仕立て上がりの名古屋帯のシリーズの1つです。世界の染織史上の重要な裂の多くが85000円で再現されているという便利なシリーズです。

太子間道は、東京国立博物館にあり重要文化財です。おそらく多くの学者によって研究され尽くされ、これについての論文もたくさん書かれているでしょう。それがオーパーツでいいわけがありません。

この「太子間道」について、うちにある資料をできるだけ使って調べてみました。

毎日新聞社「名物裂」
 「古今名物類聚」所載の図によれば、法隆寺に伝わる飛鳥時代の広東錦(絣)と同一のものと見られる。」

京都書院「染織の美・名物裂」
 「法隆寺聖徳太子所用と伝えられその名がある。愛宕神社の太刀に用いられており、正倉院にもこの類を幾種か見ることをできる。緋地に白・黄・鳶色などが絣織となり、名物裂としては特異で、本歌は年代も古く隋代に溯るといわれている。」

平凡社「太陽染と織シリーズ・正倉院裂・名物裂」
 「太子間道あるいは広東錦の名で呼ばれる赤地絣錦は経糸を数色に染め分けて平地に絣模様を織り出した単純な平織りである。」

古代において中国などから日本に宝物として渡ってきた裂は経錦がほとんどです。経錦とは経糸が地に対して浮いたり沈んだりして柄を出すもので、その裂に使われる色数と同じ数の種類の糸が経に通っています。だから使える色に制限があり、色数の多いものほどすごく手間が掛かり、すごい宝になるのです。

一方、絣は括りという防染の方法で1本の糸の途中の色を変えます。その途中で色が変わった糸で平織りをして柄を出します。太子間道は、「太陽染と織シリーズ」によれば「経糸を数色に染め分けて」とあるので、経錦ではなく絣だということは確かです。しかし絣は7〜8世紀のインドの発明ですから、飛鳥時代の日本にあっては おかしいわけです。これについて、京都書院「染織の美・名物裂」でも「名物裂としては特異」と異常性を認めています。ぜんぜん謎は解決しないのですが、次にこういう本を見つけました。

世界文化社「お茶人の友14・茶席の裂」
 「インドネシア地方のイカット織で絹糸の経絣織。(中略)法隆寺伝来の幡の広東錦の流れを汲む裂である。名物裂としての太子間道の織製年代は桃山時代であり、境の町人、太子屋宗有の愛好によりこの名がつけられるといわれる。」

えっ。ぜんぜん違うことを言っていますね。確かに私の目にも「太子間道」はイカットに見えます。しかし重要文化財の指定が間違っているということはないでしょう。というわけでこういう本を探しました。

至文堂「日本の美術90・名物裂」
 「飛鳥時代の絣錦として、法隆寺伝来の幡にみられるが、この間道には赤地のほか紫地のものがあり、模様も山岳樹木文のほか、獅噛風のものもあり、約8種が知られている。」
 「絣のものでは太子間道が唯一のものであるが、これは飛鳥のものであり、こんにち茶入袋に見るものはいずれも模織ないし後のものであって、インド東海岸あるいはインドネシアのスンバ裂をおもわせる赤地に多彩の経絣がつかわれている。」

あっ、なるほど。そういうことですね。現存する太子間道は約8種あるんですね。そのうち法隆寺(現在は東京国立博物館法隆寺館)か正倉院にある1種か2種だけが飛鳥時代で、その他の、茶人が持っている程度のものはイカットなんですね。それにしても「絣は7〜8世紀のインドですから、飛鳥時代の日本にはないはず」という謎は解決しませんね。それに加えて「太子間道」の太子とは聖徳太子なのか太子屋宗有なのかという問題も抱えてしまいました。法隆寺か正倉院にあるときに「太子間道」という名前のついたタトウに入っていたわけではなく、この名はあくまで法隆寺にあったということから後世の人が勝手につけたのでしょうから、太子屋宗有説も可能性があると思います。

インドにおける絣の起源は7〜8世紀という定説は、遺物により遡れる時代ということですから、高温多湿のインドでは失われた遺物も多いわけで2,3世紀遡ってもいいでしょう。日本に流入する文化は、中国・朝鮮ルートだけでなく、「呉服」の言葉が中国南部の「呉」の国が起源であるように、南ルートもあるとされています。 少し前に日本語や日本の文化の起源について、インド中央部や雲南とする説もあったくらいですから。

法隆寺や正倉院の伝世品の中に1点ぐらい南ルートのものが混じってしまったと考えても面白いですね。

ところで、ここで本当に言いたいのは日本文化のルートのことではなくて、龍村の85000円の仕立て上がりの名古屋帯のシリーズが、とても便利だということです。世界の価値ある織物が再現されているので、このシリーズが手元にあれば、図書館にも博物館にも行かず、世界の織物の歴史について写真付の本が書けそうです。考えてみれば仕立て上がり85000円の名古屋帯で世界の宝とも言うべき織物をすべて再現してしまうのだからすごいことです。

日本には芸術の1ジャンルとして「名物裂」というものがあり、中国からペルシア、オスマン帝国あたりまでの古裂が集積されています。人類の遺産を保存するという意味で世界から感謝されていい文化なのですが、当然、この85000円のシリーズもほぼ「名物裂」をたどっています。



しかし私は実際に使用するときは、この「名物裂」に含まれないインカ(正確にはプレインカ)やフランスの裂が好きです。「名物裂」はそれに関連する歴史事実や茶人に結び付けたくなるので意味が重くなりがちですが、「名物裂」でない裂は、「意味」がなくカジュアルな紬にあわせやすいのです。
実際に着物に合わせてみました。左は林宗平の塩沢紬にアケメネス朝由来のデザインの帯、右は個性の強い縞の結城紬にサンシャベルの犬というパリのシテ島にある教会のステンドグラスに由来するデザインの帯をあわせたもの。



おまけ

この名古屋の不動産屋のおやじにしか似合わないシャチホコ柄のネクタイは龍村製です。つまりこのシャチホコは龍村裂。これはout of place artifacts すなわちオーパーツではないでしょうか。






普及品の龍村裂で染織史を語る。上代裂編。(名物裂編は未定)



「今日の一点」のお正月特集として、私が個人的に収集している普及品の龍村裂のみをつかって、上代裂の流れを紹介するという企画をしました。普及品の龍村裂とは、仕立て上がり85,000円の帯や、バッグ・テーブルセンターに使われているものですが、それで、どれだけ再現できるか試してみるという企画でした。

その企画は、「今日の一点」のルールにしたがい、すでに削除しましたが、ちょっともったいなかったと思うし、龍村裂の存在ももっと知っていただきたいので、ここで再現することにしました。

上代裂は、平安時代に日本オリジナルのデザインである有職文が現れる前のもので、奈良の社寺に所蔵される輸入品とその模倣品です。内訳は99%が正倉院裂(10万点以上、18万点とも)で、1%が法隆寺裂(約1000点)、その他はわずかです。その期間は、飛鳥から聖武天皇崩御まで(聖武天皇の七七回忌に遺品を納めたのが正倉院)で、日本史のうちでは短い期間ですが、それだけの期間でもかなり変遷があります。古代にもちゃんと流行があったわけです。

1.法隆寺裂

法隆寺の裂は、正倉院より少ないですが、古いタイプのものが多いとされています。江戸時代後期から、法隆寺は寺の運営費を稼ぐために、しばしば江戸で出開帳を行ったため、裂は他の宝物とともに、世間に知られるようになりました。有名な「太子間道」も、古代ではなく、このころつけられたニックネームといわれます。その後、裂を含む宝物は、皇室に献上され、現在は東京国立博物館法隆寺館にあります。平成になって建て替えられたモダンな建物で、展示方法も世界最先端だと思います。

まず、有名な「獅子狩文錦」です。ペルシアのデザインですが、デザインの中に漢字が入っていることから、デザインのみペルシアで織ったのは唐とされています。名作中の名作ですが、龍村では、普及品では省略してデザインしています。右は、初代平蔵作の省略していない復元品です。



「獅子狩文錦」は、ペルシア風の連珠文ですが、同じ連珠文のものとしては、法隆寺で幡として使われたという双鳥連珠円文があります。



法隆寺に伝わる有名な3つの蜀紅錦は、おそらく全て龍村で再現していると思いますが、私は2つを所有していました。「赤地格子連花文錦」と「赤地獅鳳文錦」です。



そのほか西方的な葡萄の蔓のモチーフの「葡萄唐草文錦」があります。



特殊なものとしては、絣の「太子間道」がありますが、これについては、「着物の話3・太子間道」で、取り上げました。



2.正倉院裂

法隆寺裂に続いて正倉院裂を紹介します。もちろん普及品の龍村裂で揃うもののみです。

まず、昨日紹介した西方意匠で唐製の「獅子狩文錦」の国産模倣品です。「緑地狩猟文錦」と呼ばれます。色は2色のみで、「獅子狩文錦」に比べて簡素な表現になります。これは技術的なレベルの低さを現すのでしょうか。それとも日本的な嗜好でしょうか。おそらく両方でしょう。昨日の「獅子狩文錦」は、当時の世界最高品ですから、それとまったく同じレベルのものが、わずか数十年で日本で織れるとは思えません。またデザインに関しては、2色の簡素な表現は、のちの有職文に近づくような気がしますし。ほかに、正倉院の連珠文としては、「赤地花連珠文錦」が、龍村から出ていますが、龍村の商品名としては、「唐招提寺裂」となっています。唐招提寺にも同じようなものが所蔵されていて、そちらに取材したのでしょう。



西方的な連珠文にかわって、中国的な唐花文が流行ってきます。唐花の最高峰としては、「縹地大唐花文錦」と「赤地唐花文錦」がありますが、そのうち「赤地唐花文錦」が発売されています。暈繝(うんげん、似た色を隣同士に配色することで、ぼかしのような効果を出す配色法)と呼ばれる配色法をもちいて、立体感を出しています。連珠文の最高峰「獅子狩文錦」は、細部までくっきり表現されており、あくまで平面ですから、まったく違う発想でデザインされていることになります。唐花は、おおいに流行し、多くの裂があります。写真右は、御軾(ひじかけ)として使われた唐花です。



唐花文は、モチーフの唐花に大小があり、主文と副文に分かれています。しかし、すべて大きさが同じで、主文・副文の区別がないものがあります。龍村の資料によれば、これは古いタイプとされます。写真の「花文錦(龍村の商品名は天平相華文錦)」は、オリジナルは経錦です。正倉院の唐花の多くは、少し後の時代の織り方である緯錦なので、古いタイプであることの1つの証拠になっています。



昨日、法隆寺裂として、西方的な「葡萄唐草文」を紹介しましたが、同様のものはかなり数があり、正倉院にもあります。その唐草文のなかでも、内部に鳥獣を入れたものがあります。龍村では、「赤地鴛鴦唐草文錦」と「紫地鳳唐草丸文錦」が商品化されています。唐草は西方とのつながりを感じさせますが、内部の鳥獣は、鳳凰や鴛鴦ですから東方的です。



「花鳥梅花文錦」は唐花のなかでも、なんとなく和風の感じがします。中国の唐花は、がっちりした構成で、謹厳な感じがしますが、この唐花は、柔らかな感じがします。徐々に「和風」が生まれつつあるのだと思います。



「花卉山羊文錦」は、唐花からスタートしつつも、唐花の形が崩れて、中心になる花がなくなり、散らし模様になっています。結果的に絵画的になり、中国的な権威主義から自然主義に移行して、「和風」の始まりになる、といっては、ただの素人意見になってしまうでしょうか。



3.正倉院裂の間道類

まず紹介するのは、正倉院裂のなかでも、とくに古いとされる「獅噛文長斑錦」です。「長斑」というのは、異説はありますが、暈繝のない間道のことともいわれます。オリジナルは、その名の通り、全体が間道になっていますが、たまたま、私が持っているのは、間道が省略され、ただ「獅噛文」になっています。「獅噛文」は、古代の文字のようにも見えますが、獣面を現し、殷周の銅器にあるような饕餮(とうてつ、ほぼ獣面の意味だろう)文といわれます。呪術的な不気味なデザインですが、古いデザインであることは確かです。



「長斑」と名がつくものでは、「花鳥文長斑文錦」があります。間道の中に花鳥を入れたものです。間道は、経錦が普通ですが、この裂のオリジナルは緯錦で、間道内部の模様を織るために選択された織り方でしょうが、進歩した形式です。この花鳥部分は、着物デザインにおける「正倉院文様」の基本イメージではないでしょうか。また間道の細い部分にも半分だけ見えるような文様があり、後の、意図的に部分を隠すような「秘すれば花」的な日本の美意識につながるような気がします。古代の作品と思えば、非常に凝ったデザインですね。



「暈繝(うんげん)」は、龍村では何種類か出ていますが、私は「目交花葉文暈繝錦」を持っています。龍村の商品名としては、「暈繝」ではなく、「天平段文錦」ですが。オリジナルは古い経錦の織り方ですが、資料から、実は後期のものと知られています。間道の内部のデザインが単純なモチーフなのは、経錦のためかと思われますが、モダンデザインのようにも見えてきます。





普及品の龍村裂は、そんなに高いものではないわりに、文化性も、適度な希少性もあり、集めがいのあるものです。将来、そういう分野のコレクターが増えるのではないかと思っています。業者にヒントを与えても仕方がないですが、こういうものは、売買単位ですね。売買単位を工夫することで、用途や顧客を新しく生むのだと思います。

4.番外編

ここで扱うのは、北尾の名古屋帯ですので、番外編となります。北尾は西陣の証紙番号7の老舗で、この名古屋帯もとても上質なものです。

写真のもののタイトルは、「御物唐花丸文」。モチーフにされた植物は、やや大陸風ですが、配列と雰囲気(オリジナルは地と柄の2色のみで、唐の唐花のような多色ではない)は、すでに有職文風。すなわち、上代の唐花の最終形態です。



5.おまけ。文様における凝縮と拡散

文様には、凝縮されたものと拡散されたものがあります。凝縮されたものは余白を伴い、拡散されたものには余白はありません。デザインの歴史は、アールヌーヴォーとアールデコのように、直線と曲線が交互に来るということはよくいわれますが、凝縮と拡散も交互に来るということがあるのか、と考えました。

連珠文は強固な囲いですから、それが壊れ、または緩んで、拡散模様になることはないように思います。 しかし、唐花文または唐草で囲われた文様では、囲いが壊れ、または緩んで拡散模様になることがあります。

唐花文または唐草で囲われた文様は、総ての文様が同じ大きさのものと、それぞれの文様に大小が生じ、主文と副文を構成するものがあります。龍村の解説によれば、文様が同じ大きさのものの方が古いスタイルだと言うことです。実際に、上に写真がある「天平相華文錦」のオリジナルは、古い織物の組織である経錦です。つまり、最初は均等に並んでいた凝縮文様が、一部だけが発達して大小が生じ、主文・副文の関係が生じたのです。主文がさらに発達する過程で、副文が解体し、大きすぎる主文と拡散した副文の元の内容物により、余白が無くなり、結果として拡散模様になるという経緯をたどるようです。

正倉院では後期に属する「山羊花卉文錦」(写真は上にあります)は、主文・副文を構成する唐花が解体し、拡散しつつある状態を、今に伝えています。このため、全体が拡散模様に見えます。良く見ると、主文も副文も、多少片鱗を残していますが、動物が動きながら囲っている程度で、かなり頼りない状態です。もう少しで、ただの拡散模様になったでしょう。しかし、後の平安時代に主流になるのは有職文様ですから、模様の流行は、再び凝縮を目指すようです。

他の工芸分野でも、凝縮と拡散は、交互に繰り返したり、並存したりしています。江戸時代の有田でも、染錦のように、染付けと色絵と金で、全体に柄で埋めたものと、余白が多い柿右衛門様式が並存しています。ここで、私の本業である友禅の話に振らせてもらえば、中井恭三は、圧倒的に凝縮文様が多い作風です。下の写真の訪問着では、松竹梅という、各自勝手に枝を伸ばして、拡散模様になりやすいテーマにもかかわらず、竹を生きたまま描かず、伐採して垣にしてしまうというウルトラC的なことをして、その垣の中に他の植物を閉じ込めることで、余白の多い凝縮模様にしています。よほど凝縮模様が好きなのでしょうね。







洛風林とは何か



きもの通といわれる人がいちばん欲しがる帯は、宮内庁御用達で知られる「龍村」でも「川島」でもなく 、「洛風林」です。しかし「洛風林」を持っている人も、「洛風林」とは西陣の歴史のある帯屋(機屋)に違いない、と勘違いしているようです。実は「洛風林」は機屋ではありません。「洛風林」は西陣組合の名簿には載っていませんし、実際に実物を手にとって見ると帯の端には「洛風林」のロゴが織り込んでありますが、その一方で48(帯屋捨松)、あるいは93(勝山織物)の金色の証紙がついているというダブルチョップ(ダブルブランド)状態になっています。

実際に製造しているのは、帯屋捨松あるいは勝山織物など洛風林同人のメンバーなわけで、それを洛風林が売っているのですから、洛風林は問屋ということになります。しかし洛風林の帯には一目でわかる強力な個性があり、ただ単に「流通の仲介をする」という問屋のイメージを持つと大きく異なります。

一方、世間で製造業といっても、製造工程の全てを下請に外注に出していて、本社には研究所と社長室しかないという企業も多いのです。そう考えれば製造業者と流通業者の区別も曖昧なものです。私は、製品に自分の意思が反映しているもの、製品の特質の形成に最も影響を及ぼしたものが製造者であると思っています。実際に工場を持っていてもその時代に流行しているものを無批判に作っているものなどよりも、洛風林の方がよほど製造業者のように思うのです。

しかしただ個性があるというだけでは、すぐに他者に模倣されて存在意義を失くしてしまいます。プライドの高い西陣の機屋や金儲けのためには多少あこぎなこともする京都の呉服問屋が、自分で織るわけでもないこの会社を何故これほど重要視するのでしょうか。つまりタイトルどおり「洛風林とは何か」といえば、洛風林とは初代の堀江武以来、図案などの資料の収集研究を重ね、他者が模倣しようにも追随できないほどの集積になっていて、それが普通の会社の機械設備に当たるものである、それが洛風林の存在意義だと思います。

のちに洛風林の創業者となる堀江武は、明治40年、呉服商の長男として福井県武生市に生まれました。福井商業学校卒業後、将来家業を継ぐための修業として、当時、西陣の帯地問屋として有力だった三宅清治郎商店に奉公しました。本人の希望ではなく父親の希望であったようです。三宅清治郎商店の主人、三宅清治郎は晩年には「洛園」と称した文化人・趣味人で、堀江武はその影響を大いに受けたと思われます。三宅清治郎商店の中では、堀江武は、「特作部」という部署にいて、図案家たちを指導する立場にありました。彼が契約していた図案家たちの多くは、伝統的な西陣の職人というよりも、京都市立美術大学の前身である「絵専」出身の新進気鋭の芸術家たちでした。昭和15年、堀江武は、その図案家たちを動員して「織染美術維新図案展」を開催しようと企画しました。すでに日中戦争が拡大していて統制経済に移行する時代であり、時代に逆らうリスクの多い企画でした。しかし主人、三宅洛園は「大いにやれ」と激励し、自分の名から一字を取って「洛風林」というグループ名をつけました。これが「洛風林」という名の起源です。その直後、洛園は病死しましたが、展覧会は開催され、「洛風林」というタイトルで図録も出版されました。

戦後、堀江武は三宅清治郎商店から独立して、西陣の帯地問屋として仕事を始めます。昭和29年には三宅清治郎商店から許可を得て「洛風林」を屋号としました。昭和36年には再び「洛風林」のタイトルで図録を京都書院から出版しましたが、この本は運がよければ古本屋で入手することが出来ます。そこに掲載されている作品は、現在人気の「洛風林」の帯とまったく変わるところはありません。昭和36年の日本の生活レベルやデザインに対する理解のレベルを考えると堀江武という人は超人的な文化人であったと驚いてしまいます。昭和39年には、「洛風林」の社名で法人化され、現在の人気ブランドの基礎が完成しました。その後も堀江武は、商売に直結しなくても西陣の技術や文化の向上を目的として、機業家を集めて「洛匠園」という勉強会を主宰し、切畑健ら染織研究家の講演会を開いたり、見学旅行に出かけたりしました。昭和55年には「洛風林」デザインの総決算ともいうべき「工芸帯地 洛風林百選」を京都書院から出版しました。ちなみに私が、今ここに書いている戦前の堀江武の行動などはみなこの本を資料としています。

左から、昭和36年の「洛風林」のタイトルの図録の表紙/昭和55年の「工芸帯地 洛風林百選」の表紙と中身



「洛風林」のデザインの特色、その人気の理由ですが、ここでは2点を挙げたいと思います。

@古典の完全な消化
「洛風林」のデザインは古典柄を完全に分解・消化・アレンジするので、一見しただけでは古典と気づかず、ただ斬新なデザインであるとのみ感じることがあります。しかしあくまで古典のルールにのっとっているので、見るものに違和感を感じさせず、懐かしさ、居心地のよさを与えてくれます。

A外国の民族的デザインの積極的な摂取
堀江武は早くから積極的に海外旅行をして外国のデザインの摂取に努めました。その範囲はヨーロッパだけではなく、南米やアフリカにもおよび、その地で民族的に伝承されてきたデザインを研究しました。マヤやプレインカ、エチオピアなどは重要なモチーフになりました。

(左)典型的な日本の古典柄である「荒磯緞子」の大胆なアレンジ/(中)ぺルシアに取材した意匠(正倉院にはぺルシアの文物もあるので古典柄ということになるかもしれない)/(右)ヨーロッパに取材した意匠



「洛風林」の同人は以下のとおりです。残念ながら全員個人名で表記されているため、どのような人物であったか私にはよくわかりません。いずれも西陣の機屋の社長または主人であり、屋号で表記されていたら当時どのような帯を作っていたか、現在はどうなっているのか、ここで示すことができたと思うのですが。

昭和36年の図録より
八木虎三 稲波貞三 鷲猪越三五郎 宮島憲吉 清水治之助 酒井栄一 宮島勇 今井与一郎 南隆一郎 勝山実夫 高尾弘 高尾清二 藤井善造 浅田光三 近藤大造 西垣和子

昭和55年の図録より
鷲猪越三五郎 三上嘉義 勝山実夫 勝山嘉夫 南隆一郎 南昭行 南貞行 高尾弘 牛窪信子 宮島勇 山城善三 茂木功 八木生次 清水治之助 遠藤政治郎 清水茂男 北村武資 広瀬健二 木村登久次

勝山実夫または勝山嘉夫は勝山織物(93)、高尾弘は織悦(964)、木村登久次は捨松(48)、北村武資はのちの人間国宝です。

堀江武の交友関係
現在入手できる資料から推定できる堀江武の交友関係
徳田義三、河井寛次郎、富本憲吉、白洲正子、浜田庄司、石川あき、切畑健


京都書院「染色の美10・世界の絞」に中村勝馬が「東京友禅いま昔」という文章を書いていたのですが、その中で「大正2年の百貨店の懸賞当選図案」という当時の記事が引用されていました。そのときの第一等賞が「古代更紗」という三宅清治郎の作品です。京都の帯問屋のはずが、東京の友禅の資料の中に見つかるのは驚きましたが、幅広い仕事をしたこの人らしいと言えるのでしょうか。白黒で見づらい写真ですが、三宅清治郎の作品を見る機会もないので掲載してみました。




当ホームページでは、意見や質問を募集していますが、寄せられる意見や質問の半分ぐらいが「洛風林」に関連したものです。着物の歴史などについて書いた本では、作家を中心に記述したものや、反対に「無名の職人」を持ち上げたものが多いです。しかし作家でもない職人でもない洛風林のような存在に気づかなければ着物の歴史の流れが説明できないことに自然とみんなが気づいているのではないかと思っています。


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唐織は日本オリジナル



唐織について、たいていの本では「唐から渡った織物」「唐風の織物」などと解説されています。

しかし古代以来、日本の織物、特に錦・綾などと呼ばれる高級品で中国などを起源としないものがあったでしょうか。織物はすべて「唐織」です。

以前からそういう疑問を持っていましたが、最近、至文堂「日本の美術4 織物」という本を読んで、この疑問が解けました。それはこんな内容でした。

能装束に多く用いられ、現在袋帯によく見られる唐織は慶長頃に俵屋によって考案されたと言われています。中国渡来の裂は厳密な規格性を持っており、構成的な迫力があるとともに硬い感じがするものです。それに対し日本起源の唐織は、織物であるから一定の間隔で繰り返すのはやむをえないが、その際にも糸の色を変えるなどして規格性を感じさせないものになっています。とくに四季とりどりの草花を主題にしたものについては自由さ・優雅さを極め、ふんわりなよなよしたムードさえあり、厳格な中国の織物とは正反対のものです。

「唐織」と呼ばれる織物こそ日本オリジナルと言えないでしょうか。

下の写真は、規則性のないデザインがたおやかな印象を与える池口平八の唐織袋帯です。



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梅垣の社長からメールをいただきました。



伝統工芸について論じるとき、私たちはいつも真贋論から始めます。一般の人がイメージするニセモノとは、手描に対する機械捺染、手織に対する機械織、草木染に対する化学染料染などです。すべてのものがその枠に入ってくれるなら、勧善懲悪の水戸黄門のように理解しやすいのですが、どうしても枠に収まらないもの、ホンモノとニセモノの中間のようなものが現れてしまいます。その代表が西陣の帯だと思います。

うちにいらっしゃるお客様の中で、紬について学者のような知識を持つ方が何人かいらっしゃいます。しかし、友禅についての知識を持つ方は稀、西陣の帯について知識を持つ方は皆無です。私も、西陣の帯について、かなり文献を探していましたが、断片的な職人の苦労話などには飽きるほど出会っても、私が知りたいことは書いてありませんでした。

先日、「今日の一点」で、梅垣の袋帯を取り上げました。この作品をテーマとして選んだのは、西陣の袋帯の価値はわからないということがいいたかったからです。「今日の一点」の、この回は、その後意外な展開になり、このホームページにたびたび登場する泰三さんの紹介により、なんと織った本人である梅垣織物の社長からメールをいただいてしまいました。しかも、私の疑問に対し一つ一つ論理的に回答してくださいました。

「今日の一点」の元の文章は失われてしまったので、まず私が疑問に思っていることを、もう1度列挙してみます。

@西陣の帯の原価はどのように計算するのか。

手描き友禅というのは、原価のほとんどは職人の手間賃であり、悉皆屋が支払ったであろう賃金と生地代の購入価格を合計すれば、製造原価になります。例外は草稿のみで、友禅の工程のうちそれだけは2枚目以後は節約できるかなといったところです。

それに対して、西陣の帯というものは、伝統的な手織といえども、ジャカード機である以上、紋紙を使うわけです。紋紙の制作費は最初にかかるだけで2本目以後はかかりませんから、製作本数によって1本の帯に配賦すべき原価は変わってきます。となれば、沢山つくって安くしようという気持ちが生まれるものです。さらに、帯が機械織となり、さらにコンピュータ付の力織機となれば、紋紙はプログラムに変わり、さらにこの傾向は強まります。

機械織のものについては、最初にコンピュータ付の高額の力織機を取得しなければなりません。しかも取得のために借金をすれば、利子の支払いもしなくてはなりません。しかし1度取得してしまえば、あとは自動で織ってくれるわけで、生産量は激増して織るための日々のコストは激減します。しかし今度は、力織機の減価償却費と利息が帯の主要なコストになり、経営が楽になるわけではないのです。

手織のコストと機械織のコストのちがいは、手織のコストは織らないことで調整できますが、機械を取得したための支出である銀行への返済や利子は、織らなくても待ってくれないということです。そこで、機械織の経営者は、売れなくても織り続けることになり、安売りするので値崩れします。最初、高い値段で買った人は、のちに安い値段で売りに出されているのを見たらだまされたような気分になり、それを売った小売店を疑うでしょう。疑われた小売店は、その帯の銘柄の仕入れをやめますから、さらなる値崩れにつながります。

A手織と機械織は、どうやって見分けるのか

友禅染の価値を決めるときは、まず、手描きか型染かということがわからなくては始まりませんが、これについては、いくつか見分けのポイントというのがあります。紬については、手織か機械織かということがまず問題になりますが、触って分らなくても産地のラベルなどからかなり情報が得られます。

西陣の帯に関しては、西陣手織協会というのがあり、その協会の会員は手織の帯に対し「西陣手織の証」という証紙を貼布しています。かつてこの証紙には大変な権威があり、私も仕入れの際には目安としてきました。もちろん、梅垣織物もその一員でした。以前は、「美しいキモノ」誌上で会員名を公表して普及を図っていたのですが、最近は会員数が激減して広告は止めています。業者に流通在庫として滞留していたものには、この証紙のものがありますが、新しいものでは、この証紙を貼ったものは滅多に見なくなりました。かわりに自主的に「手織」などと印刷した証紙を貼ったモノを見るようになりましたが、第三者が保証するようなものではないし、「手織」が本当でも、外国人の手織かもしれません。

私は、西陣の帯について、極端に良いものや悪いものを除き、証紙がなくては手織か機械織かを判断することができませんでした。そこで私の鑑定法は、手織機を運用している帯屋を調べておき、証紙番号をチェックして、その帯屋以外のモノを仕入れないという方法です。情けない話ですが、モノそのものから鑑定することはできなかったわけです。しかし、もしかしたら、私に能力がないわけではなく、織り方を手織と機械織で二分して考えること自体が、西陣の帯の分類にはあてはまらないのかもしれません。(もともと手織に価値があるという発想自体が、柳宗悦の民芸思想由来であり、伝統工芸の紬にだけふさわしいのかもしれません。)

Bどこで価値判断すべきか

織物のなかでも、紬は、手織と機械織という基準のほかに、糸は、手紡ぎか機械による紡績か、絣は、手括りか摺り捺染かという基準があります。一般には、手織・手紡ぎ・手括りという組み合わせが価値あるものと思われますが、細かい絣をぴちっとあわせるには、糸は細くて真っ直ぐな紡績の方が良く、絣は細かいものが出来る摺り捺染の方が良いという考え方もあり、何に価値の基準を置くかは、作家の創作性の範囲内です。

西陣の帯は、手織と機械織という最終工程以外に基準を求めるなら、外見でわかる柄の細かさや色数以外に、帯を織るための絹糸は、日本製なのか外国製なのか、どのような方法で染めているのか、使用されている金糸は、金箔からつくったホンモノの平金糸または撚り金糸なのか、などが考えられますが、それを見分けるのも難しそうですね。

C賃機という制度のため、帯屋を訪問しても分らない

西陣の帯屋の多くが、賃機(ちんばた)という制度で外注により制作しており、自分で工場を持っているわけではありません。賃機は、西陣とは限らず、もともと白生地を織っていた丹後が多いです。さらに、その丹後の賃機が中国に孫請けに出していて、西陣の帯屋は、見て見ぬ振りをしているといううわさもあります。

さて、いよいよ以下が、写真の帯を制作した梅垣織物の社長である、梅垣慶太郎さんからのメールです。写真で掲載しているものが、今論じられようとしている梅垣の袋帯です。ここ20〜30年で西陣でつくられたもののうち、高級品としてもっとも基準になるもののうちの1本だと思います。これについての解説を読むことで、「ホンモノ」の西陣の帯とはなにか、ということを考える1つの答えになると思います。



「染の聚楽の高橋社長から御店のホームページを教えていただき、拝見させていただきましたところ、「今日の一点」にたまたま手前共の帯が取り上げられており、西陣織の生産や流通に対する疑問をお持ちのようなので、私の意見を含めお答えしたいとおもいます。

まず「今日の一点」の帯ですが、当方で製作している帯地のなかでも最高ランクの手機「宝相錦 蒔絵花鳥文」です。この帯は、昭和五十八年に初めて製作し、以来今日までに十八本製作致しました。現在、在庫が一本ございます。このクラスの帯を製作するには、図案からですと約三ヶ月以上、製織だけでも一ヶ月はかかります。一回のロットが五、六本ですので、二十数年間で三回程製織したことになります。

ご指摘の通り、すくい以外の西陣織は紋紙を使い製織します。この紋紙を製作するのに、数ヶ月の時間と百万以上の費用を必要としました。当然、この費用を償却しなければなりませんが、このクラスの帯が何本売れるのか、又何本が適正なのかはわかりません。本当は、本数を限定して製作すれば良いのですが、全ての帯が予定本数販売できるのかどうかもわかりません。最初に予定本数を製織してしまい、もしも、予定本数販売出来なければ、価格を下げでも販売しなければなりません。手前共は、このような事態を避けるため最小ロットで製織し、時間をかけて需要以上の販売をしなくても良いように心がけております。しかし、このような考え方は、西陣では特殊と言わざるを得ません。どのような考え方が正しいのか、なにが間違っているのか私どもにも分かりません。

次に、当社が製作している他の帯との比較ですが、確かに素材やロットはまったく考え方が異なります。特にロットは一桁、場合によってはそれ以上になる事も有るかもしれません。ただし、その価格の帯としては決して多いロットではないとおもいます。当社も株式会社ですので、理想だけでは経営が成り立ちません。時には、需要に合せて低価格の帯も製作致します。しかしながら、帯の本質的な品質や製作手段は何も変わりません。たとえば、裏無地は価格に関わらず同じ物を使用しています、基本的な素材も変わりません。どのような商品でも価格のランクはあります。要はその商品に対して値打ちのある価格であれば良いのではないでしょうか。

たとえば、手機の帯は一般に高額とされています。しかしながら、いったい何をもって手機の帯と言えるのでしょうか。帯地の製作には大まかに言っても三十以上の工程があります。最後の製織工程だけで評価されて良いのでしょうか。昭和四十年頃までは、力織機の性能は非常に悪く、殆どの帯は手機でした。現在の力織機は性能が向上し、なかには手機以上にきれいに製織できるものもあります。手機の帯を否定するわけではありませんが、手機だから良いのではなく、良い帯に手機のものが多いと言うことではないのでしょうか。現在、国内で手機を稼動させることは人件費等の関係で非常に難しく、当社でも手機を維持することが難しい状況です。当社では、帯製作の工程、素材は出来るだけ従来のものを踏襲し、合理化出来るものは時節に合せて取り入れようと考えています。

最後に業界の流通に関する問題ですが、現在メーカーに上代価格の決定権はありません。買って頂いた業者が、いくらで何処に販売されようとも、文句は言えません。唯一メーカーに出来ることは価格を維持し、取引条件を厳しくすることです。当社は基本的に委託販売をせずに、買取を基本に販売しておりますが、それでも当節、ネットで思いのほか安く出ていることがあります。あまり良いことだとおもいませんが、当社の販売価格より高ければ、いくらが適正価格なのか分からないことがあります。 」


いかがだったでしょうか。私は、これほど誠実で論理的な回答をいただけるとは思っていませんでした。西陣の織屋でも、やましいところの少ない梅垣織物だから、論理的な姿勢で書けるのであって、企業としての経営に徹している帯屋では、書けないことだらけかもしれません。

当ホームページをごらんの方の多くが、ネットショップの利用経験者かと思います。ネットショップで表示されている価格は、従来の呉服店の価格と大きな差があります。かつて呉服店で高かったブランドの帯が、ネットショップで安く売っているのを発見すればうれしいですが、それが業界に対する不審感につながっているという面もあります。50万円→7万円など、単に流通を合理化しただけではありえないような数字が当たり前になっていますから。

かつて不景気になり始めたときは、中間業者が貴重な在庫を泣く泣く安く売るということがありましたが、そんな状況が10年近く続いている今、まだそんな美味しい話があるでしょうか。現在の安売りはもう織屋自身によるもので、みずからブランド価値を壊している段階だと思います。私は他人の弱みに付け込んで安く買うようなやり方は好きなので、ネットを利用するユーザーの方は、チャンスを逃さず良いものは手に入れてほしいと思っています。

ただ注意することは、織屋の制作する帯には、当然、上下のランクがあるものですが、ネットショップの解説は帯のブランド名だけが印象に残るようなものが多いので、全て同じものと勘違いしてしまうことがあることです。同じブランド名でも、手織と機械織がある場合、本社工房と外注がある場合、日本製と中国製がある場合、などがありますから、そのような元々の価格差と本当のお買い得の違いは見抜かなければいけません。

さて、ここで私の感想をまとめてみますと、

@写真の帯について、20数年間に18本という生産数は、予想外に少なくて驚きました。世界の高級品とされる他の商品と比較してみてください。この間にヴィトンのバッグがいくつ作られているでしょうか。20数年間に18という数字はヴァンドーム広場の宝石店がつくるハイジュエリー並なのかなと思います。

A私たちは、織物に関して、手織か機械織かということだけで、価値判断の基準としてしまいがちです。しかし製織は、数十ある工程の最終段階に過ぎないという意見は傾聴に値します。

B西陣の帯に関わらず、京都で和装品をつくっている人たちは伝統を守ろうという意識があまりないように思います。着物も帯も伝統工芸品ではなく、ファッションと思っているようで、より女性がきれいに見える、ということを主眼にしているようです。そして良いものを追求した結果、やっぱり伝統を守るということになるのが理想です。そのような思想の下では、織りの技法は目的ではなく手段ですから、機械織の方がきれいに織れるなら機械織になっても仕方がありません。

手織が機械織に変わっていくことについて、私たちは産地の堕落と考えがちですが、梅垣さんのメールでは、帯が手織であったのは、昭和四十年頃までは力織機の性能が悪かったために過ぎなかったように書いています。そして現在の力織機は性能が向上し、なかには手機以上にきれいに製織できるものもあるとも。「手織」ということ自体に価値があると思う私たちの思考は、実は柳宗悦らの「特殊な思想」に毒された偏見かもしれません。(これについては、折にふれて何度でも論じたいです。)

Cこのメールは、西陣の帯屋のリアルな意見と思ってしまいますが、それでもこれは特殊な意見なのです。他の、みなさんが「美しいキモノ」などの雑誌に広告が出ているような帯屋は、もっと別の姿勢、すなわち普通の企業家として商売をしています。その人たちのリアルな意見を聞いたら、皆さんはがっかりするかもしれません。 生産数についても、売れるかもしれないものを意図的に抑制してつくるというのは、企業家として勇気のあることです。たいていの織屋は、つくりすぎて、必死で宣伝をして売ることになり、そのコストをまかなうために、製作段階で手抜きをする、ということに走るのではないでしょうか。

さて、ここまで読んでこられて、みなさんは、どんな印象をお持ちになったでしょうか。かえって迷宮に入ってしまったような気がする方もいらっしゃるでしょう。私はこれまでのように、銘柄限定で仕入れていきます。梅垣ももちろんその1つです。

最後に、梅垣織物の解説を。

梅垣織物は、先代より銀座きしやの定番であり、いわゆる「きしやごのみ」の一翼を担っていました。安田や泰三などがつくっていた洗練された都会の友禅に、違和感なく合わせることのできる帯であり、銀座に集まる全国のお金持ちの好みに合うように進化してきた工芸でもあります。

私と、梅垣の帯との出会いは、問屋がたまたま持ち込んできたことが始まりですが、そのときその問屋は「これはきしやの帯だからいいものですよ」ということをセールストークにしていました。

現在、ネツトショップでびっくりするほど安い梅垣に出会うことがあります。梅垣の社長本人のメールでは、これについても触れていますが、これはどんな銘柄でもおきること。たまたま流通の都合で処分品が出たときに、梅垣の名声を利用しようとする業者が飛びつくために目立ってしまうともいえます。ネットでも実店舗でも、フォーマルを探している方は選択の候補に入れるべきだし、安く買えるなら素直に喜ぶべきだと思います。
梅垣織物のホームページでは、直接、商品の販売はしていませんが、商品の写真を見ることが出来ます。最近、ネットショップで安く売られていた商品に、証紙番号だけを貼り替えたニセモノがあったという情報もあるので、不安のある方は、見比べてみることをお勧めします。

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1.綴の歴史 京都の伝統工芸の1つである綴は、織物の組織としてはプリミティヴな平織ですから、世界各地にあります。ただし綴のなかでもっとも芸術性の高いものは、ヨーロッパで制作された巨大なタピスリーですから、ヨーロッパ的なイメージがありますね。 現存する最古の作例は、古代エジプトのファラオの墓から出土した亜麻布の綴です。その後の染織史上にあらわれる芸術的価値の高い綴はコプト織です。コプト織は世界の染織史の中でも大きな地位を占めており、古美術品として人気があります。コプト(エジプトの意)とは東ローマ帝国に支配されていた時代のエジプトの原住民で、キリスト単性論者をいいます。カルケドン公会議でキリスト両性論が国教とされてから、コプト派は異端とされ弾圧を受けました。彼らは砂漠に逃れ独自のコプト文化を生みました。綴はそのコプト文化のうちもっとも重要なものです。その根気の要る作業は織ること自体が修行のようなもので、アレクサンドリアの繁栄に背を向けて貧しい土地で禁欲的な生活を続けた彼らにふさわしい文化といえます。

もともと単性論とはキリストに神性しか認めないものです。一方の両性論はキリストが一時期でも地上で人間として過ごしたことから、キリストには神性と人性の両方があると考えるものです。単性論者はあまりにも潔癖な人たちなので、たとえ一時期でもキリストが人間みたいな生活をしたというのが許せず、あくまで仮の姿としたのでした。

友人として付き合うのなら、ものわかりのよい社交的な人がいいですが、芸術作品は、生きるのが下手な一途な人が作ったものの方が魅力があります。コプトの魅力とはそういうことではないでしょうか。

東ローマ帝国の東の国境は常にササン朝ペルシアに脅かされていました。東ローマ帝国といえば宦官たちが陰謀をめぐらすだけのイメージですが、優れた武将であったヘラクレイオスがクーデターにより皇帝になったとき、めずらしく勇猛になって一気にササン朝を滅ぼしてしまいました。

しかしペルシアという地域は後背地が広く王朝を滅ぼしただけでは支配ができません。アレクサンドロス大王はそれを知っていたからペルシアの東端まで行ってパンジャブ地方まで遠征し、ユリアヌス帝はそれがわからなかったため、勝ちながらもこの地で死にました。現代のアメリカ軍もフセインの政府をあっけなく滅ぼしながら、今もイラクを平定できません。またイラクとアフガンの安定のためにパキスタンに越境攻撃しなければならないのは、アレクサンドロスがペルシア征服の後パンジャブに遠征したのと同じです。アレクサンドロスがインドを目指したように見えたのは、ただの個人的な妄想ではなく軍事的な必要があったのだと思います。

ヘラクレイオス帝が、ペルシア全土を支配する力がないままササン朝を滅ぼしたのは、ビザンツ帝国にとって大きな災厄となりました。ゾロアスター教を国教とするササン朝が滅びたことにより生じた空白地帯は、発生したばかりのイスラム教が埋めてしまったからです。こうして東ローマ帝国はより強力なイスラムに脅かされるようになってしまいました。そしてイスラムがエジプトに侵攻したとき、ヘラクレイオス帝は何もできず、あっさりエジプトを失ってしまいました。東ローマ帝国がキリスト両性論を強制していたため、住民の協力が得られなかったためといわれています。

偶像崇拝を禁じるイスラム教の征服により、コプトの綴は人物表現を禁じられ幾何学模様ばかりになり、やがて衰退してしまいます。その次に、綴が染織史上にあらわれるのは西欧のタピスリー(英語ではタペストリー)です。有名なバイユーのタピスリー(1066〜1077)はタピスリーとは言いながら綴ではなく刺繍作品です。タピスリーは13世紀ごろから刺繍ではなく綴に代わっていきます。7〜8世紀には制作されなくなったコプトの綴は13世紀ごろから始まる西欧のタピスリーと関係があるのでしょうか。ないとするなら、西欧のタピスリーはどこからその製法を得たのでしょうか。

ビザンツ帝国好きの私としては、染織文化はコンスタンティノープルを経由して受け継がれていったと思いたいです。(ということで話をすすめていきます。しかし古代の漢にも綴錦があり、アンデスのプレインカ文明にも綴がありますが、それぞれは自然発生なので、もしかしたらヨーロッパのタピスリーも自然発生で、コプトとは直接関係ないのか知れません。)

東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時代に中国から養蚕の技術が伝わり、また紋織の技術も伝わって高度な染織文化を築きました。東ローマ帝国では敵将を買収したり、講和条約締結の条件として絹織物を贈ったため、絹織物は戦略物資として西欧への輸出が禁止されていました。

20世紀後半の世界が東西に分かれていたように、古代末期から中世のヨーロッパは、西のラテン世界、東のビザンティン世界に二分されていました。しかし1204年の第4回十字軍がコンスタンティノープルを略奪し、略奪者たちがラテン帝国を打ちたてたため、ヨーロッパの情勢は大きく変わりました。ラテン帝国は、その後60年間コンスタンティノープルを支配するのですが、国民の合意もない、理想もない、このならず者国家は東ローマ帝国が蓄えた富を西欧に叩き売ることだけを存立基盤にしていました。この間に多くの染織品も西欧に持ち去られました。そしてこのころから西欧の宮殿につきものの巨大なタピスリーが制作され始めるのです。

コプト以来の綴は絵画的な表現をするのに適した手法ですが、現在ローマ法王庁やヴェルサイユ宮殿で見るような巨大なタピスリーこそ、綴が到達した一つの頂点なのでした。

綴は7世紀ごろ日本に伝わりました。いちばん有名なのは、正倉院ではなく当麻曼荼羅です。(これをテーマにした折口信夫の「死者の書」は有名ですよね。)しかし綴は、その後千年近く(少なくとも芸術的な価値のあるものは)制作されず、江戸時代後期の1800年代になってから再び京都で制作されます。現存するそのころの作品は祇園祭の山鉾の懸装品として使われているので今も見ることができます。なぜ1800年代になってから急に京都で織られ始めたのかと考えれば、この少し前に祇園祭の山鉾の懸装品としてゴブラン織が輸入されておりそれらの作品に触発されたものと思われます。

近世に輸入されたタピスリーのうち最も重要なものは鯉山に使われている「イーリアス」をテーマにした連作です。ゴブラン織よりさらに100年ほど前のタピスリーです。元々はローマ法王が発注しラファエロが下絵を描きベルギーで織ったものとされています。当然バチカンにあるべきものですが、だれかがオランダ船に載せ鎖国中の日本に持ち込み出島で取引されたのです。野口はかつて鯉山の会長でしたから、一時それを管理していたはずですが、そのとき友禅で再現した作品を作っていました。私が持っているので写真を載せてみます。



本格的に制作されるようになったのは明治時代で、芸術として呼べるものとしては川島甚兵衛の巨大なタピスリーが知られています。現在、綴では細見華岳が人間国宝として指定されています。爪織の綴の産地は伝統的に西陣ではなく右京区の御室でした。戦前までは御室に綴を織る機屋が密集していたといいますが、現在はその多くは移転して普通の住宅街になっています。余談ですが、御室はオムロン発祥の地でもありますね。

2.綴の技法

綴は、絵画的あるいは創作的な表現をするのに適した方法ではないかと思います。綴は組織としては単純な平織であり簡単な織機しか使わないので、織手の思いを直接に作品にぶつけることができるということです。紋織では織手は紋紙以上のものはつくれないし、コンピュータ付の織機では最初のプログラム以上のものは絶対につくれません。高度な織物ほど、創作に参加できるのは図案家だけに限られてくるのです。綴は、紋紙を使用しないで、経糸の下に図案(かつてはカレンダーの裏を使っていた)を置いてそのとおりに爪で織っていくだけという単純な技法なだけに、織手の意思でいくらでも創造的なものに変えられるということです。

綴の基本的な織り方は、まず経糸を織機に掛け、その経糸の下に図案を置いて、それを見て色を合わせながら杼を用いて緯糸をくぐらせ、刻みをつけた爪の先で緯糸を織り込んでつめていくというものです。通常の平織ならば、経緯の糸が交わって裂になるので、完成した裂の色は、経緯の糸の平均の色になります。(たとえば、経糸が赤で緯糸が青ならば織られた裂は紫です。)しかし、綴のばあい「爪掻綴」というように、刻みをつけた爪の先で緯糸を織り込んでつめていくので、経糸は緯糸に覆われて完全に見えなくなってしまうので、裂に色は緯糸の色のみが影響します。

そして、模様を構成するために色を変える時は、緯糸をつなげないで折り返すので、緯糸は全段を通らず、色を変えるところに経糸に沿ってハツリ孔という隙間が生じるという弱点があります。まっすぐ縦に色が変わるようなデザインだとその部分だけ生地に断裂が生じてしまいます。

下の写真は綴表面の拡大ですが、単純な平織ながら緯糸が経糸を完全に覆って経糸は見えなくなっています。また、色が変わる部分は緯糸が折り返してしまうので、経糸に沿って断裂が生じています。



ハツリ孔による裂の断裂を防ぐのは、意匠を工夫することによってもできます。この孔雀は清原織物(2515)によるものですが、とくに断裂を防ぐ意匠上の工夫はしていません。左はお太鼓、右は裏から光を当ててハツリ孔を見えやすくしたものです。



この竹も清原織物(2515)によるものですが、横方向に伸びる意匠のため、ハツリ孔による裂の断裂は少なくなっています。



この風景模様も清原織物(2515)によるものですが、雲に横方向の凹凸をつける意匠で、ハツリ孔による裂の断裂を最低限に防いでいます。



紋織りの場合は色を変えるときは使わない色は裏に潜っているので強度に問題はありませんが、「渡り」といわれる潜っている部分が多いと重くなるという弱点があります。また緯糸が全段を通らないという綴の特徴は、弱点とは限りません。糸の色数に組織からくる制約がないので、自由に色数を増やすことも可能で、それは作者に創作の可能性を増やしまう。

紋織と違って紋紙を使用しないで、経糸の下に図案(かつてはカレンダーの裏を使っていた)を置いてそのとおりに爪で織っていくという、テレビやポスターに使われる情景は、「てづくり」こそ最高の価値があると信じる工芸ファンの桃源郷でしょう。普通の紋織の西陣の帯は手織りとはいってもジャカード機ですから、紋紙の製作費という初回だけのコストがあります。そのため沢山つくるほど初回コストが分散され、1本当たりコストが低くなるので、複数つくることが前提となり最後に売れ残って安売りすることもあります。一方、綴は紋紙という初回コストがないのでロットは1本で余分につくる必要がないので値崩れしにくいといわれます。(その代わりにたくさん作ってもコストは下がりません。)

3.人間国宝・細見華岳の作品



下の写真は、上のまん中の写真を近接で撮ったものです。黄色と水色の模様だけであれば、地に対して断裂が生じてしまいますが、その色の変わる部分を波形の模様が貫くことで、緯糸が繋がり断裂を防いでいます。つまりこの波形は、意匠であるとともに織物の組織を支える役割も負っているのです。装飾意匠であるとともに実用性も持っているというすぐれた設計です。



4.模様だけを絵緯糸で表現した綴

爪掻綴の他に、無地部分は綴組織で、模様だけを絵緯糸で表現したものがあります。河村織物(37)の「河村つづれ」、坂下織物(888)の「御門綴」、華陽(103)、などです。左は河村つづれの八寸の名古屋帯、右は華陽の袋帯で、いずれも地は綴ですが模様部分は裏に渡り糸があります。どちらの帯も「西陣手織組合」が発行する「手織の証」が付いており、西陣の手織りの帯として由緒正しいものということになります。

5.綴とすくいの違い

意外とわかりにくいのがすくいと綴の違いです。わかりにくい原因は、西陣の織屋も呉服屋も学者ではないので、言葉を使うときにいちいち定義しないからです。「綴」あるいは「綴の組織」は、広辞苑でも染織事典でも調べることができます。しかし、「すくい」というのは辞典には載っていないのではないかと思います。和装のような本来ファッションである分野においては、学者が定義してから製造が始まるのではなく、誰かがお金儲けを目的として新しい織り方を開発し、運が良いとそれが流行し、それが数十年持続すると、学者が定義して染織事典に載るのではないかと思います。古代からある「綴」はすでに学者が定義してありますが、「すくい」は近代に生まれ、まだ学者によって定義がされるまでの過程にあるのでしょう。

一般的には、綴は意匠によってフォーマル系もカジュアル系もありますが、「すくい」は紬の着物に対する帯合わせに限られるようです。しかしそれは定義ではなく用途に過ぎないかもしれません。作品自体を見ると、綴は、模様も地も全体が綴組織で織られていますが、「すくい」は模様だけが綴組織で織られ、地は平織であるということは言えそうです。写真は、まこと織物によって織られた「まことのすくい」です。模様の一部分だけが綴組織の表面上の特徴であるタテ縞が見えます。ところで、「まことのすくい」とは登録商標です。「すくい」という言葉はすでに一般語であるために登録できないということだと思われますので、定義されていなくても一般語ではあるということですね。



写真は松葉屋のすくいの袋帯です。綴組織の部分が多いですが、平織など別の組織も併用し、多用な組織を持つ織物になっています。人間の創作力は無限ですから、模様が綴、地が平織という単純な定義を当てはめるわけにはいかないという例ですね。



6.問題点など

一方、綴は手間はかかるが高度な織機は必要としない、ということから、機械はないが人手だけは余っているという発展途上国においてまねされると安く大量に作られてしまうという欠点があります。また最初に設備投資しなくてすむので、カントリーリスクの大きい国にも向いています。反日デモがおきて工場が壊されたら、高度な織機を使っていたら大損ですが、ただ中国人に織らせているだけなら解散してしまえばOKです。事実、中国製の綴は大量に輸入されて日本製の1/10ぐらいの価格で販売されています。綴を買うときに一番最初に考えることは、柄が良いか悪いかなどよりも日本製か中国製かということです。

しかしながら、現実には、川島織物のような明治時代から最高の綴作品を織ってきた名門メーカーが、中国で生産する例もあり、そのばあいは「安い外国産」であるとともに「名門川島ブランド」でもあるわけで、価値判断に迷うところですね。



 

絽綴



今から30年以上前、中国で最初に和装品がつくられた時は、刺繍と綴からはじまりました。はじめ、中国製は安くありませんでした。日本向けの製品は公司によって製造され友好商社によって輸入されました。そのため価格が維持されていたからです。しかし、ケ小平の開放政策が始まると、自由に製造・輸入されるようになり、価格も品質も下落しました。

それ以来、安い中国製が出回るようになり、刺繍と綴は高い日本製と安い中国製が併存するようになりました。刺繍と綴は日本では高価ですし、私たちは昔からそういうイメージを持っていますが、中国製の氾濫とともに、私たちは刺繍と綴について二重の基準をもつようになりました。

ではなぜ刺繍と綴は高価なのか、それは手間のかかる手仕事で人件費が高いからです。かつての日本では人件費は安かったのですが、それを買う側の購買力も低かったので高価でした。また現代の日本は購買力は上がりましたが、人件費も上がったのでやはり高価です。

消費者は同時に生産者でもあり、人件費が上がることと購買力が上がることは同じことですが、国際的な貿易や海外生産がおこなわれるようになると、人件費が安い国で生産して購買力が高い国で消費することができますから、この原理が崩れてしまいます。

和装品のように日本固有の文化的商品も例外ではありません。むしろ電機関係より先に中国での生産が始まりました。「着物が海外で?」というと意外に思う人がいますが、繊維製品は非工業国が手掛けやすい軽工業ですから必然と言えます。

和装品の中でも特に刺繍と綴から中国生産が始まったのは、刺繍と綴は友禅のような日本固有の技法ではなく、むしろ中国の方が歴史的に先輩なので基本的な技術があったのです。(ただし文化大革命によって当時は技法が衰退しており、たとえば刺繍の技法の数などは、今でも日本よりかなり少ない。)

また、人件費の安さをメリットとして途上国で生産する場合には、刺繍と綴のように生産コストのほとんどが人件費であるようなものの方がメリットが出やすいという理由もあります。中国と日本のいちばん大きな違いは人件費で(現在よりも30年前の方がその差は大きかった。労働者の1か月の給料は3,000円ぐらいだったのではないか。)、その差を狙って中国生産をするのですから、総コストのうち、人件費率の高いものほど中国生産のメリットが現れるのです。

友禅は地染めや蒸しなどに一定の設備が必要であり、また紋織の帯は高価な織機が必要ですが、日本から設備を移設すれば、その部分は日本で製造する設備の製造コスト+移設費になってしまいメリットが出ません。したがって、日本では手作りのため特に高価とされるものが中国生産になりやすく、機械で生産される量産品よりも、刺繍や綴のような和装品の中でも特に高級なものが中国で生産することでいきなり安くなるという現象が起きました。

絽綴は本来が季節限定の高級品で趣味性の高いものです。限られたお金持ちだけが味わうことのできる和装の中でも奥津城に属するものなのに、中国製品が大量に流入したために、着る人にとっては安物、売る人にとっては値崩れのリスクが大きい商品になってしまいました。

日本製の絽綴は、もともと池口、河村つづれ、浅野などがつくっていましたが、価格は20〜30万円でした。一方中国製は2〜3万円とほぼ1/10で流通しました。もちろん品質について両者にははっきりした違いがあり、実際に使用すれば日本製はしっかりしているが、中国製はすぐくしゃくしゃになってしまうといわれていました。デザインについては、中国製は日本人が現地に持ち込んだ図案を使っているので両者とも同じですが、中国製は色が品がないといわれていました。そして何より中国製は織り方が雑でしたが、具体的に比較して見ると、次の写真のようです。左が中国製、右が日本製です。地と模様部分の境目の処理が全然違いますね。



咲いた花のような曲線の多い部分を比較すると、日本製と中国製の違いは一目瞭然だったのですが、それは言い替えると同じ花でもつぼみや葉ならばわかりにくいということであり、さらに直線の多い幾何学模様ならば日本製も中国製もわかりにくいということでした。そこで当店では日本製の具象的な柄と中国製の抽象的な柄を扱い、こだわる人には日本製、予算のない人には中国製を勧めていました。

左2本は日本製/いちばん右は中国製のうち、やや高価で出来の良いもの。流水のような柄では差が出にくい。



当店では、こんなことは一時的な現象であり、そのうち着物を着る人たちの目が肥えて、筋の通った日本製に対する憧れが強まり、中国製はますます値崩れするだろうと思っていました。そこで日本製を積極的に仕入れると共に中国製は在庫処分しました。

しかし現実は、中国製の絽綴がますます値崩れしたというのと、日本製はますます希少になったところまでは当たったのですが、その先が違いました。あまりにも早く完全に中国製が市場を占拠したしまったため、人々は日本製に憧れる余裕もなく、中国製であることが当たり前になって、かつて日本製があったことも忘れられたようになってしまいました。人々は絽綴は2〜3万円という「常識」ができてしまい、私が20〜30万円のものを見せると詐欺師のように思われるようになってしまいました。そのころの私は、やむを得ず言い訳しながら安売りしていました。

私の知っている一番最近の中国製の絽綴の価格は卸価格で3800円です。それに対して小売価格はいくらになるのかとたずねたところ、小売価格は「ない」ということでした。「ない」とは販売はされず、絽の小紋を買った人におまけでつけるということです。もう絽綴自体が悪いイメージだけを残して消えていってしまうのかと思われました。



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