沖縄の染織



沖縄の織物の魅力と歴史

沖縄の織物の産地による分類

沖縄の織物の組織による分類

紅型

70年代のこと

川平織を特集してみる





沖縄の織物の魅力、分類、歴史




1.沖縄の織物の魅力

沖縄には、日本本土全体に匹敵するぐらいの多様な織物があります。それは、絣の文化というものが、インドを起源として、インドネシアやフィリピンあるいは中国南部を経て沖縄に上陸し、その後日本に伝わったからです。日本にあるすべての絣織物は、伝播経路では沖縄織物の弟分なのですから当然のことです。

そのほかに、沖縄に優れた織物がある理由を求めるならば、

@亜熱帯地方であるため多用な植物が自生し、織物の材料(糸芭蕉・苧麻など)も自然染料の材料(車輪梅・カテキューなど)も豊富だった。

A沖縄は日本の端ではあるがアジアの中心である。薩摩に占領されるまでは琉球王家はアジア各地と交易を行う海洋国家であり、高度な文化や技術が流入した。

B琉球王家は厳密に服制を定めており、それを維持する為に職人を保護し技術を磨かせていた。

C薩摩は貢納布制度をつくって人々を苦しめた。特に宮古上布や八重山上布の産地である先島諸島は、薩摩と琉球王家から二重の搾取を受けていた。この時代のエピソードを読むと気分が悪くなるほどひどいものであるが、結果として優れた染織品を生むという効果をもたらした。

というようなことが言えると思います。

沖縄織物の魅力は、優れた作品が多いということや生産量が少ないという希少性もありますが、それだけでなく(少なくとも今までは)作家が正直で「手織」「草木染」と表示されていれば、それが守られているというところにもあります。

2.沖縄の織物の分類

沖縄の織物の分類の仕方には、産地ごと(産地の組合のラベルごと)、織物の組織ごと、使われる繊維の素材ごと(絹、麻、芭蕉布など)、などが考えられます。
沖縄の織物は、産地によって組合があり、制作者はその組合に所属して制作するのですから、現地の実際の制作者にとっては、産地組合による分類がもっとも自然な分類だと思います。しかしながら、産地ごとに全て違う技法の織物が織られているわけではありませんし、1つの産地が1つの技法の織物を織っているわけではありません。たとえば花織は首里でも南風原でも与那国でも織られています。浮織は読谷花織が有名ですが、首里でも南風原でも織られています。またこれまでは文化財として登録していなくても、古くから織物の伝統を持っている地域もあり、それが今から登録を目指すという動きもあります。さらに個人の作家は、何をどこで織ろうと自由で、その中には深石さんのような才能がある方もいらっしゃるので、石垣島の川平のように新たな産地が生まれるかもしれません。そのようなものが新たに生まれるたびに、定義し分類し直すというのも不合理に思われるので、産地による分類で理解するのは限界があり、織物の組織によって分類した方がより学術的とも思えます。
そこで以下の章では、一般に分かりやすい産地組合による分類と、学術的な織物の組織による分類とに分けて紹介します。

3.沖縄織物の歴史

(1)近世まで

田中俊雄・玲子著「沖縄織物の研究」は、1477年に与那国島に漂着した3人の朝鮮人のエピソードから書きはじめています。彼らは与那国に6カ月滞在した後、八重山、宮古などいくつもの島を経て本島に到着し無事帰国を果たしました。彼らは中世の離島の生活を見聞するという稀有な体験をしたわけですが、ありがたいことに覚え書きを残してくれました。それによると島ごとに相当の格差があって、与那国は3,4人の家族が間仕切りも便所もない家にすみ、食器はなく葉を皿にして手で食べていたそうです。そして1つの集落にそのような家が10戸、そして3つの集落があったそうです。人口は100人といったところでしょうか。八重山まで来ると、家には便所もあり食事は食器を使っており、さらに本島まで来ると、日本人も中国人もいたそうです。この3人は、この時代としては早く帰国することができたのですが、それはすでに朝鮮への航路もあったということです。つまり大航海時代が始まっていたんですね。織物については、日本式の地機も中国式の高機もあったと書いているそうです。

沖縄の織物が長足の進歩を遂げるのは、18世紀はじめの「御絵図帳」がきっかけとなったのではないかと想像されます。もちろん御絵図帳によって製法や意匠が発明されたわけではなく、当時行われていたものを文書化したものにすぎないでしょう。しかしそれによって発注者も制作者も、さらにレベルの高いものを発想したり、制作する動機づけになったことは間違いありません。

しかし、薩摩による征服による貢納布制度は人々を苦しめていました。当時の税制は人頭税です。現代のように収入に対して課される税金は、たとえ重くても成果に対して課されるわけですが、人頭税のばあいは、子供ができると課されるのであり、非常に残酷なものだと思います。

(2)近代

東京国立博物館には奄美大島で織られたという浮織があります。読谷花織に似た浮織ですが、極めて精緻でレベルの高いものです。その奄美の浮織が東京国立博物に収蔵された経緯ですが、東博の解説によりますと、明治15年にドイツ人類学会からドイツ皇帝を通し、明治政府に対し琉球の民俗品を収集して欲しいという依頼があり調査収集が行われたということです。収集品はドイツに送られましたが、重複する品は東京国立博物館で保管されました。奄美の浮織もその中の一点だそうです。またドイツに送られた収集品ですが、これは現在も健在で、最近になって、沖縄織物の作家でもあり研究者でもある祝峯恭子さんにより確認・調査されています。これが近代になって初めて行われた沖縄の織物に対する学術的な調査収集で、非常に貴重なものでありドイツ皇帝に感謝です。

(3)沖縄における近代

学校で習う日本の歴史では、地租改正は1873年で、これにより年貢として物納されていた税が金納になり、村単位で連帯保証的であった納税義務が土地所有者個人であるとされたのです。税率は初めは地価の3%、のちに2.5%です。

しかし、沖縄の歴史では、地租改正は1903年です。驚くべきことに、それまでは薩摩時代と同じ過酷な人頭税であり、紬の産地では人々は職業選択の自由もなく貢納布を納めていたのです。貢納布制度がなくなったとき、人々は開放されて喜んだわけではありませんでした。本土並みの2.5%の地租に移行してもそれは十分重いものでしたし、他に生活手段があるわけではなかったからです。このとき紬産地では一種の虚無的な雰囲気が漂い、紬の歴史は途絶えそうになったとされています。

江戸時代において、藩の庇護を受けていた有松絞や有田焼は、明治の廃藩置県により庇護を失い一時的に衰退しました。それらの産地では、香蘭社や深川製磁のような会社を設立したり(有田)、産地の協同組合を設立したりして、みずから商業生産に乗り出していくわけですが、沖縄の紬にも30年遅れてその時期が来たわけです。有松や有田における「庇護」と沖縄における「抑圧」は、言葉としては反対ですが、末端の職人にとっては同じものでしょうし、自分で考える習慣を持つことを許されないという点でも同じだと思います。

久米島を例に取ると、仲原善久(後に村長)が、那覇から織物に詳しい外間政暉を小学校長としてよび、小学校に女子実業補習科(後に女子工業徒弟学校)をつくらせました。この学校で紬の指導を行い、それまでの地機にかえて高機を導入したり、絣技法も手結いにかえて本土と同じ絵図法を導入しました。これらの改革により久米島紬の生産は飛躍的に伸び、大正時代に最盛期を迎えました。

それまでの強制されて織っていた状態から、みずから商業生産によって稼ぐようになり、本土の好みに合わせるというマーケティング的な思考が島に入ってきました。高機と絵図法という、それを可能にする技法も同時に手にしたことから、柳宗悦が絶賛した「法が美を守る」という伝統のスタイルから離れ、絵絣的なものが現れました。

沖縄の絣は民芸であるべき、という人たちは、そういう流れを伝統に反するものとして嫌い「軽薄な絵模様(仲原善秀「琉球紬考」・染織と生活8、79ページ)」と批判しました。現在は、絵絣的なものは織られておらず、御絵図帳(みえずちょう、王家時代に御用布に用いる絣パターンをしるした見本帳)にあった柄を踏襲するようなものが織られています。伝統に回帰したともいえますし、マーケティングの結果、沖縄らしさを選んだともいえます。しかし、私は、絵絣の流れに属するものの実物を持っているので、絵絣は軽薄という考え方は、観念的にすぎると思います。写真のものがそれですが、もしこれが山陰にあったら、民芸派は絶賛するのではないでしょうか。どの流れでも実物を見れば良いものは良いのです。

久米島の絵絣。こういうものは現在は織られていない。



おまけ

仲原善秀「琉球紬考」は素晴らしい論文で、私は何度も読みかえしたのですが、それに逆らうようなものを、もう一反。佐藤昭人の阿波藍で染めた糸で織った久米島紬。邪道のはずだが美しい。



(4)柳宗悦以後

昭和14年、日本民藝館同人は柳宗悦を団長として一回目の沖縄における民芸の調査のために9人のメンバーを派遣しました。この調査は沖縄の文化が再発見されるきっかけとなる重要な出来事でした。しかしこの調査はただ沖縄にとってだけではなく、日本の工芸を語る上で特別の意味を持っています。なぜならばそのときのメンバーには、後に芸術や工芸で大きな影響力を持つ人たちが揃っており(濱田庄司、河井寛次郎、芹沢圭介、棟方志功など)、彼らすべてがこの調査から多くのインスピレーションを受けたからです。

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沖縄の織物の産地による分類



(1)南風原織

「琉球絣」という言葉は、沖縄県で織られる平織の絣織物の総称です。沖縄本島の南風原町がいちばん大きな産地で、他には久米島紬もそうですし首里にも平織の伝統があります。南風原の作家としては大城カメ(叙勲者・故人)、大城広四郎(故人)が有名でした。

写真は、大城広四郎の琉球絣



(2)久米島紬

久米島紬は沖縄県で織られる平織の絣織物ですから「琉球絣」ということになりますが、慣例的に久米島紬を「琉球絣」という人はいません。久米島紬は草木染(黄色はクルボウやヤマモモ、茶色がグールやティカチ)または泥染(黒、鉄分の多い泥に浸けると鉄が媒染になって黒く染まる)、手括の絣、手織という伝統技術をよく守っている素朴さが魅力の織物です。技術だけでなく、絣のデザインも伝統のスタイルを守っています。糸には、経糸は玉糸で緯糸だけ手紡真綿という標準的なものと、経緯とも手紡真綿(「経緯諸(モロ)紬」という)という特別なものがあります。経糸が手紡糸だと絣を合わせて織るのが難しくなることなどから、かなり価格差があります。近年重要無形文化財の指定を受けたことから人気が沸騰し、その後、作りすぎによりネットで安いものが出るなど市場に混乱がありました。しかし、もともとそんなに量産できるものではなく、作りすぎと言ってもたかが知れているはずなので、市場の小ささにより起きた混乱だと思います。時間がたてば必ず収束するものですから、その時安く入手した人は得をしたのではないでしょうか。

写真は、経緯諸(モロ)紬



(3)首里の織物

王府のあった首里の織物は、「首里の織物」として分類されます。その内容としては、首里花織、道屯織(両緞織)、花倉織、諸取切、平織の絣(手縞、綾の中)、煮綛芭蕉布、花織手巾、浮織、みんさーなどです。この中で、道屯織(両緞織)と花倉織は、首里だけに伝来したものですが、現在では南風原などでも織られています。

@首里花織
首里花織は、平織りの一部分の経糸と緯糸を組み合わないようにして糸を浮かせて、紋様を表す織物です。紋の部分は、表地は緯糸が浮き、裏地は経糸が浮いています。写真は、山口良子の着尺。黄色は福木で染めています。



Aロートン
ロートンは花織と同じ紋織の一種ですが、表裏とも経糸が緯糸と組み合わずに浮くことで紋織を形成しています。表裏とも全く同じに見えるので不思議な感じがしますが、その部分は経糸が2つに分かれ、その間を緯糸が通っているのです。中国から伝わったとされていますが、中国では絶えており、沖縄から本土に伝わることもなかったので沖縄にしかない稀少なものです。写真は、ルバース吟子の帯。



B花倉織
花倉織は首里花織と捩織を組み合わせたものです。織機に花織を織るための「綾竹」と捩織を織るための「捩綜絖」の両方を装着しないとできないので、機構が複雑になり難度の高い織物でした。そのため近代になる前に途絶え、幻の織物とされてきました。しかし昭和50年、宮平初子(人間国宝)と大城志津子によって復元され、現在僅かながら織られています。また首里以外でも南風原などで織られていますが、その場合には「花倉織」は名乗らず、「花絽織」と称するのが普通のようです。写真は伊藤敦子の花倉織の名古屋帯。



C平織
大正時代の導入された絣技法である絵図法によって織られたものと、沖縄の伝統的な絣技法である「手結」によって織られたものがあります。手結は、糸の段階では意匠に関係なく一定間隔で絣をくくり、織る過程で左右にずらしながら絣の模様をつくるというものです。あまりに大きくずらすということは糸が無駄になってできないので、それが創作の制約になりますが、柳宗悦は、その制約について「法が美を守る」と評し、醜い品が現れない理由だとしています。(醜い品が現れない換わり岡本太郎も現れない、とも言えますね。)写真は山口良子の手結の首里織。



(4)読谷

@読谷花織
読谷花織は、紋様部分について綜絖を使って別の色糸を織り込んで表現するものです。刺繍のようにも見えますが、生地に対し別の色糸を入れるのですから原理は刺繍と同じです。ただし刺繍は完成した生地に対し後から別の糸を入れるのに対し、浮織は生地を織りながら別の糸を入れるところが違います。表は緯糸が浮いて模様になり、裏は遊び糸になっています。技法と色彩はアジア的、南方的とも言われます。やはり絶えていたのですが与那嶺貞(人間国宝)によって復活されました。写真は読谷花織のオモテとウラ(作者は与那嶺貞。素材は木綿)



A読谷手花織
読谷手花織は、紋様部分に別の色糸を手で差し入れて表現するものです。色糸は裏面では断ち切られています。手織の織機に綜絖というパーツが考案される前に、手で色糸を差し入れていた時代の織り方で、読谷花織が完成するまでの過渡期の様式ということになります。写真は読谷手花織のオモテとウラ(作者は上地光子。)



最近、東京国立博物館で奄美大島で制作されたという浮織の着物を見ました。100年ほど前のものということですが、大変に精緻なものでした。現在は奄美は大島紬、沖縄は花織・浮織と棲み分けされていますが、もともとは海に境界線があるわけではなく南の島々の各地で花織が織られていたのでしょう。しかし大島紬の需要が増えると、奄美の全ての機屋が大島紬に転業してしまい、花織を始めとしてバリエーション豊かな織物が廃れてしまったのだと思います。

(5)芭蕉布

芭蕉布は沖縄独特の繊維としてあまりにも有名です。日本本土には原始布とよばれるシナ布・葛布などがありますが、それに相当するのが沖縄では芭蕉布でしょう。原始布的な木の繊維を素材としながらも洗練された絣がついているのが特徴です。現在ではマスメディアに取り上げられることの多い平良敏子によって復活されたものです。「喜如嘉の芭蕉布」は重要無形文化財になっていますが、平良敏子個人も人間国宝になっています。写真は喜如嘉の芭蕉布の帯です。



(6)宮古上布

宮古上布は越後上布と同じく苧麻で織られています。イラクサ科の苧麻は日本古来の「麻」であり、本土では会津昭和村が産地で越後上布として織られますが、同じ植物が宮古島に産し宮古上布として織られます。気候に恵まれた宮古島では非常によい苧麻(イラクサ科)が取れることから、麻系の織物では最高と言われます。



(7)八重山上布

八重山上布は本来は宮古と同じく苧麻で織られてきましたが、近代になって簡略化されて緯糸のみ苧麻で経糸はラミーで織られています。これまで八重山上布は海晒しの白地に捺染の絣のものが伝統とされてきましたが、新垣幸子が近代以前の八重山上布を調査し、八重山に自生する植物を自由に使った草木染の色鮮やかな八重山上布があることを発見して再現しています。また絣もすべて手括りで行っています。

写真左/普通の八重山上布、写真中/新垣幸子の八重山上布の名古屋帯、写真右/新垣幸子の八重山上布の拡大



(8)与那国花織

与那国花織は花織部分の組織は首理花織と同じものです。その花織と格子(グバン)を組み合わせたものですが、花織が持つグラデーション効果(後述)を最大限生かした美しい織物です。



(9)八重山ミンサー、竹富ミンサー

ミンサーは首里で織られているものと同じ組織です。また八重山ミンサーも竹富ミンサーも織物の組織は同じものですが、八重山ミンサーは石垣島、竹富ミンサーは竹富島です。どちらも八重山諸島であり、右の写真の竹富ミンサーは、「竹富ミンサー」と表示されながら「八重山ミンサー」のラベルもあり紛らわしいですね。組織は単純な畦織ですが、イカットのような経絣も使われています。値段については現地の小売価格と東京の小売店の卸価格が同じということがあり、業者としては値段が付けにくいことがあります。そのため値段がさまざまなので、ネットで比較してみると良いと思います。



(10)琉球美絣

真栄城興盛という人が近代になって創始した絣です。興盛の死後は、夫人の喜久江、息子の興茂によって継承されています。基本は琉球藍で補助的に他の植物染料を使います。通常の絣は、糸を括って防染してから染液に浸けて絣を作りますが、美絣では、まず藍で糸を染めてから絣をくくり、抜染により絣表現をします。絣のくくりを変えながら何度も抜染することにより、美しいグラデーションを作ります。素材には木綿と駒上布があります。



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沖縄の織物の組織による分類



1.「沖縄織物の研究」について

田中俊雄・玲子著「沖縄織物の研究」という本があります。沖縄の織物について書かれた決定的な本であり、この本を読まないで沖縄の織物について語るということはできません。着物雑誌の「琉球染織特集」などでも、ライターの方は全員これを読んでいるでしょう。



昭和14年、日本民藝館同人は柳宗悦を団長として沖縄における民芸の調査のために9人のメンバーを派遣しました。これが第一回の調査であり、この調査は沖縄の文化が再発見されるきっかけとなる重要な出来事でした。

この調査は沖縄にとってだけではなく、日本の工芸を語る上で特別の意味を持っています。なぜならばそのときのメンバーには、後に芸術や工芸で大きな影響力を持つ人たちが揃っており(濱田庄司、河井寛次郎、芹沢圭介、棟方志功など)、彼らすべてがこの調査から多くのインスピレーションを受けたからです。

そしてこの9人のメンバーの中にこの本の著者である田中俊雄がいました。田中俊雄はこのとき以来沖縄織物の研究をはじめ、昭和27年にようやく柳宗悦の序文をつけて「沖縄織物裂地の研究」を本として出版したのでした。田中はその直後不慮の事故で死亡したのですが、そのときこの本の続編である「沖縄織物文化の研究」の原稿を残していました。その後、昭和51年に柳悦孝監修により紫紅社からこの2篇を一冊とし、図版をカラーに変更して再出版されました。重要な本ではありますが、一般に受ける本ではないので部数も多くなく、私も持っていなかったのですが、最近小沢さんから偶然いただいた本の中にあり読むことができたのです。小沢さんとは小沢酒造のことで、同社の運営する櫛かんざし美術館の学芸員を勤める橋本澄子先生に紫紅社から贈呈され、蔵書としてあったものということです。

沖縄の織物の特徴はその多様性にありますが、それは狭い島国の中でありながら、さまざまな織物が互いに淘汰しあわず、並存して織られてきたということです。それぞれの島が海で隔てられているからだろうといいたいところですが、同じ島国で織物の歴史では先輩格であるインドネシアでは、どの島でも織られているのは皆イカットであり、沖縄のように平織も紋織もあるというような多様性はありません。さらに沖縄では海を隔てない本島の内部でも平織である絣と紋織である首里花織・読谷花織・ロートンという全く違う織物が並存しています。

私にとって、これはとても不思議なことに思えます。普通は、特産というのは、茨城の結城紬のように、県で1つか2つです。沖縄県の広さというのは、日本の他の県と同じぐらいなのに、その多様性は際立っています。

これと似た地域を求めるなら、京都だと思います。京都は、市内だけでも、京友禅あり、型染の小紋あり、綴あり、西陣織ありです。しかも西陣の中には、世界中の織り技法のほとんどがあります。なぜ、こんなに多様なものがあるのかといえば、それはやはり文化の中心だからでしょう。文化の守護者たる天皇がいて、文化的に他の地域を従属させていたからです。沖縄も同じことで、文化の守護者たる琉球王家がいて、文化的に周辺地域を従属させていたからこそ、他の文化圏に対する「部品」の供給基地にならず、多様な染織技法が併存して残ったのです。

現実に琉球文化圏に従属していた奄美大島ではかつては絣も紋織もあったのですが、明治以後琉球よりも日本本土との結びつきが強くなると、日本文化圏に従属するようになり、大島紬の供給基地とされ、機屋は大島紬ばかり織るようになり多様性が無くなり花織は滅んでしまいました。

「沖縄織物の研究」は、図録が別冊となっていて、豊富な図版がついています。その図版はすべて日本民藝館にあるもの、すなわち柳宗悦と民芸思想のシンパが収集したもので、収集当時現役で織られていたものではなく、ほとんど明治以前の尚家が支配していた時代のものです。その理由は「現在(昭和14年)は衰退してみるべきものは少ない」からです。
しかし、現在から見ると、この図版に載っているものはすべて運がよければ呉服屋さんの展示会で見ることができるものです。もちろん当店でもすべて見ることができます。そればかりでなく、この図版に載せることができなかった、すなわち柳宗悦も収集できなかった花倉織もちゃんと値札をつけられて売られています。伝統工芸とは衰退するものというイメージですし、現在の重要無形文化財指定の制度もそういう前提で作られていますが、沖縄はいまのところ幸福な例外です。

2.「沖縄織物の研究」による分類

(1)分類の意義

私と沖縄織物との出会いは、本の上ではなく問屋で商品としての出会いでした。ですから多様な沖縄の織物は、学術的な分類でなくラベルで分類していました。たとえば読谷花織と琉球花織と南風原花織はどう見ても同じものですが、反物の端についているラベルにはそれぞれの名前がついています。それは実際に違うものなのか、それとも商売上の都合で商標を変えているのか、当時の私にはわかりませんでした。

この田中俊雄の本では、沖縄の織物が体系的に分類されています。たぶんこれが初めての学術的な分類だったはずです。この分類は織物の組織により分類したもので、地域的に分類したものではありません。沖縄織物の組織による分類は、田中俊雄のものがすでに決定版であり、これに加えるものも差し引くものもありません。一方、着物雑誌の琉球染織特集では地域、組織、素材などから常識的に分けています。それは展示会で買いやすい分類でもあり便利ですが、読谷花織と琉球花織や南風原花織のように外見が同じで名前(ラベル)の違うものがあってとまどってしまうことがあります。

「首里の織物」の織物を例にとると、道屯織(両緞織)と花倉織は首里だけに伝来としたものですが、現在は両緞織や花倉織も南風原など他地域でも織られています。一方で、「首里の織物」としての文化財の指定の内容に無い浮織(読谷花織のような織り方)も首里で織られています。

結局、沖縄では、それぞれの小さい地域の伝統として、多様な織物が織られており、それぞれは互いに影響を与え合ったり、枝分かれしたりで、その地域の当事者は自分たちだけのオリジナルと思っていても、本質的に同じ組織のものが他地域で名前を変えて織られていることがよくあるということなのです。

そして、かつて枝分かれしたものであってもどちらが本家でどちらが分家なのかも定かではないのです。ただし文化財としての登録に当たっては、先に登録してしまったほうが勝ちということもあるようです。たとえば読谷花織のほかに「知花花織」というのもあるそうで、ちゃんと登録して文化財としたいそうです。このように、今後も再発見されて再興されるもの、学者は今まで同じものと分類していたが、当事者が違うと主張するものなどありそうです。しかし再興も地元の人がするのではなく、東京からいきなり移住してきた人がしたら、それを世間は伝統と認めるでしょうか。そういうケースもこれからはありそうですから、またまた混乱してしまうかもしれません。

こういう混乱は、今生きている現在進行形の文化だから起こりえることなのだと思います。沖縄の織物が魅力を失い、新しいものもできず古いものも再興されず、本土から習いに来る人もいなくなり、ただ博物館の中でしか見られなくなった時、完全な分類が出来るのかもしれません。したがって、産地による分類には限界があり、学術的な精密性、普遍性を求めるなら、田中俊雄のような組織による分類の方が優れています。

私は高校生のとき世界史でホメロスについて習ったとき以来ずっと疑問に思っていたことがありました。それはトロイ戦争がおきたのは紀元前12世紀、「イリアス」「オデュッセイア」が成立したのが紀元前8世紀、というものです。いくら名作でも制作に400年もかかるものでしょうか。ずっと後になってわかった答えは、「イリアス」「オデュッセイア」は文章ではなくメロディのついた歌であり、宴会の席などで好んで歌われたものだと言うことです。酔っ払って歌うので歌うたびに内容が変わってしまうから、なかなか成立しないのです。ところが400年たち、もう飽きて歌わなくなったので内容が変わらなくなり、めでたく成立したというわけです。つまり「成立」とは、できたのではなく、無くなったということなのでした。

(2)平織の分類

平織では、無地、縞と格子、絣というように、一般的な分類がしてありますが、特に沖縄的なものとしていくつか記載されています。

@「アヤの中」・・・絣と縞の併用。アヤ(綾または縞の字をあてる)とは縞の意味で、縞の間に絣が入っているデザイン(写真左は南風原の大城広四郎の絣)。

A「手縞」・・・絣と格子の併用。格子の中に絣が入っているデザイン(写真右は秋山真和が御絵図帳にある作例をそのまま再現したもの)。格子は「グバン」といいますが、それは「碁盤」の意味です。

B「ヤシラミ」・・・縞(格子を含む)として分類されたものの1つ。色糸配置を工夫することで縞を発展させたもの。沖縄をイメージする意匠ですが、沖縄にしかないわけではなくインドネシアから日本本土まで分布し、「算木崩し」とよばれることが多いです。

地域的な分類ではないので、そのデザインが使われているものは、南風原でも首里でも久米島でも同じ分類になります。



(3)紋織の分類

紋織では、着物雑誌や琉球染織の展示会では、首里花織(与那国花織も組織は同じ)、読谷花織(「琉球花織」や「南風原花織」と名乗るものも組織は同じ)、ロートン織、花織に捩組織を加えたものが花倉織と分けています。しかし、学術的な分類では、

@平織組織より誘導せるもの(畦織・花織・両緞織)・・・畦織(うねおり)は比較的単純な組織であり、日本または日本以外の各地にも存在します。花織・両緞織は沖縄独自のものです。

A紋糸を使用するもの{二重織(浮織・与那国手巾織)・縫取織}・・・沖縄独自のものとしては浮織と手花織です。浮織は、読谷花織に代表されるもので、地とは別の糸を浮糸としてつかい、浮糸が裏面に遊んでいて必要に応じて表面に浮かんで紋織を形づくるもの。綜絖を使うものが浮織、手で差し入れるものが手花織。

B捩組織を使用するもの(絽織・紗織・紋絽織)・・・絽織・紗織は夏物として一般的な組織であり、日本または日本以外の各地にも存在します。沖縄独自のものとしては首里の「花倉織」がありますが、一般名としては「紋絽織」です。花織と平織の一部を捩綜絖でよじって隙間をつくる捩織とを併用したものです。

ということになります。

(注)今、琉球染織を紹介する本ではロートン織は道屯織の字を当てていますが、この本では両緞織の字を当てています。ロートン織の特徴は裏表両方とも全く同じということですから、「両緞」という文字を当てるほうがイメージがあっていて良いと思います。

3.平織の特徴

(1)基本単位

織り手が自由に創作する絵絣と違って、琉球絣などすべての沖縄の絣(紋織も含む)のデザインは、伝統的な幾何学模様が基本単位としてあって、その組み合わせでデザインを創っていきます。(飛んでいる鳥のパターンは有名ですよね)。

田中俊雄は、沖縄の絣の単位になる柄をカードにとって整理したということですが、その当時(昭和14年)で約310種としています。世界各地の絣の産地のうちこんなに基本パターンを持っているものはないということです。

作家としては、この300余の基本単位を組み合わせて創作していけば一生分の材料はあると思いますが、現代の作家は新たなデザインを生み出しているのでしょうか。基本単位は、元の意味がわからないほど単純化されていますが、田中俊雄はその意味を@構成上からできたもの、A自然現象、B動植物、C器物に分類しています。その中には「豚の餌箱」のような日常にある卑近なものから生まれたものもありますが、時間の経過により単純化されて普遍的な形を持つようになったものです。ユングの「象徴」のようなもので、長い歴史を持つ民族が伝統の中で生み出した固有で普遍的なデザインだと思います。個人が、それを打ち負かすほどのデザインを生み出すのは難しいですね。

(2)手結

沖縄の平織の絣技法の特徴は「手結」です。本土で絵絣の設計に絵台を使う方法(絵図法)が考案されたのはもっとずっと後のことです。現在沖縄では、絵台のような技法も使われていますが、それは、明治以後に本土から移入されたものです。技法としては、手結の方がよりプリミティヴといえます。

手結とは、絣にしたい糸を等間隔で括り、織る過程で左右にずらしながら絣柄にする方法です。一方、絵図法は、絣にしたい糸について、正確に織りさえすれば意図した絣模様になるように、あらかじめ設計して括っておく技法です。すなわち、いかなる絣をつくるかということが、絵図法では括りの段階で全て決まっており、織り手はただ正確に織ることだけが要求されているのに対し、手結では、括りの段階では等間隔で括るだけで、織る段階でどんな絣になるか決めるということです。

絵図法は、絣の設計者だけが創作に参加でき、織り手はそれを実行するだけですが、手結いでは、織り手も創作に参加できるのです。たとえば、大島紬のような精巧な絣は、織った後に、経緯の絣が正確にぶつかるように針で直して、誰が織っても同じになるようにするわけですが、手結では、織り手の性格により「正確だが小さくまとまった絣」や「大胆だが勢いのある絣」があるえるわけです。その日の絣の具合で、織り手の心理状態がわかるかもしれません。

たとえば京都で織られる帯でも、紋紙を使う西陣の帯なら、どんな名工でも紋紙以上のものは織れませんが、自分の爪を使う綴ならば、織り手の意図で、途中で図案を変えることも出来ないことではありません。(プロはしないでしょうが)プリミティヴな技法ほど、創作性を発揮するチャンスが多いものなのです。

一方、手結の欠点は、織る過程で左右にずらしながら絣柄をつくるのですから、あまり大きくずらすということは糸が無駄になってできないので、それが創作の制約になることです。岡本太郎なら、爆発できないと言うかもしれません。しかし、柳宗悦は、その制約について「法が美を守る」と評し、醜い品が現れない理由だとしています。 ここでいう「法」とは「法律」ではなく「技法」の意味です。技法の制約により、人間を「なんでもできる」状態にしないことが秩序をもたらし、それが美になるということでしょう。

写真は、川平織の手結い。反物の耳から緯糸が出ている




4.紋織の特徴

(1)沖縄独自の紋織

沖縄の織物の魅力の一つは花織や両緞織(ロートン織)などの多彩な紋織ですが、紋織の技術は元々、中国から移植されたものです。本来、紋織は高機でしか織れないものですが、当事沖縄には地機しかありませんでした。そのため織機もセットにして輸入されたものと思われます。

しかし高機は、沖縄には広まりませんでした。その理由は、琉球王家が紋織の技術を中国から移植したのは王宮で使用する官服を織るためだけだったので、王家の権威を保つため高機での紋織制作は王宮内でのみ行い、製法が外部に漏れるのを防いだからです。さらに中国の技術を出来るだけ正確に引き継ぐことに意義があると思われていたので、創作的な発展は禁じたともいわれています。

私たちが今日的基準で、魅力を感じる沖縄の紋織物は、中国の模倣ではなく沖縄独自の紋織です。そして現代まで伝わる花織、両緞織あるいは浮織は、機構上の宿命として平織しか織れないはずの地機を改造して、紋織を織れるように工夫して織った沖縄独自のものです。

本来高機でしか織れない紋織を地機で織るには、平織地の1本置きの糸組みの一部分を組み合わないようにはずして、ひとつの紋織とする(首里花織に代表される花織)か、平織地の中で別の模様糸を織り込んで、紋織を形づくる(読谷花織に代表される浮織)しかありません。

(2)花織

花織(首里花織に代表される紋織)を地機で織る方法は、平織の糸組みにおいて、一部分をわざと組み合わないようにはずして、糸を浮いたように見せることです。このために、「綾竹」という、経糸の間にさしはさむ機構を発明し、これを伝統的な地機に追加しました。(明治以後、本土から高機が導入されていき、現在は高機が使われています。)写真は、山口良子の首里花織。右の近接写真では、緯糸だけに赤色の糸を使っているので、花織の組織がわかりやすいです。



(3)浮織

浮織(読谷花織に代表される紋織)を地機で織る方法は、平織地の中に模様を表現するためだけの別の糸を織り込んで、糸を浮いたように見せることです。このために「紋綜絖」という、織りながら経糸を持ち上げる動作をする機構を発明して、これを伝統的な地機に追加しました。(明治以後、本土から高機が導入されていき、現在は高機が使われています。)

読谷花織に代表される浮織は、紋綜絖をつかって紋織をつくる綜絖花織ですが、一方で読谷には手花織もあります。手花織は紋綜絖のような新機構はつかわず、平織地に手で模様糸を差し入れていくという原始的方法です。おそらく紋綜絖が開発されるまでの過渡的な技法だったのでしょう。さらにグーシー(串)花織というのもあって、これは串のようなものを使うのでしょうが、これは手で差し入れるのと紋綜絖の間の過渡的なものなのでしょう。

写真は、先ほど紹介した手花織と綜絖花織が混ざったルバース吟子の作品の表と裏。綜絖花織は渡り糸が繋がっているため、ヨコにつながるデザインになるが、手花織は渡り糸が繋がらないため、ユニット的に独立したデザインになる。技法がデザインに影響を与える例である。



手花織には左のような単純な柄の繰り返しもありますし、右のような意匠的なものもあります。一方、綜絖花織の意匠は、「法が美を守る」という言葉を実践するような織物としての必然的、論理的な美しさはありますが、作品ごとの意匠的な違いは大きくありません。より単純で原始的と見られる方法のほうが、創造的な変化を起こしやすい、つまり本質的な進化をしやすいという例だと思います。

写真は左右2点ともに宮平初子作。



(4)両緞織(ロートン)

両緞織(ロートン)は地の経糸の一部が緯糸に組み合わずに浮いている形で紋織りを形作るものです。経糸は表裏2つに分かれ、その間に緯糸が通ります。そのため裏も表も同じに見えます。技法的には、地機に「綾竹」と「紋綜絖」の両方をつけて織られていました。



(5)花倉織(紋絽織)

花倉織は首里織の1つであり、一般名は「紋絽織」ですが、他の産地で織る場合は「花絽織」という場合が多いです。花織と絽織を併用したものです。絽織は隙間のある織物ですが、平織の一部を「捩綜絖」でよじって隙間をつくるもので、捩織ともいいます。花倉織は、織機に花織を織る「綾竹」と捩織を織る「捩綜絖」を併用して織るものです。



(6)紋織とグラデーション

たいていの人にとって、沖縄織物の魅力というのは、組織の多様性や複雑さという織物の理論ではなく、グラデーションの感覚的な美しさではないでしょうか。しかし、グラデーションの美しさというのは、組織の構造という織物の理論から生じているのです。

織物というのは、経糸と緯糸が交わってできているものですから、私たちは織物を見るとき、経糸と緯糸が混ざった状態で見ています。経糸が赤で緯糸が青なら紫に見えるわけです。下の写真(秋山真和の花織)を見ると、糸の浮いている部分は、黄色でも青でも緑でも、色がはっきりしています。それは緯糸が浮いた部分は経糸が交わらないので、そこだけは中間色ではなく緯糸の色をじかに見ているのです。それに対し、地の部分はすべて中間色になっています。それは経緯の色の平均値を見ているからで、右側の拡大写真を見ると、それは黄色と青であることがわかります。

つまり、感覚的な美であるグラデーションは、数学的な織物の理論があって成り立っているのです。美しいグラデーションは沖縄織物の特長ですが、それも沖縄織物に紋織があったから生まれたものです。



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紅型について





1.紅型とは

紅型は、京友禅などの本土の染色の他、中国・東南アジアからも影響を受けながら、どれとも似ていない沖縄独自の染色です。現在のスタイルが完成したのは18世紀頃とされています。王家御用達として沢岻家、城間家、知念家の3家を宗家として制作されてきました。各宗家はそれぞれ柄の大きさが異なるなどオリジナルのデザインを伝承していました。紅型の特徴は、ひとつは現在の京型友禅が一色一枚、色数だけの型紙を用いるのに対し、紅型は型紙を一枚しか用いず輪郭線を取るのみで彩色は手挿で行うこと、もうひとつは江戸小紋が型紙は伊勢白子で彫り、染めは東京と言うように分業しているのに対し、紅型は全工程を一人(またはひとつの工房)でつくることです。このため生産効率が低くコストが高いことや、個々の技術を一生かけてつきつめるのではないために縞彫りの毛万筋のような神業的な事は出来ないという短所がある反面、一人で自由に作るため創作性が高い、人間的な温かみがあるというような長所もあります。着尺に用いられる型染の他に幕などに用いられる筒引きがあります。

江戸時代は本土でも「琉球更紗」として伝わっていました。地理的に沖縄は、更紗の伝搬ルートであるインドネシアと日本の途中にありますし、内外の異なるモチーフを取り込んでしまう雑食性は更紗の特性ですから、紅型とは沖縄に根付いた更紗なのかもしれません。そうであれば、雑食性は更紗の特性ですから各地のモチーフを取り入れてしまうのも、取り入れつつも独自であり続けるのも当然ということになります。

明治になって王家が無くなると紅型は顧客を失って衰退して行きます。そして昭和初期には3宗家の中でも筆頭の沢岻家が過去の作品、型紙、道具類の全てを、当時女学校の教員として沖縄に来ていた鎌倉芳太郎に売却して廃業してしまいました。鎌倉芳太郎はこれをもとに自分で紅型を制作し、後に人間国宝になります。そして現代の型染作家の多くは彼の影響を受けていますから、断絶した沢岻家の系譜は現代までつながっていることになります。

昭和14年、柳宗悦が率いる民芸運動の一団が沖縄に着ました。彼らは紅型を民芸の優れた例として紹介したので、本土からも注文が来るようになり、一時盛り返しました。しかし昭和20年の沖縄戦で全てが失われてしまいました。戦後何も無いところから、紅型を復興した人として城間栄喜は名人と呼ばれていますが、その死後娘婿の玉那覇有公が人間国宝に指定されました。

城間栄喜の型染の紅型




城間栄順の筒引き(筒描き)の紅型



2.染料か顔料か

城間栄喜が、戦後、占領下の沖縄で何もないところから紅型を再興したときの有名なエピソードに、顔料がなかったため、進駐している軍人の夫人が捨てた口紅の残りカスを拾って紅型を染めたというものがあります。紅型復興に賭けた彼の壮絶な生き方を語るものとして多くの人々の感動を誘います。

しかし、実際に染色をしている人にとっては、このエピソードは信じ難いものでしょう。さらに着物を着る人にとっては悪夢のようなものでしょう。何時間かしたら油が浮いてきたのではないでしょうか。着物を生み出すまでの苦労話は、ほとんど全ての着物の産地にありますが、普通はいかに着易く耐久性のあるものをつくるかという、着る人のことを考えた苦労話ばかりで、こういうわざと着る人に害になるような苦労話は紅型だけです。

この口紅のエピソードは、単なる戦後の苦労話ではなく、紅型というものが人間が実際に着るものとしてではなく、芸術至上主義的なスタートを切ったということを表していると思います。沖縄復帰前に現地で紅型を買った人たちは、擦れたら色が落ちた、ということを報告しています。しかし復帰するまでの紅型は、壁に飾られるただの作品か、あるいはお祭りのときに踊り衣装として一度だけ着られるものとして存在したために問題になりませんでした。しかし復帰後に紅型ブームが起こったとき、京都室町の業者たちの価値観と衝突したのでした。

室町では、少しでも色落ちするものには何の価値も認めません。着物という商品として販売された後に色落ちすれば、落ちた色は帯や羽織にも付着します。すると着物が返品されるだけでなく、損害賠償にかかる費用だけマイナスの価値を持つことになります。購入する者も、芸術作品としてではなく着物として購入するので、色落ちしたらその機能を果たせません。

王朝時代の紅型は、王族と貴族という限定された人が正装として着るだけのものであり、また庶民が着るときは年に1度か2度の祭の際の舞踊の衣装としてだけであり、いずれも洗濯はしなかったでしょう(洗濯しなければならないような着方はしなかった)から、多少の色落ちは問題にならなかったと思われます。          

紅型が色落ちするというのは、模様染に顔料を使うからです(地染めは福木などの草木染の染料)。顔料の語源は、顔に塗る材料ですから化粧品のことです。古代の中国で化粧に使われた紅、白粉、眉墨などが、顔料といわれたのだと思います。

染料と顔料のちがいは、一般的には、水に溶けるものは染料、水に溶けないものは顔料といわれます。しかし染料というものは、水と化学変化を起こして一体化するわけではありません。ただ水につけると、人間が感知できない程度に細かい粒子になって、水中を漂っているだけです。つまり染料と顔料のちがいは、ただ粒子の大きさの違いということになります。

染料は粒子が細かいので、繊維の中に入っていきます。それも入りやすい大きさというものがあるので、その入りやすい大きさの粒子になっているものが染めやすい優れた染料ということになります。一方、顔料は粒子が大きいので繊維の中に入れません。繊維の表面に乗っているだけです。そのため摩擦に弱く、擦ると落ちてしまいます。絵ならば無理に擦ることもありませんが、衣服では洗濯しなければならないので、これは大きな欠点になります。

また、顔料は繊維の表面に乗っているだけなので、人の目で顔料を直接見ていることになります。だから紅型は鮮やかなのです。一方、染料は繊維の中に入っているので、直接見ていません。だから落ち着いた色に見えるのです。

紅型は摩擦に弱いということが、かつて多くの悲劇を呼びました。現在の紅型はトラブルを避けるために色々な工夫をしているようですが、沖縄復帰当時は、しみ抜きに出して業者が作業しようとすると色が落ちました。悉皆業者は着物のプロとはいっても、ホンモノの紅型なんてめったにないものだったのでよくトラブルが起きました。高いものですから持ち主にも業者にも悲劇でした。

摩擦による色落ちを防ぐ方法として、次のような方法が試みられてきました。

(1)伝統手的な方法を丁寧に行うという理想論的な方法。地道な努力をともなうわりに不完全面もあります。具体的には

@豆汁に大豆油(レシチン)を混ぜて豆汁のカゼイン化を促進して固着性を強くする。
A色挿しから水元まで一週間寝かすことで、カゼイン化した豆汁はより固着する。
B豆汁や明礬の濃度や使用のタイミングも関係する。
C顔料の粒子を細かくする。
D沖縄では自然乾燥でも出来るが、蒸しもしたほうがよい。

(2)補助剤の使用
顔料に添加すると、顔料固着の強化、水元時の顔料流出の防止、摩擦堅牢度の強化などの効果がある補助剤が開発されています。

(3)樹脂顔料をつかう
樹脂顔料をつかうと固着性はよいが生地が硬くなるという欠点がありますが、柔軟剤を併用するとかなり緩和されるようです。しかし沖縄の伝統とはちがうので、本土の紅型ならともかく、本場の沖縄の紅型に使われると、ちょっと幻滅します。

(4)顔料と染料を併用して、さらに補助剤も使用する。そして蒸しも行う。
樹脂顔料以外の全ての方法を併用するものであり、現実的ということで最も行われていると思います。

いろいろ書いてきましたが、結局、今日、京友禅で行われているようなことを行えば良い、ということのようです。染色という点では同じですし、やはり京友禅の作家屋職人はもっともよく研究しているのです。

3.沖縄以外の紅型           

(1)芹澤系紅型

日本本土における紅型の制作は、昭和のはじめといわれます。ちょうど沖縄の紅型が滅びようとする時期であり、鎌倉芳太郎や柳宗悦が紅型の復興に手を貸し始めた時期でもあります。その始めは静岡で、昭和3年にこの地にあった芹澤圭介が民芸運動に参加して沖縄を旅したことに始まります。もともと静岡は藍染の筒描や型染めが江戸時代から盛んだので、いち早く紅型風の染をマスターしてしまったのでした。代表的なもので現代まで続くものに大橋工房があります。

(2)栗山紅型

もともと油絵画家だった栗山吉三郎は戦前に四条通りに工芸品を扱う店も出していました。そこで紅型を知り、梅原勝次郎(龍三郎の弟、梅原家は呉服屋で弟が後を継いでいた)の影響を受け、戦後は染色家として再出発しました。戦前から民芸思想の影響を受け何度も沖縄に行っていたので紅型の影響の強い作風になりました。紅型は顔料を使うので南国風の力強い色彩が得られるのですが、一方で摩擦に弱いという欠点があります。着物の本場の京都にあって室町の問屋とも深く付き合ってきただけに、芸術家であるとともに、品質管理も怠らず、顔料や染料の研究にも熱心でした。昭和29年以来、品質保持のため一貫工房として制作しています。当初は、顔料を繊維に定着させるために樹脂顔料を用いていました。しかし樹脂顔料を使うとゴワゴワした硬い感じになってしまうので使用をやめました。(樹脂顔料は染帯のお太鼓に用いると、もともとがピンとまっすぐにして使用するものなのでゴワゴワしても実害はないが、着物に用いるとそこだけふわっとせず不自然でいやなものである)その後、繊維への定着が難しい顔料の使用をやめ、染料に酸化チタンを加えることで、顔料のような感じを出しているということです。 (結果として胡粉として粉錫を用いていた沢岻家と似てくるから合理的?)



(3)麻生工房

東京では鎌倉芳太郎の薫陶を受け、芳太郎の保有していた型紙を参考にして自前の型紙を作って始めた小平の麻生工房が有名です。麻生工房の創始者、麻生節は戦前銀座で「こうげい」という工芸専門店を経営していて紅型に出会ったということです。(栗山と同じですね) 白州正子の経営していた銀座の「こうげい」はすごく有名ですが、実はこの店はもともと麻生節が経営していたものを白州正子が譲り受けたものです。

4.鎌倉芳太郎について           

鎌倉芳太郎は東京美術学校(芸大)師範科を卒業した後、2年間教員として奉仕しなければいけない義務があるのを生かし、沖縄に赴任しました。ここで沖縄の伝統工芸に関する資料の収集を行いました。それを手土産に大学に戻ったところ、教授たち(現在、日本画の大家として名を残している人たちばかりだ)に絶賛され、そのまま研究職につくことになりました。本来は東洋美術史全般を研究対象としていましたが、それらの知識は最終的には紅型の研究へと結実して行きました。城間栄喜のような職人でもない、芹澤圭介のような芸術家でもない、柳宗悦のようなロマン主義思想家でもない、本格的な学者を得たことが紅型にとっては大きなプラスになりました。

たとえば、大変重要な貢献なのですが、顔料の研究があります。特に白、胡粉について、日本では、古土佐派は粉錫をもちいます。しかしその後に成立した狩野派や四条派は貝粉を用います。中国では古代には錫を用いますが、その後貝粉に変ります。このことは現代の日本画家には既知のことですが、戦前は秘伝としてはあっても学術的な研究はされていませんでした。

ところで紅型の白は、沢岻家は粉錫を使っていました。しかし江戸時代に中国に研究に行った知念家は貝粉を使っていました。つまり紅型の技法は東洋全体の美術史とリンクしていたのです。しかも沢岻家が粉錫を使っていたというのは、紅型の起源が、その前史である浦添型も含めると、想定したものよりずっと古いということが推測でき、しかも日本の古美術の様式をタイムカプセルのように保存していたということがわかりました。

沖縄を代表する文学は「おもろそうし」ですが、これは万葉集の中でも古い歌に近いといわれます。日本ではその後、古今和歌集、新古今和歌集と進歩してしまいますが、沖縄では進歩せず日本の原形を残したのです。沖縄に行ったときに南国の異国に着たように感じるとしたならば、それは本土の方が変わっているので、沖縄の方が日本の原型なのかも知りません。

戦後、もともと絵の素養があった鎌倉芳太郎は紅型作家となって人間国宝になります。作品以外に多くの著作を遺しており、そちらが本業なので、本来ならば人間国宝ではなく学者として文化勲章をもらうべきだったのかとも思います。

浦添型とは沢岻家に伝来した紅型の前史をなす古い技法で、紅型が型紙をつかって糊置きをするのに対し、浦添型とは蒟蒻糊を顔料と混ぜて、いきなり顔料を摺りこみして染めます。 

5.土俗か雅か                 

紅型の価値を再発見して有名にしたのは柳宗悦です。昭和14年の沖縄訪問の時からです。柳宗悦といえば民芸、民芸とは、地域に埋もれていて未だ価値が認められていないものに光を当てる運動、ということになっています。既存の美術史で認められていないもの、すなわち「下手物」です。紅型は柳宗悦に再発見されてしまったために、「下手物」とまでは言いませんが、地方的、土俗的なエネルギーあふれる芸術と解釈されてしまった面もあります。

エジプトの王墓から発掘される古代の壁画は、みな同じ様式で横顔として描かれています。景徳鎮の磁器でも、官窯は技術は最高だが堅苦しく、民窯は(呉須赤絵のように)技術は官窯に劣るが自由でおおらかです。世界中の美術のうちで、官製として作られるものは、技術的には高度でも、堅苦しいスタイルのものが多いです。 紅型は、王宮内で儀式用として使用されるものですから、官製の典型ですが、自由でおおらかという民衆芸術的なスタイルを持っています。南国の島という環境が作用しているのでしょうか。このため、民芸に分類されたのでしょう。

鎌倉芳太郎は、「紅型は民芸だといって本土の人がこれを律しようとするのは当たらない」と書いています。紅型は本来、王族と貴族の衣装なのだから、地方文化でもなければ「下手物」でもない、琉球王国という中央の、精緻を尽くした「上手物」なのだという趣旨です。

柳宗悦は民芸に対する思い込みが強すぎたためか、学者というよりロマンチストだったのか、なにもかも民芸でくくろうとした感じがします。たとえば朝鮮を旅して、李朝の白磁を絶賛し、「寂しさの美」と表現しています。彼は朝鮮の文化を高く評価し、日本の植民地とされている現状に同情していたので韓国人に尊敬される数少ない日本人です。しかし「李朝の白磁の本質が寂しさの美である」という趣旨には、それは日本人の勝手な思い込みだという批判があります。韓国人自身の感覚では、李朝の白磁の白は、「太陽の光に輝いている白」なのだそうです。本場の人にそう言われては仕方がありませんし、日本以外の世界の東洋美術の研究家もそういう意見ですから、それが正しい見方なのでしょう。そして、紅型も、沖縄から見れば、民芸ではなく美術史の中心にあり、ブルジョワ好みでアカデミックなものなのかもしれません。

実際の紅型はどちらなのでしょうか。私は両面があるといいなと思っています。紅型をつくる現代の作者にも両方の考え方があり、それぞれの感性でつくっているのではないかと思っています。紅型は王宮の衣装ですから典雅であるべきと思う一方で、沖縄は南国ですから、南国の太陽の光と熱を写し取ったような野蛮な作品があってもいいと思います。そしてそのどちらにもなれない紅型は、きっと才能のない作家によってつくられる平凡な紅型なのでしょう。

6.紅型を買う          

紅型を買うときは何を基準にすればよいのでしょうか。紅型は一人の作家によって作られます(もちろん工房内での分業はある)。このため個々の技術をつきつめるのではないので伊勢型の縞彫りの毛万筋のような神業的な事は出来ませんが、一人で自由に作るため創作性が高い、人間的な温かみがあるというような長所もあります。ですから、紅型を選ぶということは作家の個性を買うということで、気に入った作品を見つけたら作家の落款をを覚えて、自分と感性が合う作家を探したらいいと思います。

上手・下手の判断は、紅型は型絵染ですから、型絵染一般の価値観にしたがえばいいと思います。すなわち、型絵染で巨匠といわれる、稲垣念次郎とか芹澤圭介の作品を日ごろ写真でもいいので見ておいて、その価値観を紅型に当てはめてもいいでしょう。

下に掲げる作家は沖縄復帰直後ごろの1970年代半ばに工房を開いていた作家です。芸術家は年功序列ではないから古ければいいというわけではないですが、この作家たちはベテランということになるので参考にしてください。

大城貞成、嘉陽宗久、金城昌太郎、喜友名盛蔵、喜捨場正一、城間栄喜、城間栄順、末吉安久、瀬名波良枝、田里順子、玉那覇有公と道子、知念績弘、 知念績元、知念貞男、知念績有、津嘉山景子、当山善子、渡嘉敷哲郎、名渡山愛拡、名渡山愛夫、長山貢、西平幸子、藤村玲子、森田年幸、屋宜元六、伊佐川洋子

@城間栄順



A玉那覇有公



B知念貞男



C伊佐川洋子



D藤村玲子



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沖縄モノのブームがはじまったころ



国内の織物産地のほとんどが毎年生産量を減らして将来が危ぶまれているのに、沖縄だけは若い新しい作家が増えています。こうなったのは、もともとの琉球の文化が高いレベルにあって、それに本土の人々が気づいたからですが、もうひとつは琉球染織の素晴らしさを深く愛して、その普及に地道に取り組んできた「(株)染と織 琉藍」の力によるところが大きいと思います。

その琉藍が琉球染織と出会うきっかけになった出来事が「季刊Kimono」no.139 に書かれています。それは琉藍の社長の野村昌弘氏と大松(株)の常務取締役の児玉伯之氏との対談なのですが、その一部を紹介します。

「25年ほど前(この記事が書かれたのが2000年なので1975年、すなわち沖縄復帰2年後)になります。当時、大松東京店の仕入係だった児玉さんに呼ばれていったんです。ある小売店が紅型の小紋を探しているということでした。沖縄についてまったく知識のない私でしたが、翌朝すぐに沖縄に飛びました。このときの紅型とのかかわりが沖縄との始めての出会いでした。」

文章中の「ある小売店」とは当店のことです。それはこういういきさつでした。

展示会で大島紬を買うと沖縄旅行がプレゼントについてくる、という企画がありました。現在当店ではそういう商法を批判していますが、これは30年前の話ですからゆるしてください。守礼の門のすぐ前に着物の工房があったので団体でなにげなく入ってみました。そこは「紅型」と称する作品が展示されていて価格は30〜60万円でかなり高かったのですが、この旅行の参加者が買った大島紬とほぼ同じ価格だったので違和感はありませんでした。参加者たちは色鮮やかなこの作品に魅せられ、口々に「大島なんか買わないでこれを買えばよかった」と言いはじめて気まずい雰囲気になってしまいました。これはまずいと思った母親は、その場をごまかして急いで出てきたということです。

東京に帰ってから、どうしてもその「紅型」が気になった母親は、「守礼の門の前の紅型」を仕入れたいので調べて送って欲しい、と2つの問屋に依頼しました。「大松」と今はない「山菱」でした。

山菱は「守礼の門の前の紅型」とは京都出身の山岡古都が運営している工房であり、本来の沖縄の紅型とは異なるものだということを調べてちゃんと商品を送ってきました。京都でも流通しているものでした。(「紅型」という呼称は誤解を招くということで、現在は「琉染(りゅうぜん)」と称している)

一方、大松は山岡古都を知らず、後に「(株)染と織 琉藍」を始める野村さんという方に相談しました。しかし「季刊Kimono」によると、野村さんはこのとき初めて沖縄に行ったということで、沖縄に山岡古都の工房があることも知らず、間違えて本物の紅型を送ってきました。

送られて来たダンボールいっぱいの紅型を見て母親はびっくりしてそれからいやになってしまったということです。まず注文したものとは明らかに違うし、色はどぎつくて派手でとても着物として着られそうもない、しかも染め方がいい加減で反物の端が染め残されて白いままのものさえあるという代物だったからです。色自体はきれいなので安ければ使い道があるのですが恐ろしく値段が高い。卸価格で数十万円と今と大して変わらない価格だったということなので、当時の京都の小紋の相場の10倍ぐらいだったのではないでしょうか。しかしわざわざ送らせてしまったので仕方なくマシなのを2反だけ引き取りました。その反物は後に地元企業の社長さんがお嬢さんの振袖として買ってくれました。この方にとっては得体の知れないものにも大金を出したわけですが、後の琉球染織ブームを考えれば、大変に先見の明がある方だと感心します。

その後、野村さんは紅型とその他の琉球染織にまじめに取り組んで、しばらくたってから大松と組んで業者向けに琉球染織だけの展示会なども行いました。参加した小売店たちにとってはこれがはじめての琉球染織との出会いで、非常に早い試みだったと思います。野村さんはそれまでは普通の染屋が本業でしたが、やがて琉球染織が本業になり琉藍を設立しました。

その後、琉球染織ブームは盛り上がったり忘れられたりしながら今に至っています。忘れられたようになっていた時期は一部のマニアが愛好していました。今よりもかなり安く買えたように思います。今のブームは2000年の沖縄サミットあたりから始まったものだと思いますが、元々生産量が少ないものなのであちこちで展示会などすればすぐに不足して値上がりしてしまいます。ブームはもうかなり続いているのですが2005年の久米島紬の重要無形文化財指定によりまだしばらくは続きそうです。

1970年代後半の知念貞男の紅型。魅力的な作品であるが、柄合わせは出来ていない。







川平織を特集してみる



川平(かびら)織は、深石美穂さんという方が、石垣島で「からん工房」というのを運営して織っているものです。川平織という名前のものが、伝統としてあるわけではありませんが、この作家は沖縄織物の伝統である、手結、ロートン、花織などほとんどをマスターしており、それを正しく作品に反映させています。織る人が東京生まれで、川平という名前が新しくても、中身は本物の伝統というわけです。また、掲載している作品は生繭を使用しており、手触りがしっとりしています。

(1)着尺
大胆で創作的に見えますが、沖縄の絣で昔から伝わる基本単位「拳骨」を使っています。大きくておおらかな雰囲気は、御絵図帳に代表されるような沖縄織物の特徴です。



(2)名古屋帯
伝統工芸展や国画会のような公募展の出品作を思わせる、現代作家が好みそうなデザインです。円模様は緯絣の密度で表現されており、幾何学や問題やパズルが苦手な人には難しそうです。花織も併用されている豪華モノ。



(3)名古屋帯




(4)名古屋帯
沖縄伝統の花織で織られた帯です。しかし、その花織部分に平織の技であるが重なっているという凝ったものです。その絣は「絣足の片ぼかし」といわれるもので、おそらく括りを段階的に外して浸け染めすることで、段階的なグラデーションを作っていると思われます。高等技術ですね。



(5)名古屋帯
現状は名古屋帯ですが、元は着尺で何らかの理由で半分に切られたようです。経絣と緯絣からなる作品です。経絣というのは等間隔で絣をくくり、経糸を織機にかける前の段階で糸をずらして絣模様にします。そのため経絣の模様はずらすと重なるのが普通です。しかしこの作品では、ずらして重なる模様が2通りあります。これはいかなる方法で絣を作ったのでしょうか、世界の織物の歴史を見渡しても類例を見ないので、このようなことが可能なのか驚くばかりです。一方、緯絣は、沖縄伝統の技法である「手結」で作られています。プリミティブな伝統とアクロバティックな創作、この対比になっているのです。



(6)名古屋帯
一見すると単純な格子のように見えますが、ヨコ縞の一部分が消えています。すなわち、ヨコ縞ではなく緯絣なんですね。じつは手間がかかっています。近接写真を見ると、消える部分のグラデーションが見事。



(7)名古屋帯




(8)名古屋帯




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