繍・箔・絞


京繍について

東京友禅の刺繍について

絞りの理論

辻が花

有松絞

疋田について

金加工について







京繍について



1.刺繍の特徴

染織技法の1つとしての刺繍には、いくつかの特徴があります。ここでは、「主体性と補助性」ということと、「普遍性」ということをテーマにして論じてみたいと思います。

(1)主体的な作品と補助的な作品(主体性と補助性)

刺繍の特徴の一つは、主体的な作品とともに補助的な作品もあり、そのほうが数が多いということです。主体的な作品とは、刺繍作家が下絵を描き糸の色を決めて刺繍したものです。補助的な作品とは、友禅作家から「ここちょっと寂しいから刺繍しといて」などと言われて、いくらか報酬をもらってする仕事で、「あしらい」といいます。

京都でつくられる着物の多くは友禅ですから、刺繍は強調したいところだけに部分的にされているものがほとんどで、刺繍のみの訪問着あるいは留袖というのは多くはありません。そのため多くの刺繍職人は自分の創意で着物を作るよりも、他人の作品に対し補助的な仕事をしている方が多いのです。

自分の創意でつくるか、下請けに甘んじるか、これが刺繍作家と刺繍職人のちがいだと思います。自分の創意でつくれば資金の心配もしなければならず、また一生懸命つくっても売れなければ損をします。一方、下請けならば、自分で悩まずとも仕事をしただけの報酬は確実にもらえます。

さらに京繍には基本だけで15の技法があります(技法の数については経済産業大臣指定伝統工芸品に指定された時の要件による。)が、刺繍が主役になる作品では、そのすべてをマスターしていなければ、一本調子の単調な作品になってしまいます。しかし下請けならば、よく使う平繍、駒繍、相良繍ぐらいができれば確実に稼げます。そういう理由から、作家になって創意でつくろうという気概をそがれてしまう例も多いでしょう。

しかし、あえてリスクを負って創作的な刺繍作品をつくる人もいて、有名なのが故福田喜三郎とその息子である人間国宝の福田喜重です。人間国宝の指定は、刺繍の技術だけではなく、創作的なことをしているかどうかも判定基準になっています。

もっとも、友禅に部分的な刺繍をすること(「あしらい」という)も、職人として誇りを持ってやっている人もいます。平凡な友禅が、ワンポイントの刺繍によって急に生きてくることもあります。私は以前、友禅が物足りなかったので、3万円を限度という条件で刺繍の追加を頼んだことがあります。するとその刺繍職人(藤沢さん)は、友禅で描かれた建物の輪郭を刺繍したのですが、普通なら駒繍でするところをまつい繍という技法(後述)で行い、建物が奥に行くにしたがって徐々に細くなっていくように刺繍して、遠近感を演出しました。私はそんなことは思いつかなかったので、職人自身の創意でやってくれたのです。自分では「職人」と称していても、作家以上の人がいるということです。

刺繍に主体性と補助性という2つの性質があることについて、このようにも考えられます。

@とても高価であるために、刺繍だけで着物の全体の面積を埋め尽くすことが出来なかったため、他の技法と併用することが多くなった

A刺繍が着物の製造工程の最後であるために、ついでの仕事を頼みやすい、さらに自由に追加できるということで、他の技法と併用することが多くなった

ということが考えられます。

(2)普遍性

刺繍のもうひとつの特徴は普遍性です。生活の中でも普遍的ですし、地域的にも普遍的です。

@生活の中での普遍性とは、たとえば、トレーナーやポロシャツの胸にもワンポイント刺繍がついていることや、お母さんが子供の幼稚園のお砂場着に名前やアニメキャラを刺繍をすることがよくあるということです。お砂場着に友禅染をしたり、金箔を貼ったりするお母さんはいないということを考えれば、やはり刺繍は普遍的といえるでしょう。

このような刺繍の普遍性は、刺繍をなじみ深いものにするというよりも、価値をわかりにくいものにしています。小学生が家庭科で自分で作った袋に刺繍するのも手刺繍ですが、ワンポイントで10万円もする京繍も手刺繍です。職人として修業しなくてもカルチャーセンターで刺繍の講座を受けて、基本技法だけならそこそこできる人もいますよね。

A地域的普遍性とは、友禅は日本独自のものですが、刺繍は世界中どこでもあるということです。

刺繍業界の最大の問題は、安い海外の刺繍との競争ですが、これも刺繍の地域的普遍性がなせる業です。海外で京友禅をすれば、それはニセモノと斬って捨てることができますが、刺繍はそもそも中国が先輩ですから日本に流入してくるのも仕方がありません。

海外で日本の着物に刺繍をはじめたのは韓国と台湾ですが、それほど影響はありませんでした。刺繍業界の状況が大きく変わったのは、日中国交回復後の蘇州刺繍からでした。私は80年ごろ蘇州の刺繍工場を見学しましたが、見事な両面刺繍に素直に感動しました。当時の蘇州名物の両面刺繍の代表的な作品は、黄緑色の紗の生地に、金魚を両面とも同じ絵になる技法で刺繍するものでした。それを、水槽ぐらいの大きさの木枠に嵌めると、本物の水槽に生きた金魚がいるように見えるのです。初めて見たときはそのリアルさと美しさに素直に驚き、尊敬の念を感じたものです。しかし後に価格のことでこんなにも問題になるとは思いませんでした。

そのころ中国の刺繍職人の月給は3000円程度と聞いていました。当時の日本の100分の1ですよね。しかし現在では中国は人件費が上がり、また一人っ子政策のため刺繍職人になろうとする者も減り、刺繍の産地はヴェトナムなどに移っています。いずれにしろ製造コストが全然違う国と競争させられる日本の刺繍職人は気の毒です。そうなってしまったのは、刺繍が普遍的であるということが欠点になった例です。

普遍的である理由は、刺繍が人類にとって、絵を描くことや打楽器を演奏することと同じように自然発生的であるということですが、経済的に見ると、刺繍は初期投資が少ない、という理由がさらに重要な意味を持っています。

古代においても、錦を織るためには、巨大な空引機の発明がなくなてはなりませんでしたし、機械文明の現代においてモノをつくるには、設備投資はさらに大きくなっています。しかし、刺繍は古代でも現代でも、つきつめれば針1本です。それが先進国と途上国、プロの職人とお砂場着をつくる主婦が、同じスタートラインに立って始められる理由です。人件費の高い国のプロの職人は、全ての作品について、高い値段を出しても良いと言ってもらえるような芸術レベルの作品でなければ存在価値がないという厳しい立場なのです。

2.刺繍の歴史

刺繍の起源は、衣類をつくる際に2つ以上の素材(獣皮でも繊維でも)を針と糸で縫い合わせたことです。やがて生地が傷んだときにその部分を縫えば、強度が保たれるということを知りました。生地と生地の境でなく生地の内部を縫うことを知ったわけです。その縫い方を装飾的にしていったものが刺繍の起源だと思います。なお漢字では2つの布を合わせるときは「縫う」、1つの布の内部をぬうときは「繍う」と区別しています。(ただし、小袖の様式である「慶長縫箔」は慣例的に「縫」という字を使います。)

日本に刺繍の技術が伝わったのは実用品としてではなく、信仰の対象としてでした。すなわち繍仏です。繍仏は立体感において、仏画と仏像の中間に位置するものなのでしょう。奈良時代は、寺院の建立は国家鎮護という目的、つまり国防費ですから主要な国家事業でした。国家事業としてつくられている間は、繍仏は縫殿寮という国家公務員によってつくられました。平安ごろからは、寺院の造営が主要な国家事業とは考えられなくなり、そのため公務員による繍仏はつくられなくなりました。それにより繍仏は衰退しますが、鎌倉ごろまでは個人の信仰心でつくられます。個人の信仰心によったということは、この時期のものだけに人髪が縫込まれていることでわかるということです。大事な家族を亡くした人が遺髪を混ぜたんでしょうね。

仏像や仏画は今日まで続いているのに、繍仏だけは衰退してしまいました。私はそれがちょっと残念です。宗教美術というものは、ただ芸術的なセンスだけでつくるべきではなく、切羽詰った信仰心というか、神仏にすがるような精神状態が必要と思うのです。繍仏は信仰の表現において、コプトの綴のように最も適した方法だったと思います。

仏画は絵画であり、絵画というものは一本の線で勝負が決まる、というもので、特別な才能が要求されるものです。それに対して刺繍は、才能を瞬間的に燃やすというよりも、地道に繰り返す要素が強いです。ですから煩悩を抱えた人が、それが浄化されるまで、毎日毎日無心で針を動かして仏の姿を繍うというのは、心のリハビリにちょうどいいと思うのです。完成する頃、精神的にも安定が得られるのではないでしょうか。

刺繍は平安以後、宗教具ではなく服飾になりました。そして最盛期を迎えたのは桃山から慶長ごろの繍箔(縫箔)です。その後は友禅など多様な技法が登場してくるからです。では、優れた刺繍とはどういうものか、次項で条件をあげてみます。

3.すぐれた刺繍とは

@すぐれた図案
絵画でも彫刻でも、表現しようとするもののテーマや基本的な構図は最も重要なものですが、刺繍も同じです。しかし図案に関わるには、全工程に主導権を持つ刺繍作家のみに許されることで、ただ友禅にあしらいをすることを主な仕事とする刺繍職人には関与することのできない分野です。そのため、すぐれた刺繍作品を生むためには、刺繍作家が生まれることが必要です。

A刺繍は補助性のある芸術であるというところから、他の技法との整合性
絞りは淡い雰囲気を持っているのに対し、刺繍は強い雰囲気を持っています。また金摺箔は重厚ですが平面的であるのに対し、刺繍には立体感があります。このような視覚的な違いを上手く組み合わせることで絵画にはできない表現をすることに、刺繍の意義があると思います。

B色彩計画
色の選び方、その組み合わせの重要性は、絵画や友禅と変わりません。中国刺繍が輸入された始めのころ、技術は素晴らしいけれど色彩感覚が日本人の好みとちがう、といわれていました。そこが日本刺繍と中国刺繍の見分けのポイントとなりました。 また「あしらい」においても色彩は重要で、「ここに刺繍をしましたよ」とわかるように、元の友禅よりかなり濃い色の糸で刺繍をする人もいますが、それが下品ということにつながる場合もあります。中井の友禅では、あしらいをするときは、元の友禅と全く同じ色を使っていることが多いです。光の反射の違いだけで刺繍を感じるんですね。これ見よがしでないのに、視覚効果としては強力だったりします。

C技法の組み合わせ
京繍には15の基本技法がありますが、それぞれの刺繍職人が自分なりのバリエーションをつくることができるので、無限に技法があることになります。それらを多彩に組み合わせることで、一本調子の退屈なものにならないのがよいと思います。

D刺繍の技術
京繍には15の基本技法がありますが、そのすべてをマスターしているか、またそれらを組み合わせて自分だけのバリエーションをつくれるか、という技術もあります。しかしそれだけでなく、平繍で小花が並んでいるようなデザインでは、技術は平凡ではありますが、そのうち1つでも粗っぽいものがあると、見る人はそこだけ気になってしまうので、一分の隙もなく繍わなければならないという難しさがあります。しかし、ただミスがないだけではミシンと同じなので、人間的な温かみを表現するという技術も求められるのかもしれません。

4.京繍の意義と技法

昭和51年に京都の刺繍は伝統工芸品の指定を受け、「京繍」の意義が明らかにされました(http://www.kougei.or.jp/crafts/0303/f0303.html)。このころ韓国への技術流出が多くなり産地としての京都のライバルとなっていました。「意義」を明らかにしたのは、そういう背景があったのでしょう。しかしその後中国が参入するに及んで韓国との競争などすっ飛んでしまいました。

中国が日本の着物に刺繍をするようになってからは、刺繍が高級品であるという千年来の常識も崩れてしまいました。刺繍のコストの大部分は手間賃であり、人件費は中国の職人は月給3000円にすぎないのですからコストは100倍違います。2割増とか5割増ということなら努力で埋められますが、100倍では努力ではなんともなりません。刺繍の産地としての京都は、自分たちが行っている刺繍は、中国のものとどこが違うのか、100倍の価値のあるものができているのか、みずからをちゃんと定義する必要を迫られてしまいました。

では、京繍とは何でしょうか。日本の他の地域で行われている刺繍と何らかの違いがあるのでしょうか。また京都で修業をしたが、その後、他の地域へ転居し、その地で数十年刺繍の仕事をしている場合、その人の作品は生涯にわたって京繍といわれるのか、など疑問が湧いてきます。(京都生まれで他の地方の男性と結婚した女性には、男性の住む地域に転居した後も、京都の問屋の依頼で刺繍の内職をしているというパターンは結構多い。)

ところで、全国の刺繍の生産量を見ると、京都は一番ではありません。しかしそれは、ポロシャツの胸にワンポイントのミシン刺繍をするような、量産的なものを含んでのことです。全国の刺繍種類ごとの生産量や生産額の内訳をみると、その大部分は量産的なミシン刺繍で、今ここで論じているような、高級呉服に施されるような手刺繍は、刺繍という産業の中ではむしろ特殊なものなのです。そしてその特殊なもの中で、最大シェアを持つのが京都ということになります。京都の刺繍職人たちは、自分たちが京都にあって、日本のすべての高級な手刺繍の代表であることに代々プライドを持ち、そのプライドの表現として、「京繍」という言葉が出来たと思われます。そして彼ら自身、他の地域の刺繍との違いを定義することなど必要なかったと思います。

正式に伝統工芸品の指定を受けた時に明らかにされた定義のうち、技法については、次に掲げる基本の15種類とそのバリエーションに分類されました。

@ 鎖繍
線を表現する技法で鎖が連なっているように見える技法。針を下から上へ刺し、輪をつくって上から下へ刺します。さらにこの輪の内側から針を上に出しまたこれを内側に入れて次の輪をつくる。古代の繍仏はほとんどこの技法でつくられているという古い技法でもある。

Aまつい繍
下絵の線に対し「ノ」の字になるように刺して、ずらしていく技法。線を表現する技法でありながら途中で太さを自由に変えられるのが特徴。写真は千切屋治兵衛(実際の制作は藤沢さん)のもので、「近江八景」という作品の一部。上は橋が金駒で波がまつい繍、下は雲が金駒で雨がまつい繍。ノ」の字にずらすことにより生じる線の凹凸を生かして芒の穂を表現している。





B繍切り
小さな文様を布目の経緯に関係なく自由に繍いつめていく技法。面を表現する基本技法。花弁を表現するときによく用いられる。写真は倉部さんのもので、近景にある菊の花弁は金駒、少し後ろにある菊の花弁は繍切りが使われている。同じ菊の花弁でも技法を変えることで遠近感を表現している。垣は金駒。



C相良繍
点を表現する技法。下から上に刺し結び玉を作る。古代の繍仏にも使われているし、中国刺繍にもよく使われる、時代・地域に普遍的な技法。写真は千切屋治兵衛(実際の制作は藤沢鉄雄)の訪問着のあしらい。



D渡り繍
下地に密着させて隙間なく広い平面を詰めていく技法。GとHを参照。

E割り繍
Bの繍切りのバリエーション。繍切りと同じだが、1つの図柄が中心線で左右対称になっている文様のときに用いられる。木の葉の柄を表現するときに便利。

F刺し繍
平面を繍い詰める技法だが、針足に長短をつけながら文様の外側から内側に繍い、二段目三段目も針足に長短をつけて繍うのが特徴。動物の毛や鳥の羽を表現するのに便利。作例では、鴛鴦の羽根に刺し繍が用いられ、いちばん外側は陽が当たっていることをあらわすように金糸で繍っている。



G割付文様繍
Dの渡り繍をした上に、細い撚糸や金銀糸で図柄を幾何学模様に繍い分ける技法。「氷割」「亀甲割」「麻割」、バリエーションとして「変り格子」などがある。割り繍で木の葉の柄を表した上にこの技法で葉脈を表現することが多い。写真は倉部さんのもの。貝の凹部は菅繍で後退して見える効果を狙っている。



H霧押さえ繍
Dの渡り繍が浮かないように押さえの意味で行う補助技法。渡りの上に細い糸で目立たないように繍う。写真は倉部さんのもの(千治)で、左は肉眼で見たところ、右はその拡大。





I駒繍
太い金銀糸を下絵に沿わせて置いて別の細い絹糸で繍いとめて行く技法。友禅で描いた絵を目立たせたいときに、その輪郭に施すことが多い。写真は倉部さんの「花簪」で、金属部分の質感を金駒で表現している。



J組紐繍
組紐のように見える繍い方。組紐を表現するときに使う。写真は、いろいろな種類の帯〆を刺繍で表現してみたという変わった意匠の名古屋帯。いちばん下の帯〆が組紐繍。

K菅繍
下地の緯糸に沿って、一針足ごとに一目とか二目とかというように、一定の間隔をあけて繍っていく技法。面をびっしり繍ったものより立体感がなく、また緯糸に沿って生地の凹部に嵌め込むようにするので、刺繍ではなく織り込んであるように見える。遠近感の必要な図案の遠景や、凹凸のある形の凹部の表現に使われる。上の作品は、模様に立体感を持たせるため、金駒と渡し繍と菅繍と印金の4種類の技法を併用している。下は両口柄杓で、柄の部分が金駒、酒を酌む部分の凹側が菅繍。





L肉入れ繍
中に綿を入れたり、本繍の前に木綿糸で下繍をしておくことで、立体感を出す技法。

M竹屋町繍
名物裂のなかに主に掛け軸の表装に使われている竹屋町裂というのがあるが、そのまねをして考案されたと思われる技法。写真は、竹屋町繍ではなく掛け軸の表装に使われている本当の竹屋町裂。竹屋町裂は紗の生地に平金糸を織り込んだものだが、竹屋町繍は紗にこだわらないものが多い。



N芥子繍
点を表現する技法で、雲、霧などを表現する。針足を極端に狭くして点に見せている。この作品では、女郎花が芥子繍(針足を短くして点に近い表現をしている)、薄がまつい繍(ノの字のずらし方でススキの穂を表現している)。



5.京繍の再定義、海外の刺繍に対応して

京繍は、すぐれた伝統工芸であることであることは疑いないですが、同じ人間がするものでありながら、中国刺繍にくらべて100倍価値がある、というものができるでしょうか。生産国の違いだけでそう言い切れる人がいるなら、その人は視野の狭い国粋主義者と言われてしまうかもしれません。京繍は再定義を迫られていると思います。それは芸術でない刺繍は存在意義はない、すべての京繍は、芸術でなければならない、ということです。いきなりそんなことをいうと無責任と思われるでしょうが、「100倍の価値を持ったものを作れ」といわれたら、「芸術」みたいなウルトラC的な概念でも持ち出さなければ克服できないでしょう。さて芸術的な刺繍とは何かについて考えてみました。

その結果、図案と、技法のバリエーションではないかと思うに至りました。丁寧に、几帳面に、ということでは、中国人だって真面目で一生懸命やっています。それだけで、京都のほうが勝っているとはいえません。そこで思い出したのは、かつて蘇州で見学した刺繍工場の光景です。若い女の子が何十人も並んで刺繍していました。もしかしたら100人より多かったかもしれません。当時は「おにゃんこクラブみたいだなあ」と思い、数だけですごいと思ってしまいましたが、今はそれが欠点であったのではないかと思っています。

京都では、親方の下、数人の弟子が刺繍をします。時には、親方と弟子が1対1でします。それぞれの職人は、前述の15の技法をマスターすることが要求され、技法を変えながら繍っていきます。

中国の刺繍の女工さんたちは、みな器用で、根性があり、しかも老眼ではなかったでしょう。しかし、自分の担当する技法だけをマスターしているはずです。工場としては、1人に1技法だけ完全にマスターさせ、分業したほうが効率が良いからです。訓練期間が短くてすみますし、訓練した途端に独立されてしまうということがないですから。しかし、そのような分業形態の100人以上の工場で、さまざまなバリエーションの刺繍が出来るでしょうか。京繍作品では狭い面積に7つか8つの技法がひしめいているものがあります。もし分業のシステムでそんなものを作ったら、受け渡しの時間ばかりになってしまい、現場管理者の負担がすごく多くなり、効率が著しく悪化します。そこで、少ないバリエーションで広い面積を埋めるようなものが多くなるのではないでしょうか。

中国と京都の刺繍のコストの違いは、単に国レベルの人件費の違いではなく、個人製作と工場生産の違いでもあるのです。それならば、個人製作の強みを生かせばよく、工場での分業で出来ないことといえば、バリエーションなのです。

技法のバリエーションと図案とは、密接な関係にあります。バリエーションを生かすには、それにふさわしい図案が必要なのです。下の写真の野口安左衛門(倉部)の源氏香は、その分かりやすい例です。花や葉について、いちばん近くにある菊を駒繍、中間にある菊と萩を繍切り、比較的遠くにある萩を菅繍にして遠近感を表現しています。遠近感というものを技法に結び付けているわけで、図案と技法のバリエーションの完全な一致があって出来た作品といえます。



1980年代から2000年代まで、多くの中国刺繍が市場を席巻し、日本の刺繍は壊滅的な被害を受けました。しかしすでに中国は刺繍の主要産地ではありません。中国の経済発展の伴う人件費の上昇もありますし、電機や自動車など他の産業の発達により刺繍職人より魅力的な職業が増えたこともあるでしょう。一人っ子政策ですから、たった一人の子は大学にやりたいはずで、刺繍職人にしたい親は少ないですし、地方から流入してくる民工は、何年も修業しなくてはならないような仕事はしませんから。現在は刺繍の産地は、ベトナムなどさらに人件費の安い国へ移っています。しかし中国ほどレベルの高いものはつくっていないようです。



6.京繍の再定義、国内の問題に対応して

京繍の特徴の一つは、その多くが「あしらい」といわれる京友禅に対する補助的な作品であり、分業の最後の工程であるということです。そのため予算の上限が決まっていると、しわ寄せされやすいということがあります。小売価格で数十万円の着物でも、悉皆屋に「あと7,000円しか予算がないからその範囲でやってくれ」なんて言われてしまうこともあるらしいです。

それはすべて、刺繍が友禅の一部を強調するために用いられる作品の割合が多いからだと思います。強調するということは、下に既に友禅による模様があり、それをなぞるということです。それでは彼らには、創造のチャンスが与えられていませんし、単純な「強調」だけなら、減らしてもそれなりにまとまってしまいます。

刺繍には、「強調」以外にも「立体性」「偏光性」「質感表現」などの特性がありますから、それらを生かして、友禅作品全体の意義を支える役割もできると思います。次の2例は、刺繍が強調以上の積極的な役割を果たしていると思う例です。上は中井淳夫の振袖の部分ですが、松が金駒で繍われていますが、友禅の模様をなぞったわけではありません。無地部分に刺繍で模様自体を描いているのです。下は中井淳夫の訪問着「胡桃」ですが、ダンマル描きで描かれた独特の雰囲気の場面に、赤と白の胡桃が刺繍であしらわれています。この実がないとこの独特な雰囲気が完成しませんよね。





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東京友禅のあしらいについて



1.大羊居のあしらい

下の3点は、「更紗遊苑」に施されたあしらい刺繍の例です。単なる協調ではなく、花の存在を立体的に見せたり、刺繍と友禅を連携させてグラデーション表現をしたりしています。







下の写真は、「モザイク牡丹」に施されたあしらい刺繍の例です。通常のあしらい刺繍は、模様の輪郭を金駒で括るか、花弁の一部を刺し繍するかのどちらかですが、ここでは独特なことをしていますね。



下の写真は、「菱取りチューリップ」に施されたあしらい刺繍の例です。立体のように錯覚させます。



下の写真は、「熨斗に扇面」に施されたあしらい刺繍の例です。扇子は半開きで、そこに光が当たって明暗が生じている様子が友禅で描かれていますが、その表現にあしらい刺繍も連携しています。刺繍は強調にとどまらず、友禅と連携して絵を作っています。





2.熊谷好博子のあしらい

ここで紹介するのは、代表作の1つである黒留袖「南蛮渡来図」ですが、あしらいに非常に個性があるのでここで紹介してみたいと思います。

南蛮船自体や乗員は友禅のみの表現であり、ロープや索具のような小道具の方が丁寧にあしらい刺繍で表現されています。



南蛮人。作品で重要なのは「人物」だと思われますが、意外にも人物はあしらいがされていません。作者には、人物よりむしろ建物の軒、庇、格子、そして人物の帽子の方が強調するに値すると思っているようです。



おなじく南蛮人の場面ですが、あしらいで表現されている箇所をみると、作者は、人物より犬の方が強調に値すると思っているようです。また人物よりその持ち物の方が重要なようでもあります。強調すべき本命をわざと外してあしらいをしているように思えます。熊谷好博子は江戸深川の出身ですが、常識と違うことをして見る人を驚かそうという茶目っ気かもしれません。




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絞りの理論



1.辻が花以前

日本における最初の絞りの例は、正倉院にある纐纈(こうけち)です。天平の三纈(さんけち)の一つである中国から技術輸入されたものです。しかし絞りは本来原始的なものですから、大文明の下でのみ生まれて各地に伝播するものではなく、世界各地で同時に発生したと考える方が自然です。正倉院以前に、日本でも古代人の思いつきによりつくられたものがあったかもしれません。

「正倉院裂」の一部を構成する正倉院の纐纈の遺品は、技術的にも芸術的にもレベルの高いものですが、日本における絞りの文化はそこで途絶えてしまい、中世の絞りの遺品はありません。貴人の正装は織物ばかりになってしまい、模様染めは採用されなかったからです。また庶民の衣服には絞りによる模様染めが用いられたはずですが、庶民の服というのは何度も仕立て直されて最後は全て雑巾になってしまうので残らないのです。現在、中世の絞りについては、絵巻物に描かれた庶民の衣装から間接的に知るのみであり、特に有名なのは「伴大納言絵巻」の子供の喧嘩の場面に登場する庶民の着物の大きな絞りです。

2.辻が花と辻が花後

戦国時代になると下克上により、下級武士が上級武士になるぐらいは普通に起こりえました。成り上がった者は、身についた庶民文化をすぐには改められず上流社会に引きずっていくので、衣服にも下克上が起こり、絞りが上流文化となり、その最終形態として辻が花が生まれました。辻が花は絞りの1つの最高形態であるばかりでなく、日本の染織史のクライマックスでもあります。美術品としての価値も凄まじく、一応着物の格好をしていれば数千万円します。

一方、辻が花の時代が終わった後の江戸前期に始まり、現代の代表的な絞りの産地となったのは有松絞です。絞りの文化は辻が花として頂点に達した後、有松としてやり直すわけですが、両者の違いは何でしょうか。

絞りという技法は、筆で絵を描くような自由な作画はできません。そのかわり絞り独特の味わいのある模様ができます。現代の絞りは思いがけない形の面白さを求めて行うもので、人間が手で描くものとは違う、絞り独特の模様が喜ばれます。しかし、辻が花の作者たちは現代とは全く違う発想で絞りをしていました。すなわち絞りをコントロールして、花やウサギなど具象的なテーマを、意図したとおりに作画しようとしていたのです。

現代人の目で見ると、そもそも具象表現に向かない技法で具象画を描いているような歯がゆさを感じます。しかし絵画性が高い友禅染が発明される前の室町時代には、絵画的な表現するのに絞りを使うのも、それなりに合理的だったのです。

辻が花作家は意図した形が表現できないときは、補助手段として墨で描き足して絵として完成させていました。しかし有松以後の絞りは、人間の意図では生まれないデザインをつくるのが目的なので、墨で描き足すことはありません。

辻が花が衰退したのは、辻が花作家にとって絞りは表現の目的ではなく手段だったために、次第に表現の手段にバリエーションが出てくると(慶長小袖の縫箔など)、わざわざ困難なことをする必要はなくなったからというのが定説です。

それにたいして有松は、絞ること自体が目的で、絞りには絞りによってのみできる独自のデザインを求めます。だから別の技法が現れたからといって、それが絞りにとって代わることはありません。これは現代人の絞りに対する考え方に通じるものです。

辻が花が衰退した理由について、私はもうひとつ考えています。辻が花は、権力者側の衣装なので、豪華な衣装と思ってしまいます。しかし実物を見ると、400年間の退色を考慮しても、豪華というより哀愁を感じる美しさです。絞りは輪郭線が柔らかく、しばしばグラデーションを伴うのでそう感じさせるのだと思います。

室町後期から江戸初期までは中世から近世への変革期であり、信長の天下平定の過程で敗者となる戦国大名は室町的(中世的)な価値観を引きずっているのに対し、信長以後の権力者は近世的な価値観を持っています。そして辻が花は滅びていく室町的な価値観の側の衣装のように思います。

近世的な好みを象徴するものは、巨大な天守閣を持つ城や狩野派の障壁画で、豪壮華麗と形容されますが、そういう好みを持った人たちにふさわしいのは辻が花ではなく、そのすぐ後の慶長繍箔でしょう。刺繍と金箔を多用した小袖ですが、刺繍は立体的で金箔は光るもの、すなわちどちらも着物の加飾技法のうちでは強者です。これこそ、この時代後半の近世の権力者の好みであり、辻が花は室町的なものとともに消えていったのではないでしょうか。

(ときどき、友禅が発明されたために辻が花が滅びたように書いてある本がありますが、両者には数十年のギャップがあるので間違いです。ただし、もしも室町時代に友禅があったら、絞りで絵をつくる辻が花は生まれなかっただろうということはいえるでしょう。)

1970年代後半に始まる辻が花ブームの立役者として、小倉健亮、久保田一竹、大脇一心が知られています。その中で現代までいちばん影響を与えたのは小倉健亮です。彼はもし辻が花が幻とならず現代まで正常進化していたらこういうものであったろうと思わせるものを作りました。現代の工芸界には辻が花という言葉はなく、あくまで絞りではありますが、伝統工芸展で入選している辻が花的な作品、すなわち絞りで人工的に形を表現した着物はほとんどすべて小倉健亮の子か弟子のものです。

小倉健亮の作品は、絞っても染液に浸けていないものが多いことです。絞った状態で筆などで着彩し、絞りを解くと絞りの特徴を持った模様が現れます。染液に浸けてこそホンモノの絞りだともいえますが、芸術にとって重要なのは技法の正統性よりも完成時の美だという発想です。実際に室町時代のホンモノの辻が花も浸けていなかった可能性もありますしね。当時の辻が花は伝統工芸ではなく最新ファッションですから、守るべき技法というのはありません。 写真は、森健持(小倉健亮の弟子)の辻が花です。絞っていますが、染液に浸けてはいません。波頭の回転も鋭くとがった月も美しいです。技法の正統性を重視して染液に浸けたら、技術的な限界により、波頭の回転も尖った月も凡庸なものになってしまったと思います。



3.絞りの過程で生じる皺はどう解釈すべきか

絞りによって生地に生じる皺は、製造工程の都合でやむを得ずできてしまうもので、完成後は湯のしをして伸ばすべきものなのでしょうか。それとも、皺そのものが意匠の一部なのでしょうか。生地の表面に皺が残れば、仕立ての際に寸法が定まらないという問題があるので、衣服としては無いほうがよいものです。

辻が花は、芸術の様式として、絞りが面白いと思って絞りを選択したのではなく、絵画的な意匠をつくるために手段として選んだだけです。そう考えれば皺は不要であり、完成後は湯のしをして伸ばしてしまうべきものです。現実には、全ての辻が花は制作後400年経過しているので、元の形態はどうであれ皺は伸びています。人為的に伸ばしたのか、自然に伸びたのか、作品そのものからは分かりません。

しかし、辻が花を着装した戦国から織豊時代の貴人の肖像画を見ると、どの画に描かれた辻が花にも絞りの皺は描いてありません。省略したとも思われますが、絵師があえて表現しなかったということは、当時は絞りの皺が美しいものと認識されていなかったことの証拠でしょう。写真は中村大三郎の絵で、辻が花小袖を着た美少女ですが、皺はありません。



江戸時代になってから制作され続けた有松絞も、京都で制作された鹿の子絞も、制作後100年以上経っており、絞りはすべて伸びていて、元から伸びていたのか、時間の経過で伸びたのか分からないですが、皺を美しい意匠として求めてきた歴史もあります。

龍村平蔵が考案し、実用新案を取得したものに纐纈織というものがあります。これは、絞りに見えるように皺を織物で表現したものです。つまり絞りを染める過程で生じる皺に積極的な芸術性を認めて、わざわざ織りという別の表現でつくったものです。これに対して模倣品を安く売る者が現われ、裁判で争うことになったのですが、そのとき模倣者は近世以前の古裂を証拠として提出し、平蔵が発明したとされるものは昔から西陣では周知のものであり、実用新案は無効であると訴えました。すなわち、絞りの名残の皺は芸術であるという感性は近世以前からあったということになります。

纐纈織は、昭和になって渡文が商品化して(ふくれ織とも呼ばれた)大ヒットし、現在も継続して販売しています。つまり現代人にも受け入れられる価値観なのです。なお、龍村では、「纐纈織」、「高浪織」という名前で現在も販売しています。下の写真は現代の龍村の絞りに見せかけた織物です。



着物の染め下地に使う生地には、縮緬で非常にしぼの大きい生地や、綸子で非常に大げさな地紋のついた生地があります。そういうものを作る目的は、生地に凹凸をつくることであり、光が当たったときに生じる陰影を意識していると思います。これもまた擬似的な絞りではないでしょうか。下の写真は、七五三用の半衿ですが、一見絞りに見えますが、生地の形状です。そもそもやむを得ずできてしまった絞りの皴を、美しいと思う感性が生まれ、ついにニセモノが登場した例です。、



辻が花



1.藤井絞の辻が花と絞りの技法

絞りとは、生地を縫い締めるなどの方法で圧力を加えて防染し、染液に浸けて染めるものを言います。これは絞り染めの原理とでもいうべきものですが、現代の辻が花作家の多くはこの原理にしたがっていません。生地に対して縫い締めなどの防染処置をするまでは同じなのですが、その後、本来の浸け染めをせず、筆などで着彩するのです。筆で着彩した後で絞りを解くと、適度に染めにムラが生じ浸け染めしたのと同じような効果が得られます。

「絞って浸ける」という絞りの原理にこだわれば、意匠に制約が生じます。芸術作品とは、完成した作品が芸術的であることが重要で、制作の工程や技法にはこだわりません。たとえば平面作品ならば、油彩でも水彩でも写真でも、あるいはキャンバスに新聞紙を貼りつけても良いわけです。辻が花を芸術作品ととらえれば、意匠や色彩あるいは描き絵のタッチこそ大事で、制作工程で浸けているかいないかなどどうでもよいのです。

一方、藤井絞の辻が花は、基本通り、絞った後に染液に浸けていますが、「染液に浸ける」という工程は、想像以上に難しいのです。地に色があって模様が白抜きであるようなものは、模様にしたい部分を絞って浸ければ良いわけですが、反対に、地が白くて模様に色がある場合はどうでしょうか。そのばあいは、模様がない部分をすべて絞り、模様だけを絞らないのです。1枚の着物がフィルムで密閉された棒状のものになり、そこから模様にしたい部分だけが出ている状態になります。部外者がいきなり見たら着物を染めているとは思わないでしょうね。多色の作品は、それを1色ごとに繰り返します。

しかし室町時代はプラスティックフィルムがありませんから、さらに困難なことになります。フィルムではなく竹の皮を使うのですが、竹の皮は竹の円周以上には大きくはなりませんから大きい面積は絞れません。実際の辻が花には、小袖全体を染め分けた意匠もありますが、そのばあいは桶絞りという技法を使いました、染めたくない部分を桶に入れて、染めたい部分を桶から出し、蓋で密閉してから染液に浸けるのです。まだるっこしい技法ですが、道具が制約される時代は、それが合理的だったのです。

昔の人はすごい、とは思いますが、「絞って浸ける辻が花」はホンモノ(室町の伝統に忠実)で、「絞って筆で着彩する辻が花」はニセモノ(芸術であるが伝統工芸ではない)とも言い切れないのです。なぜなら室町時代の辻が花の顧客(もっともセンスの良い上客は上杉謙信でした)は、最新のモードを求めていたのであって、伝統工芸品を求めていたわけではありません。絞った後に本当に染液に浸けろという指示をしなかっただけでなく、絞れという指示もしなかったでしょう。また作者の側から見ても、彼らが製法を記した書類を残したわけではなく、辻が花の定義があるわけでもないのですから、浸けていない人がいたかもしれません。

2.藤井絞における絞りの技法

藤井絞の辻が花は、面的な表現をする帽子絞と線的な表現をする縫締絞からなっています。帽子絞は芯を入れて括り、上からプラスティックフィルムでカバーして染液の浸入を防ぎます。室町時代は竹の皮で覆っていたはずですが、現代はプラスティックフィルムで代用されています。本来は、広い面を絞りで染め分けるときは桶絞という技法を用いることになっていますが、それは竹の皮には竹の円周を超える幅のものが無いからです。プラスティックフィルムを使う現代は、どんな面積でも大型の帽子絞として染め分けられるようです。(しかし、本来の桶絞りをした作品の方が高級品として扱われる。

下の4つの写真は、絞をするための道具です。いちばん上は、帽子絞に使う芯です。真ん中が本来の木製の芯で、両端が新聞紙を使った芯です。新聞紙を使えば巻きの太さを自由に調節できます。2番目は近年使われている硬質のゴムを使った芯です。いろんな大きさがあります。3番目は、帽子絞で絞った部分を覆うプラスティックフィルムの使用後の状態です。想像以上にしっかりした厚手のもので、これで完全に染液の侵入を防ぎます。4番目は、蛍絞に使われるもので、生地に真綿を縫い付けるのではなく、丸く切ったフェルトをタグガン(値札を付ける道具)に付けます。蛍絞りをくっきりした丸にしたいときは丸く切ったプラスティックフィルムを使います。









下の2つの写真は、いずれも絞りの工程で、青花で下絵を描いた後、糸を入れたところです。糸の色の違いは解く順番をあらわしています。これだけ見てもイメージは湧かないでしょうが、パズルを解くような感じですね。2番目は帽子絞りの内部に疋田絞がある場合です。





3.前期の辻が花

室町時代の辻が花は、絞りで作画しきれない部分は、描き絵を加えていました。写真はいずれも藤井絞によるもので、前期の辻が花の様式を名古屋帯として再現したものです。描き絵は洗っても消えないので、失敗できない工程ですが、単に失敗しないだけではだめで、作者の画家としての才能も問われます。

現代の辻が花の人気作家は、描き絵が上手で画家として才能のある人ばかりです。絞りは技法的に難度の低いものばかりだったり、絞っても染液に浸けない人は多いですが、それでも例外なくみんな絵は上手いのです。つまり辻が花作家の絶対条件は、絞りではなく絵であると思うんですよ。





4.後期の辻が花

辻が花no 後期の様式になると、描き絵に頼らず絞りだけで模様表現をすることが多くなりました。名古屋の徳川美術館には徳川家康所用という描き絵のない辻が花が複数所蔵されており、後期の様式を見ることができます。写真は藤井絞の帯ですが、波頭と千鳥が接近するのが難しいそうです。



4.現代の辻が花

現代でも辻が花系統の絞りはあります。その例として藤井絞の2点を紹介します、上のうさぎは、うさぎという具象的な形を目指して絞っているので、辻が花の系統にあるものです。下はパリオペラ座のファサードを絞りで表現しています。赤い屋根がグレーの模様で分割されていますが、これは絞った後に染液に浸けて染められています。どのようにしたらこのような模様に絞れるのか、室町時代にもなかったすごい技法ですね。辻が花が幻とならず現代まで正常進化していたら、こんな感じではないかと思わせるものです。





5.染液に浸けない辻が花

藤井絞の辻が花系統の絞りは、絞ってから染液に浸けていますが、浸けない作品をつくったこともあります。その結果は、ふだん染液に浸けている作家が、染液に浸けないで作ったら。なおいっそう上手くなるということがわかりました。やはり辻が花系の絞りにとって染液に浸けるということはハードルの高いことなのです。





有松絞



1.参考にした資料について

有松絞について書こうと思ったのは、この本に出会ったことがきっかけです。昭和47年に組合により刊行された非売品の本です。古文書の写しや各時代の生産単数のデータが作家の脚色なく載っていることもありがたいですが、素晴らしいのはなんと言っても装丁で、ホンモノの有松絞が貼り付けてあります。こんな本を販売するためでなく、ただ組合員に配るという目的だけで作ったのは、万博からオイルショックまでの間の日本の気分を伝えているように思います。



このホームページで取り上げるテーマの多くは芸術論であり、逆境にめげず最後には美しいものを創るという物語でした。しかし、今回の有松絞りは、貿易摩擦、政府による過剰な保護、既得権者による独占、規制による不完全な自由競争による停滞など、かつて日本社会がアメリカに批判されて不快な思いをしてきたこととそっくりなことがテーマになります。

2.有松絞の始まり

有松とは、現在の名古屋市緑区有松町です。東海道の沿線で五十三次としては、池鯉鮒宿(愛知県知立市)と鳴海宿の間になります。有松ができる前は、この地は桶狭間村に属していました。「桶狭間」とは桶の底のように崖に囲まれた狭い土地という意味ですが、東海道中でありながら信長の奇襲が成功してしまうぐらい見通しの悪いところでした。土地も粘土質で耕作ができないために開拓するものもなく、盗賊が出没して東海道の旅人が被害にあうことがありました。そこで尾張藩は、ここに人が定住する村をつくることで治安維持に役立てようとしました。

これに応じたのは、知多郡阿久比(あくい)庄緒川村の竹田庄九郎をリーダーとする8人で、いずれも村の次男三男で田畑を相続できない若者たちでした。竹田庄九郎たちは年貢の免租や米の現物支給など数々の特権を受けましたが、耕作が全くできない土地で、しかも東海道五十三次の鳴海宿が近いので宿場としては成り立たず、わらじ販売やお茶や団子だけが収入源という状態でした。

やむをえず、名古屋城の築城工事に出稼ぎに行ったところ、そこは親藩の城として各地の大名が手伝わされる天下普請であり、日本各地から人夫が来ていました。そこで豊後から来ていた人夫が絞染の手ぬぐいを持っているのに気付き、これを貰い受けて研究しました。辻が花衰退後のこの時期、絞りが全くなかったわけではなく、九州の豊後絞、肥後の高浪絞がすでに名を知られていたのです。

有松の地は耕作に向かないとはいっても土が粘土質だからで水自体は染めに適した清冽な水が得られました。最初の絞り今も続く「蜘蛛絞」で、それを「九九利染」のネーミングで東海道沿いで販売しました。

庄九郎は、蜘蛛絞に次いで、白地と紺色を段だらに染める、鍛(しころ)絞を開発しましたが、これは手綱に用いられ藩主に献上されました。これが有松絞の公式なスタートとなり、以後、尾張藩の特産品として将軍に献上されたり他の大名への土産とされ(御三家からの土産では他の大名は誉めないわけにはいかなかったに違いない。有松絞の隆盛の過程では、有力大名の庇護下に在ったということがたびたび大きな意味を持ってくる。)、有名になっていきました。

豊後の大名、竹中氏にしたがって名古屋に天下普請に来ていた藩医、三浦玄忠は、名古屋城完成後、隠居してそのまま尾張藩内にすんでいましたが、その夫人が豊後絞の技術を修得していたのを見込んで、有松に住み村人に絞り技術を指導してもらいました。こうして生まれたのが三浦絞で、蜘蛛、鍛に次ぐ3番目の有松の技法としてバリエーションを増やしながら今日まで続いています。

絞りの生地は、当初は麻も絹も用いられていたようですが、やがて木綿に特化しました。竹田庄九郎の出身地は、日本における木綿発祥の地と言われる知多半島だったという事情もあります。(知多半島で木綿が栽培されたのは1510年で、それが日本初)

3.江戸時代の封建的特権

化政期に完成した江戸時代の有松絞の生産様式は次のようなものでした。

@知多木綿、三河木綿、伊勢木綿の産地問屋から絞問屋が仕入れ絞改会所(しぼりあらためかいしょ)で納税して納税済みを示す朱印を押す。

A晒職(晒屋)が木綿を天日に晒して漂白する。

B括りをする。括りはたいてい農家の副業として行われ、しかも括り方は多様であるが、それぞれの内職者は少しの種類しかマスターしていないので、仕事を各内職者に割り振ってこれを仕切る職業が必要になる。これを取次ぎ職というが、このうち図案まで作れるものを影職という。

C紺屋で染めるが、多くは藍染である。小規模な家族単位が多く、4本で1セットの藍甕を5、6セットで運営している。

D仕上げ職という役があり、ここで括りが解かれて検品される。

これらの一連の工程を全て仕切っていたのが絞商です。絞商の株を持つものは、最盛期の化成期で21軒に限定され、彼らは名字帯刀を許される特権階級でした。株を持つもの以外が、絞商を営むことは厳禁されました。実子でさえも分家したら父親と同職につくことは許されなかったのです。21軒の絞商は利益を独占しましたが、その代わり、株仲間内で商売のやり方に細かい規制があり、たとえば行商や客引きも制限されていました。その21軒が自由な競争をすることは望まれなかったのです。また木綿の生地を仕入れた段階で絞改会所で納税し、納税済みの印として「尾州有松絞支配所」と書かれた朱印を押すことになっていたので、株仲間を限定した方が徴税しやすかったのでしょう。

有松は、近在の農家を下職に使うので、技法が近隣に伝播するのはやむを得ません。実際に隣の鳴海村でも絞りの生産が行われるようになりました。これに対し株を持つ有松の絞商は、藩に鳴海での絞り生産を止めさせるように訴えます。これに対して藩は、鳴海に対して絞りを止めさせるのでも、自由競争させるのでもなく、鳴海の業者のうち有力なものを有松の株仲間に加え、藩の統制範囲を大きくしたのでした。

絞商は納税の見返りに、尾張藩によって絞商の株を持つもの以外が絞りをすることを禁止してもらうことで保護されたわけですが、通常の大名ならば、その権限は領内にしか及びません。しかし尾張藩は御三家であったため、他藩に対しても権限を持っていました。特に、阿波の蜂須賀家に対して、その権力を行使しました。

江戸時代には、藩の境は国境であり、藩主は商品の出入を統制することが出来、しばしば今日の貿易摩擦と同じ状況になりました。その対象とされたのはいつも阿波の藍でした。たとえば山陰の絣の産地では、阿波から藍を買っていましたが、やがて密偵を送って藍職人を極秘で引き抜きます。そして藍の生産に成功すると、藩境で阿波藍の流入を禁止してしまうのです。

一方、藍染の本場の阿波藩は、少し工夫すれば有松程度の絞りは出来てしまいます。そこで尾張藩は御三家の威光を振りかざして、阿波藩に対して絞りの生産をやめさせてしまうのです。絞りは自然発生的な原始的な染色法ですから、他藩に対してそれをやめさせるのはかなり横暴です。上質の藍という優れた商品を持つ阿波藩は自由貿易を求めますが、特別な商品を持たないその他の藩は保護主義に走り、しかも外様大名であるという弱みを突くような卑劣な手段で藍の製法を盗もうとします。世界の貿易の歴史のようですね。

規制緩和が善というのが常識である現代人には、このような制度は人間を堕落させるものとしか思えませんが、それでも有松絞が栄えたのは、「おかげ参り」のおかげでもあります。江戸時代後期には、伊勢神宮の参拝が流行し、最盛期には年間2〜300万人といわれます。当時の人口から考えるととんでもない数字で、彼らが土産として買ったのです。

江戸時代後期の有松の繁栄について、こんな証拠が残っています。安藤広重の東海道五十三次は有名ですが、鳴海の宿として描かれているのは、実は隣村の有松の家並みです。この近辺で、有松の家並みがいちばん立派だったので、思わず描いてしまったのでしょう。

4.明治時代の特許戦略

幕末と明治初めになると「おかげ参り」がなくなり、有松は衰退していきました。さらに明治維新の有名な「五箇条の御誓文」の 第4条「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」により、江戸時代の封建的特権は無くなりました。しばらくの間、有松人はその意味が理解できず、苦し紛れに、他の地域の(特の名古屋)の絞り業を禁止してほしいなどという嘆願などしていましたが、やがて時代の変化に気づいて、新たな戦略を模作し始めました。

ひとつは東海道線の開通にあわせ、沿道売りではなく、貨物輸送で全国に卸売をしたことです。

もう一つは特許戦略であり、その中心人物が鈴木金蔵です。鈴木金蔵は、はじめは絞り業につかず、米屋、パン屋、製材所などをしましたが、どこでも機械を発明して合理化を図ってきた、特殊な才能のある人でした。父親に懇願されて実家に戻って絞り業を始めてからも発明を続け、新しい意匠をつくったり、人手を機械に代えて合理化によるコストダウンを実現したりしました。彼が発明したもっとも有名なものは嵐絞です。そのほかにミシン絞、雪花絞なども考案しましたが、いずれも特許を組合に譲り、有松の振興を図りました。

有松絞に関する特許(実用新案、意匠登録を含む)には、絞りの技法だけではなく、絞るための機械の発明や、絞りによって作られた柄の意匠も含みますし、蜘蛛絞染出器のように、すでにある絞りを効率的につくるための機械の発明もあります。

組合所有になった特許については、会員は組合に少額の利用料を支払って印を押してもらってから使用することとしました。有松は、自分たちの権利を守るものとして、江戸時代は御三家大名の権力にすがって封建的特権を手に入れ、明治以後は工業所有権という法制度を利用してきたわけです。

この時代の特許戦略の影響で、絞りのヴァリエーションは一気に増えました。しかし登録の時の影響で、わずかな違いで別の技法と認識されていたり、技法は違うが出来上がった意匠は同じとか、技法は同じだが意匠は色々あるなど、体系化して論じるのはかなり大変です。

5.絞りの技法の分類

縫絞平縫絞、杢目絞、唐松絞、日の出絞、折縫絞、合せ縫絞、巻縫絞、白影絞
鍛(しころ)絞手筋絞、柳絞、みどり絞、山道絞、手筋豆絞、竜巻絞
蜘蛛絞襞取蜘蛛絞、手回し蜘蛛絞、蟹蜘蛛絞、機械蜘蛛絞
三浦絞横三浦絞、疋田三浦絞、石垣三浦絞、やたら三浦絞、筋三浦絞、芯入三浦絞
巻上絞帽子絞、皮巻絞、竹輪絞、根巻絞
板締絞雪花絞、菊花絞、村雲絞、豆絞、金蜘蛛絞
嵐絞鈴木金蔵の発明した機械によって絞られるものを言う。技術者の手加減や複数回加工することでいろいろな模様ができる。
松風雨桜、亀甲、格子、羽衣、縦杢目、横杢目、横大段、錦改良、錦桜、立てチリ、横チリ、改良トラ、飛錦、松風、斜網、一度桜、八重桜など100以上。
鹿子絞手結び鹿子絞、機械鹿子絞、京極鹿子絞、横引鹿子絞
桶絞桶染絞、桶蝋纈絞、
箱染絞箱染絞、流し染絞


いつか、ちゃんと写真と説明がついた解説を書きたいと思っているのですが、いつできるかわかりません。わかるところから少しずつ書いていきたいと思います。

6.事例

@「竹田庄九郎」ブランド(竹田嘉兵衛商店)の疋田と刺繍の訪問着



A縫絞の浴衣



B嵐絞



C板締絞の1つ雪花絞



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疋田の話



江戸時代から現代まで疋田(匹田)絞りは模様の中に組み込まれて、重要な着物デザインの構成要素になっています。子鹿の胴の斑点に似ているので鹿の子とも呼ばれます。特に総鹿の子の小袖は贅沢品として奢侈禁止令の対象になりました。そのため絞らないで型で疋田模様を刷り込む型疋田が考案されたとも言われてきましたが、今日では絞りの疋田と型疋田は別々に発達したもので、型疋田は絞りの疋田の代替品ではないという説の方が有力です。

日本独自の発想で、高級品イメージの強い疋田ですが、膨大な量とはいえ、作業そのものは単純な手間を繰り返しであるという性格の技法であるため、人件費が安い国で生産されることになってしまうのは宿命だと思います。現在では総鹿子の振袖でも中国やヴェトナムで制作する事により意外と安いものが出回るようになりました。そのため絞りの疋田も、本物の手絞りならすべて価値があるということではなく、その品質を見極める必要があります。

疋田絞の基準には、絞りの大きさと巻きの回数があります。絞りの大きさは、反物の幅に疋田が何個並ぶかです。通常は60個(60建て)、振袖は55個(55建て)です。巻きの回数は、通常は木綿糸で4巻きですが、本疋田と言われるものは絹糸で7〜8巻き、あるいは11巻きといわれます。疋田の中央のポチの大きさで判断します。もちろんポチが小さい方が巻きが多くて手間がかかっているから高級品なわけですが、絞りの大きさにもよります。絞りが大きければ個数は少なくて済む一方、撒きはたくさん巻けますから。

下の写真は、有松絞の本疋田の振袖の部分です。絹糸で7〜8巻きしています。その11巻きのものを本疋田と呼びます。



型疋田は、疋田絞の代用品だという俗説があったため低く見られることもありましたが、作り手から見ればそれは誤解であり、型疋田もまた現在まで独自の進歩を遂げていて、友禅染に組み込まれる高級品では6枚以上の型紙を用いて本物の疋田と見まごうぐらいに濃淡や絞りの抜けまで表現したものもあります。

友禅模様に組み込まれる型疋田には、その模様に合わせて個別に型を彫るものと、四角い形の汎用型があります。縁蓋などを用いて模様の形に防染してから、汎用型を使って染めます。1枚の作品ごとに個別に型を彫るのは不合理なので、個別に型を彫った作品は、作品自体が量産されているのではないでしょうか。また汎用型の見極めは、模様の縁で型疋田が途切れていることだと思います。

下の写真は、千切屋治兵衛の下職である藤岡さんの友禅模様に組み込まれた型疋田です。


最高と言われるものは安田の描疋田です。物差しを使って手描きするもので、ホンモノの絞りの疋田よりも高価です、細かくて精密なだけでなく本物の絞りよりも存在感や立体感を感じるほどです。安田以外のものもありますが、それもたいてい安田の元職人とか、安田系統だと思います。友禅模様に組み入れる場合、個別に型を彫るより手描きの方が安いという場合もあります。



友禅による疋田もあって、技法的には堰出し友禅であることから、堰出しの疋田と言います。写真は熊谷好博子の友禅の中に使われているものです。
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金加工について



1.印金の伝播

古代から権力者は自分の身を金で飾りたいという欲求があり、さまざまな金の装身具がつくられたわけですが、やがて衣装そのものを金にしたいと思うようになりました。こうして、繊維に金を貼り付ける工夫がされ始めたわけです。有名なものは、カザフ共和国で発掘された「黄金人間」です。BC.4〜5世紀に埋葬された青年ですが、副葬品は4000個の金製品であり、彼自身も金製の服を着ていました。それは革に金を打ち付けたもので、見た目は綺麗でも着心地は最低で、死者しか着られなかったでしょう。人間が、体の動きについてくる金を得るには、金箔が発明されなければならず、それはまだまだ先です。

金加工には、完成した布に後から金箔を貼り付ける方法(印金)と、金を何らかの方法(注)で糸状にして、布を織る時に一緒に織り込む方法(金襴)があります。印金と金襴は全く別に発生し、全く別の発展の仕方をしました。日本で「名物裂」として伝来しているものには印金も金襴もありますが、今回は印金をテーマにします。金襴は、西陣の帯をテーマにするときに取り上げます。

(注)金を糸状にする方法は、古代においては、金を細く加工してそのまま織り込んだものがあります。しかし現代まで続く方法は、絹糸に金箔を巻きつける「撚金糸」、金箔を紙に貼りつけ、その紙を細く裁断して糸のようにする平金糸があります。そのほかにインドやペルシアには、モールと呼ばれる、金の薄い板を糸に巻きつけたものがあります。

染織の技法には、絞りや藍染のように、世界各地で自然発生したものもありますが、金という素材の特殊性から、印金は、原始人が偶然思いつくものでも、庶民がはぐくむものでもなく、高度な文明の下で発明され公式のルートで伝播しました。印金が発明されたのは中国で、墳墓から発掘された遺品から推定して唐時代までさかのぼることが出来ます。しかし芸術レベルに達したのは宋時代です。北宋も南宋も、政治的には遼、西夏、金などに圧迫されて振るいませんでしたが、文化的には中国史上最高潮に達しました。

宋(北宋970-1126、南宋1127-1279)は、とても特殊な体制の国で、西洋で言えば、ビザンチン帝国によく似ています。宋もビザンチンも文化・芸術・経済は大いに栄えましたが、軍隊は弱く、周辺の蛮族に対しては戦うよりも金を支払って平和を買うことを選びました。隣接する蛮族は高度な文化に魅了されしばしば骨抜きにされてしまいましたので、意外にしたたかであったといえるかもしれません。ビザンチン帝国は、征服王といわれるメフメットUの率いるオスマン帝国に滅ぼされますが、宋はチンギスハンの子孫が率いるモンゴル帝国に滅ぼされるという、最後もまた似たような結果になりました。

北宋の徽宗は、皇帝であるにもかかわらず中国史上最高の画家の1人であり、日本に請来した「桃鳩図」は国宝になっています。他の宋代の画家では根津美術館にある国宝「漁村夕照図」で知られる牧谿が有名ですね。陶磁器では、北宋の官窯である「汝窯」、南宋の官窯である「修内司官窯」「郊壇下官窯」、そして官窯ではないですが「龍泉窯」が有名です。印金もこれらのすごい文化の一つとして、日本に伝わり、名物裂のなかでももっとも高価なものとして今日に伝わっているのです。

「名物裂」は、茶道具のひとつとして中国を中心とした外国から輸入されたものですが、それに先立つ足利義満の時代から「唐物趣味」というものがあり、宋・元の美術品を輸入していました。輸入品の鑑定をする「唐物奉行」という専門の役職があり、能阿弥・相阿弥といった優れた審美眼を持つ人が任命されていたため、日本にある唐物は同時代の中国のものの中でもレベルの高いものばかりです。名物裂としては、金糸を織り込んだ金襴の方が多いですが、印金にも名品があります。多くは掛け軸の表装として伝えられています。日本で摺箔がつくられ始めるのは戦国時代からですが、時代的な符合をみると、輸入された名物裂の印金が摺箔制作のきっかけになったと思われます。

2.摺箔の時代

日本で摺箔が小袖に施されるようになったのは、戦国時代であり、最盛期は桃山時代です。能装束が多いですが、上流階級の人が着た小袖にもあります。作例としては、摺箔のみのものもありますが、刺繍と箔が併用された繍箔は日本の服飾史の白眉です。

その後、小袖の加飾技法にバリエーションが増してくると、摺箔は次第に主役ではなくなりました。特に友禅が加飾の中心になると摺箔は完全に従属的な技法になりました。江戸後期には何度も奢侈禁止令が出されましたが、そのたびに金加工は禁制の対象にされ、使用しにくくなってきました。また幕末から明治前半は、やたらに地味な着物が流行し、摺箔は完全に忘れられてしまいました。

京都金彩工芸協同組合理事長だった荒木孝泰さんと言う方が、1980年ごろの雑誌である「染織と生活」誌上で近代の摺箔の復活について貴重な証言を残しています。それによりますと、忘れられた摺箔が復活したのは、日露戦争ごろということであり、その経緯について、日露戦争の影響で友禅の注文が無くなり困っていた時に、磯野という悉皆屋が、松本熊次郎という糊置の職人に「昔の摺箔を復活させてみたらどうか」と、提案したとのが始まりであると書いています。松本熊次郎は、その奉公人、荒木茂太郎と共同で開発して売り出したのですが、その時期がちょうど日露戦争勝利後の好景気に当たったこともあり、大成功したそうです。もう一人、同時期に摺箔を復活させた人として、天野忠一郎という人の名が伝わっており、この人の技法は宮村長四郎という人が現在まで受け継いでいるということです。それぞれの流れは技法が違うので、互いに影響を受けたわけではないだろうとのことでした。

摺箔は印金の日本版ですが、両者の違いはまず用途です。印金の用途は、中国においては袈裟や仏具であり、日本に渡来し名物裂となったあとは、茶掛の表装につかわれています。一方、摺箔の用途は人間が現実に着て動き回る衣装です。この違いが、次のような違いになっています。

@印金は金箔も接着剤も厚いが、摺箔はどちらも薄い。
金箔や接着剤は厚い方が丈夫であるが、衣装として人間が着て動き回ったり畳んで保管したりすると、厚い金箔や接着剤は亀裂が生じて剥がれてしまう。そこで印金は金箔も接着剤も厚いが、摺箔は絹と違和感無く密着する程度の薄さが求められた。

A模様が違う。
仏教に関連するものが多い印金には一定の様式があるが、衣装である摺箔はファッションなので流行があり、さまざまなバリエーションが伝わっている。

B生地が違う。
印金は羅・絽・紗といった薄物に加工しているのに対し、摺箔は繻子・綸子に加工している。

C現代において技法が違う。
現代の京友禅においても、印金と摺箔は両方制作されています。それぞれ技法と道具が違い、摺箔は小紋の型紙を使って糊を置き箔を貼るのに対し、印金は縁蓋を用います。縁蓋はプラスティックのシートで、生地に置いてカッターで切り抜きます。摺箔は着物全体に施したものもあるが、印金は高額なので部分的なものが多い。下の写真は工芸キモノ野口の事例。(実際の制作は倉部さん)



3.金加工の技法

@摺箔
小紋の型紙を使って小紋の模様を箔で表す方法。型紙を使って箆で接着剤を置いた後、型紙をはずして箔を貼る。乾いた後でブラシなどで余分な箔を取り除く。写真は工芸キモノ野口(野口安左衛門)のもの。



A押箔(ベタ箔)
接着剤を、箔を貼る部分全体に筆で均一に塗り、箔を箔箸で皺にならないように貼り付ける。写真は千切屋治兵衛のもので制作は倉部。



B截箔(または切箔)
截箔と呼ばれるものは、箔を四角や短冊に截り、接着剤を塗った部分に振り落としたもの。振り金砂子やたたき加工と併用することが多い。歴史的には「平家納経」に使われている由緒ある技法である。 現代の切箔とは、切箔模様を彫った型紙を使って摺箔と同じように箔置をする方法をいうことが多い。写真は松井青々のものであるが、Cの振り金砂子も併用されている。



C振り金砂子
箔は規定の大きさにそろえて出荷するが、その際に切り捨てられた箔の破片を「切回し」という。それを細かくして竹筒に入れ、オトシ刷毛(硬めの刷毛の穂を半分に切ったもの)で、揉み落として砂子状に箔を撒くもの。 技法の特性で、接着剤を置いた場所に必ずしも箔が降ってくるとは限らないので、接着剤は光ったり硬くなったり生地を変質させないものを使う。BやDの技法と併用されることも多い。

Dたたき加工
振り金砂子と同じようだが、より粗い感じに仕上げるもの。 硬い筆に摺箔用の糊をつけて、たたくように付けて、その上から箔を貼る。 または、振り金砂子用の糊を加工部分全体に塗り、撒く代わりに筆で箔の粉を付けることでもできる。写真は野口(実際の制作は米沢新之助)



E金線描き
金糊(油性の合成樹脂)のなかに金粉を混ぜて糊筒に入れて、友禅の糸目のように筒描きする。友禅の糸目に沿って金加工する場合に使うことが多いが、写真の例は独立した模様になっている。野口(実際の制作は倉部)のもの。



Fもみ箔
箔に亀裂を入れて、ローケツ染めのように仕上げること。Aの押箔をした後に手で揉んで箔にひび割れを入れる方法と、真綿を蜘蛛の巣状にゼラチンで固め、この真綿を置いて摺箔糊を置き、箔を貼った後、この真綿を剥がして亀裂模様がつくるという方法がある。写真は千切屋治兵衛(実際の制作は藤岡)のもの。



G金泥描き
金粉を膠や樹脂エマルジョンで溶いて、筆で絵のように描く方法。写真は千切屋治兵衛(実際の制作は倉部)のもの。色紙の背景の梅の部分。



H箔剥がし
友禅で模様を描いてから、その上にAの押箔加工をする。乾燥後にビロードなどで剥がして、箔の下から友禅がのぞくようにする方法。下地の友禅は通常より派手に彩色されていることが多く、派手な友禅に対し、金を使って地味にするというアンビバレントな技法でもあります。作例としては、「昔は栄華を極めたが、今は遺跡になって砂に埋もれている」「もともとはきらびやかなものであったが、数百年を経て今は古色がついている」というようなものを表現するのに向いている。写真は野口のもの。



I盛り上げ箔
濃度の濃い合成樹脂などの接着剤を型か筒描きで、盛り上げるように生地に置く。その上に押箔か砂子の加工をする。写真は野口の「イリアス」。箔剥しと併用されることが多い。



Jオトシぼかし
金網を使って霧状に金粉を撒く方法。金網に金糊を塗り歯ブラシで擦る。現在はエアブラシを利用していると思われる。友禅の色が派手すぎる場合、色をくすませるために後加工として行なわれることが多い。写真は千切屋治兵衛(実際の制作は倉部)。宗達の「槙檜図」に想を得て金泥で槇を描いたものだが、枝の周囲を金霞のように見せている。



K焼箔
銀は硫化水素で変色するが、その際、銀→中金色→青→赤→黒へと変わっていく。この性質を利用して、銀箔に対して硫黄を熱して発生させたガスをあてて、適度の変色させる方法。完成後は変質しやすいので、樹脂加工により変色を防がなくてはならない。

Lスタンピング加工
生地に、熱で柔らかくなる合成樹脂エマルジョンで柄を描き、乾燥させる。その表面にプラスティックフィルムに接着された箔(紙に対する印刷技術としては普通。)を置いてホットスタンピング機(小面積ならばアイロンでも出来る)にいれて圧縮する。

4.金箔
金というものが、何故これほど人類に愛好されてきたかと思えば、
@産出量が少ない
A変質しない
B光沢が美しい
C加工しやすい
ということだと思います。@とAは財産保全に適していることを表し、その究極の姿が貨幣です。BとCは装飾具としての優れた性質を現します。特に、加工しやすいということは、薄く延ばせるということで、この性質が金箔を生みました。金は高価ですが、箔にした場合、あまりにもよく延びるので少ない金でも広い面積を覆うことが出来、単位面積当たりでは意外に安いものです。

@金箔

金箔は純金ではなく、必ず銀が混入されています。なぜなら少量の銀を混入することで、延びがよくなり、より薄い金箔が作れるからです。銀は変色するものですが、金に混入しても、それが理由で金箔が変色することはありません。金箔は銀の含有率により色が変わります。純金に近いほど赤みを呈し、銀の含有率が高いほど青みを帯びます。
金箔は銀の含有率により、以下のように分類されます。銀の含有率の少ないものから、
a.純金 (純金99.9%)
b.五毛色 (純金98.91%、純銀0.49%、純銅0.59%) 
c.一号色 (純金97.66%、純銀1.35%、純銅0.98%)
d.二号色   (純金96.72%、純銀2.60%、純銅0.67%)
e.三号色   (純金95.79%、純銀3.53%、純銅0.67%)
f.四号色 (純金94.43%、純銀4.90%、純銅0.66%)
g.中色 (純金90.90%、純銀9.09%)
h.三歩色 (純金75.53%、純銀24.46%)

で、このうち最もつくられるのは、四号色と三歩色(青金)とのことです。

A銀箔

銀箔は純銀100%の1種類のみです。時間がたつと黒く変色するため、樹脂加工により変色を防ぐことが多いようです。用途としては、着物の場合は、涼しさを表現するため夏物に使われることと、西陣で、帯地に引き箔として使われることが多いです。いずれも樹脂加工されます。
しかし最も多いのは、染料と樹脂により着色されて代用箔として使われることです。もともと「七七禁令」(戦争準備のための金の統制令)により金が使えなくなったときに、苦肉の策として開発されたものですが、現在では本物より多く使われているともいわれます。そのほかに、硫化水素を使って意図的に変色させた焼き箔、金以外の色々な色に着色した金彩もあり、金加工の主役なのかもしれませんね。  

B真鍮箔(洋箔)
銅と亜鉛の合金です。廉価なので金箔の代用箔として発達しましたが、空気中で時間が経つと黒く変色します。着物、特に高級品では使われません。

Cアルミ箔
薄手のものがアルミ箔、厚手のものがアルミホイルです。キッチンで使うのと同じ素材なので、着物に使われるとありがたくないですね。アルミ箔は、もともとは金箔の代用箔でもある銀箔の代用箔として発達したものです。染料と樹脂で着色可能です。
アルミホイルは、ホットスタンピング加工の素材でもあります。ホットスタンピングは、消耗品である紙のカードの印刷に用いられるものなので、あまり着物には進出してもらいたくないです。

Dキリマワシまたは箔屑
箔をつくる過程で、規格どおりに裁断する際に生じるもので、泥や粉の材料です。金箔から生じるものをキリマワシ、代用箔から生じるものを箔屑といいます。

E泥(でい、金泥など)
筆描き用の鱗粉状の箔の粒子をいいます。膠や合成樹脂などの樹脂で溶いて泥描きします。樹脂と混ぜるので、空気に触れなくなるので、変色しやすい代用箔の箔屑も使うことが出来ます。

F粉(金粉など)
筒描き用の金属粉で、樹脂と混合して用います。樹脂と混ぜるので、空気に触れなくなるので、変色しやすい代用箔の箔屑も使うことが出来ます。

5.接着剤
接着剤は、天然のものと合成のものがあります。天然のものは、蛋白系と含水炭素系に分けられます。合成のものは、水溶性と油性に分けられます。

@天然

a.蛋白系
膠、カゼイン、ゼラチン、卵白。蛋白質は水溶性で接着力が強く、熱で固まります。欠点は腐敗することです。そのため、着物の保管中に湿気が加わると、カビの養分になってしまったり、腐敗したりする恐れがあります。その場合、金箔は3ミクロンほどしか厚みがないため、表面に影響し、金箔を変色させることがあります。

b.含水炭素系
デンプン、布海苔、トラガント、アルギンなど。接着力はあまり強くないが、水溶性で、粘りが強くないので使いやすいとされています。最大の特長は、乾燥後に皮膜性が強くないので変な光沢が出ないことです。そのため、生地に糊を塗った後に必ずしも箔が被さるとは限らない砂子加工に使うことが出来ます。湿気に対しては蛋白系と同じ欠点があります。

A合成

a.水溶性
ポリビニールアルコール、アクリル酸ナトリウム。接着力が強く、腐敗もしないという長所があります。しかし粘りが強すぎて使いにくいとされています。

b.油性
ポリ酢酸ビニール。酢酸ビニールを溶剤で溶かしてつくった粘りのある液体に金属粉を混合して金線加工をします。

c.エマルジョン
酢酸ビニールエマルジョン、アクリル酸エマルジョン。不溶性の合成樹脂を製造段階で乳化(水中に分散させて牛乳のようにすること)で、使いやすくしたもの。乾燥すると水に溶けなくなるので、水では剥がれず、腐敗もしないという長所があります。

B添加剤
接着剤はそれぞれ長所と短所があるので、それを補うために混合して使ったり、別の薬品を添加することがあります。代表的なものが、グリセリンで、柔軟性を持たせることが出来、箔が硬くパリパリなるのを防ぎます。

6.金加工のトラブル

日本の歴史上で有名な「漢委奴国王」の金印は、1784年に筑前国志賀島の甚兵衛という百姓が、田んぼの中で発見したとされるもので、現在は福岡市立博物館で一般公開されています。この金印は後漢の光武帝が、倭の奴国に57年に送ったものだということはわかっているので、最長で1700年も土中(しかも水田)にあったことになります。当たり前の話ですが、黄金の光にはなんの翳りもありません。

同じ純金のはずなのに、着物に施された摺箔は、桐の箪笥に5年か10年あっただけなのに黒く変色してしまうことがあるのはなぜでしょうか。純金が錆びるなんて、だれでもだまされたと思ってしまいますよね。

@金箔のトラブル

a.錆び
純金は錆びることはありませんが、代用箔は、空気に触れているうちに変色してきます。変色を防ぐためには空気に触れなければいいので、樹脂でコーティングしています。このコーティングが十分でない場合、なんらかの理由でコーティングが侵食された場合に、空気に触れ変色すると思われます。

b.摩擦
純金箔でも摩擦によるトラブルはあります。仮絵羽にしてある振袖などは、あちこちの展示会を巡回しているうち、何度も飾られたりしまわれたりして、肩山部分の箔が擦れてしまうことがよくあります。また表面に細かい傷がつくことで光の反射の仕方が変わり、光沢がなくなることがあります。

A接着剤のトラブル

金印の例で見るように、金というものは、はてしなく永遠不変に近いものです。しかし、接着剤は違います。自然でも合成でも必ず劣化します。洋服ならば、モノとしての耐用年数よりも流行が終わる方が早いので、モノの劣化が問題になることはありません。しかし着物は箪笥にしまったまま20年ぐらい放置することも普通です。そのとき、自然に劣化したものはやむをえないと考え、直さなくてはなりません。

自然素材の良さは、自然な経年変化によって劣化しても、通常の手直しで元に戻ることです。純金箔を糊で接着したばあい、十数年の間には、摩擦で擦れたり糊が劣化してしまうことがありますが、トラブルの起きた部分だけを直すことで、意外に安く元に戻るものです。着物全体の寿命あるいは着る人の寿命が終わるまで、自然なサイクルとして直しながら時を経ていくのも良いものだと思います。

次に、先ほどと反対のことを言うようですが、自然素材にはそれなりの欠点があり、合成樹脂にも利点があるという話です。

現代人の価値観では、食品添加物に関係する情報などで、化学的なものは危険で、自然のものが安全なように思う癖がついており、それはしばしば思想のようになっています。染織に関することでは、友禅染でゴム糸目よりも糊糸目の方が良いように思うのは、実際の見た目だけでなく、自然なものや伝統的なものが良いという思想的な面もあると思います。しかし現実には、自然のものにも人間に不都合なものはあります。

糸目糊というものは、製造過程で洗い流されるもので完成後に残るものではなく、自然でも化学でも影響はありません。しかし箔を生地に付けるための接着剤は完成後にそのまま残り、その着物が存在する間、数十年間箪笥の中で共に過ごさなくてはなりません。その間に自然なサイクルで起こるべきことが起こります。

自然な接着剤の素材には、蛋白質とでんぷん質があります。完全に乾燥しているときは安定していますが、水分が加わると、どちらもカビの養分になってしまいます。カビなどの生物の活動が活発になると、金箔は金属とはいえ3ミクロン程度の厚さしかないので、表まで影響してしまいます。さらに、例は少ないと思いますが、箪笥にゴキブリが侵入した場合にはゴキブリの餌にもなるといわれます。

合成樹脂のばあいは、カビの養分になることもなく、自然素材のものより長期にわたって安定したものもあります。最近化粧品コマーシャルで、乳化とかエマルジョンなどの言葉をよく聞きますが、それらの技術もこの分野に貢献しており、将来さらに安定したものが出来るものと期待しています。

B添加剤のトラブル

接着剤は、固まると硬くなり、箔を貼った部分がゴワゴワになったり、ひどい時は箔に亀裂が生じることさえあります。これを防ぐために添加するのが、軟化剤であるグリセリンです。このグリセリンが湿気の多い梅雨時期などに、ベタつきを生じることがあります。症状としては、箔表面が、触るとペタペタした感じになったり、反物の場合には巻いてある部分がくっついたりすることです。これが原因で箔が剥がれることがあります。これがトラブルの中で一番多いかもしれません。

また反対に乾燥の時期には、軟化剤が不足した状態になり、生地がごわごわになり、生地との不適合が剥落の原因になるかもしれません。

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