と き:2007年1月26日(金)18時30分から21時まで
ところ:国分寺市立本多公民館 会議室2
出席者:今井孝彰、小川郁、酒巻美和子、鈴木綾子、鈴木まき子、鷹取健、堀雅敏、吉村成公。 司会と記録:鷹取健
例会で紹介・配布された資料・教材など
・100円ショップで買い求めたグラス(発音体)を鳴らす:小川郁
・「真船和夫さんを偲ぶ会」の御案内:鷹取健
・『自然科学教育 研究と実践-真船和夫さんの生物学教育研究を中心に-』:鷹取健吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫):堀雅敏
・<書籍紹介>『三陸海岸大津波』について(2ページ):堀雅敏
・<フィールドワーク報告>伊豆大島の火山の観察から(地図4、植生図1、写真30、過去の写真約20、本文2ページ、スコリア2種):鈴木綾子
・伊豆大島関係資料(福嶋・岩瀬『図説 日本の植生』、宮脇ら『日本の植生』から写真と図、本文。計6ページ):吉村成公
・<実践報告>玉川上水から学ぶこと(本文21ページ、教材8ページ、児童作成の記録8ページ、および「ごきげんよう」8ページなど:鈴木まき子
・写真「ナミビア・南アフリカの旅」:堀雅敏
書籍紹介:堀 雅敏『三陸海岸大津波』(吉村昭)
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前回紹介された書名とは違っていたが、吉村昭の作品の紹介は貴重であると感じた。
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堀さんの感想と気象庁のホームページの紹介については本号に掲載されると思われるので、ほんの少しだけ内容を紹介しよう。1896(明治29)年6月15日の「明治三陸地震津波」は、いわゆる震災はなく、津波が北海道から牡鹿にいたる海岸に襲来。死者青森343、宮城3452、北海道6、岩手18158。家屋流失全半壊1万以上。船の被害約7千、と『理科年表』にある。そして1933年3月3日の「三陸地震津波」、1960年5月23日の地震で翌24日の「チリ地震津波」の三つを中心に吉村昭が緻密な調査をして著した作品である。これには防災への行政や市民の動向も紹介されている。
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1896年明治三陸沖地震津波について、伊藤和明『地震と噴火の日本史』(岩波新書、2002年)には津波常習地帯、節句の夜を襲った大津波、“津波地震“の脅威、生かされなかった教訓、防潮堤は築かれたが--という項を設けて詳細に解説しているけれども、住民が「高台から海辺の土地に戻ってきたり」「巨大防潮堤の外側に住宅や店舗が並んでいる」ことも紹介している。すなわち、伊藤和明の岩波新書では吉村昭の作品の後の状況までを紹介しているので、改めて理科教育と防災教育の難問題を突きつけられたと思った。
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なお、1854年安政南海地震は、安政元年11月5日、紀伊国有田郡廣村(和歌山県広川町)を襲った津波で、399戸のうち125戸が流出し36人が死んでいる。このとき浜口儀兵衛は34歳であった。大地震の後、大津波が襲いかかり、村人と一緒に流されている。この津波第一波の後、稲むらに火をつけさせて丘にある八幡神社まで避難を促している。この津波は計4回襲ったという。五兵衛(儀兵衛)は「A living God」の作品中では老人として描かれている。
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この作品を読んだり、中井常蔵の作品を読んで、中井のは防災教育の不朽の教材であるということは容易である。しかし、これで終わりにしてはならないと思っている(NHK-TVですぐれた作品が報道されているから利用したいものである)。
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堀さんは、地震と災害について「中央沿線理科サークル通信」誌に、すでに次のように2冊書籍紹介をしているので、これを改めて紹介してみたい。
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松岡達英の作品は小学生から読める。
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松岡達英『震度7-新潟県中越地震を忘れない』ポプラ社、2005年4月(No.120、 2005年6月号)
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木股文昭・林能成・木村玲欧『三河地震60年目の真実』中日新聞社、2005年11月 (No.126、2006年2月号)
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さて、関東地方の地震災害はどうか、ということが気になってきた。わたしの場合、とりあえず次の本を取り上げておこうと思う。
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野口武彦『安政江戸地震--災害と政治権力』ちくま新書、1997年3月
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竹村雅之『関東大地震 大東京圏の揺れを知る』鹿島出版会、2003年5月、2005年6月3刷り
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鈴木淳『関東大震災--消防・医療・ボランティアから検証する』ちくま新書、2004年12月
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地震学者が一般書として著したのが竹村雅之の本だ。「プレート境界地震という説明だけでは、地震学的にも関東地震を理解したことにならない」として体験談を詳細に求め、検証していく。そして今後にどう生かすかへの展望も示す。鈴木淳は吉村昭の作品『関東大震災』を記録文学として紹介して、災害の拡大防止や被災者の救護にあたった人々の活動に焦点を当てている。これらを読みながら、時の政権、行政の対応と一般人たちの行動のそれぞれを見ていく中で教材の確立があると感じた。
<フィールドワーク報告>鈴木綾子:伊豆大島の火山の観察
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出席者は伊豆大島には何度か訪れたことがあるだろうし、豊富な資料を配布しての報告であったから、始まる前から期待感があふれて鈴木さんの話を待った。
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おなじみの御神火茶屋から撮影した写真・ハチジョウイヌツゲ・流動性の大きな安永溶岩・1986年溶岩の先端とクリンカー・イタドリのパッチと始まって30枚のカラー写真が行動順に印刷されているから、ビデオ映写と違って容易に比較しながら理解がすすむのでよかった。
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配布された伊豆大島の地図には撮影地点が記入されており、いくつかの火山活動の記録が図示されていて1986年噴火の特徴を示していて分かりやすかったと思う。鈴木さんはテーマを火山の活動としたが、植生分布、あるいは遷移についても理解しやすい写真と資料を示しての報告をしていった。
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たとえば沼田真・岩瀬徹『日本の植生』から引用して伊豆大島の植生の「遷移の過程」を示す表が紹介されたが、これは講談社学術文庫からの引用である。原本の朝倉書店版1975年でも参照してみたが、(手塚、1961年)とあって二つの溶岩分布と植生分布図と同じ調査によることが分かるし、同一ページに印刷されている。 原本では「火山の植生(1)」の中の約1ページ分の記述(図を含む)に対して、福嶋司・岩瀬徹『日本の植生』(朝倉書店版、2005年)は2ページである。
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なお、沼田真・岩瀬徹のは1950年噴火後のようすを調査し、福嶋司・岩瀬徹では上條隆志が執筆していて、上記(手塚、1961年)に加えて(奥富、1986年)の研究による解説である。これの4枚の写真は1993年と2001年に撮影されたものである。
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古い活動は除外して、1778年、1950年、1986年の溶岩流は似た経路であるから、フィールドワークでは、道々、その違いや比較ができて分かりやすかったろうと思った。鈴木さんは二度目の観察であったから、上記研究者の観察と同じような観察をしていることが分かった。鈴木さんの以前の写真は、今回回覧された。
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ところで、福嶋司・岩瀬徹編著『日本の植生』については、吉村成公さんの資料配布であった。「(伊豆)大島で噴火後第一に侵入する植物は、多年草のハチジョウイタドリ」であるとし、スコリア上の写真(2001年撮影)を掲載している。これはたぶん鈴木さんと同様1986年の溶岩流上である。
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吉村さんは宮脇昭「日本の植生」の火山植生4ページ分(『原色現代科学大事典3植物』学研、1977年)も資料紹介・配布してくれた。わたしのは1967年初版本であり、内容は同じ版であるようだ。ここではB.C200、1778年、1950年の三つの比較をしてあって、これはこれで貴重と思った。桜島の調査も多く発表されているが、度重なる活動であるから、伊豆大島のよりも分かりにくいのではないかと思っているし、東京都内であるから、こちらの教材整備をしてみたいところである。ついでながら、わたしの場合はビデオ撮影で、1986年噴火の状況と島民の行動に中心をおいたものである。
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鈴木さんの報告では、火山の活動について守屋以智雄『火山を読む』(自然景観の読み方1、岩波書店、1992年。pp.11-17が該当)を朗読紹介していった。なお、1986年11月21日、実際に現地で「火山弾に追いかけられる!」という体験を交えて紹介しているのが鎌田浩毅『地球は火山がつくった』(岩波ジュニア新書、2004年。pp.1-19)である。
<実践報告>鈴木まき子:玉川上水から学ぶこと
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鈴木まき子さんは、小学校第4学年の児童に「玉川上水がどのようにして造られたのか」を知ることを通して学ばせたい内容は次の通りであると報告し、授業記録を参照しながら部分的な授業報告をした。大部の資料であり、児童の学習記録も膨大であるから、次回に具体的な検討をすることになった。そこで、出席者は個々に質問事項・意見をまとめておいてほしい。
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1.到達目標・具体的な内容について
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配布資料は膨大であるから、「中央沿線理科サークル通信」に掲載できないかも知れないので、以下に引用しておきたい。
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(1)水道の始まりは、玉川上水であること
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(2)玉川上水は今から350年ほど前に、当時の人の知恵と、多くの人々の労働と現代につながる土木測量技術と、限られた農耕の道具とによって築き上げられたこと。
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(3)玉川上水は、羽村から四ツ谷大木戸まで、関東ローム層を掘って造られたこと。
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(4)玉川上水ができたことで、江戸の町の人々の暮らしが変わっただけでなく、武蔵野台地にも人が住むようになったこと、そして、住む人々の暮らしも大きく変化したこと。
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鈴木まき子さんは、玉川上水とは何かという研究の中で、幕府が地質学の素養が高かったことと、工事の対象が赤土であったが、これは至難の工事であると共にかえって都合がよいものではなかったかと考えるようになった。そこで、学習内容は地質についての学習を組織すること、工事の概要を理解することである、としてみた、とまとめている。
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次に蛇足かもしれないが、年表を二つ掲げてみたい。
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<歴史年表から>
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1602年 家康、江戸に帰る。
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1603年 諸大名の普請役で江戸市街地を造成開始。郷村掟を定め、逃散農民の帰村・直訴など決める。
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1606年 幕府、諸大名の普請役で江戸城を増築(以後、天守閣・石垣修復などつづく)。
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1616年 家康没す。
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1624年 中村勘三郎、江戸に猿若座を建てる。
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1634年 家光、江戸に入る。譜代大名の妻子を江戸に置かせる。
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1635年 武家諸法度改定、参勤交代期日その他決める。
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1637年 江戸城本丸改築の竣工。
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1643年 田畑永代売の禁。
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1645年 諸国に命じ、山林の濫伐を禁止。
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1648年 江戸市中の橋上での商売・物乞い、無礼の振売りなどを禁止。
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江戸町奉行所への公事訴訟の手続き定める。
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1649年 農民の心得32か条の交付(慶安御触書)。
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1650年 猟師のほか関東中農民の鉄砲所持を禁止。
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1653年 関東郡代伊那忠治を玉川上水開鑿の奉行とする。
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1654年 玉川上水竣工。利根川付替完成
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(幕府、下総栗橋・関宿間の赤堀川通水に成功)。
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1657年 江戸大火(振袖火事・明暦大火)。江戸の道幅拡張。
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1670年 町年寄が玉川上水沿いに(羽村水元から四谷大木戸まで)マツ・スギを植える。
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1717(享保2)年 大岡越前守忠相徳川吉宗より江戸町奉行に登用。1674年まで武蔵野新田開発の指揮をとった。
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1721年 全国に新田開発令。
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1722年 江戸日本橋に高札(新田開発による年貢徴集を図る)。
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1723年 幕府、新田開発奨励のため、代官見立て新田の年貢10分の1をその代官に支給。
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1725年 幕府、代官に武蔵国多摩・高麗両郡の新田開発を命ずる。
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<玉川上水の分水>
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玉川上水は基本的には江戸の飲料水用であった。
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1654年 野火止分水(小川村地先・水口6尺×5尺2寸、総延長6里。野火止村・西堀村経由)
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1657年 砂川分水(砂川村地先・水口7寸四方、総延長1里。砂川村経由)
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1657年 小川村分水飲料水として許可(小川村地先・水口1尺四方、総延長2里。小川村経由)
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1657年 国分寺村分水(小川新田地先・水口1尺5寸×1尺。総延長1里半。国分寺村・貫井村経由)
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(下流の、「1775年 下高井戸村分水」のように、1770年代は各地で分水が工事されたが、多くは武蔵野新田開発後の許可による)
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(歴史学研究会編『日本史年表 増補版』岩波書店、1993年。その他による)
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2.授業計画
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1.玉川上水の概要
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取水地点、水路、長さ約43kmで高低差92m、飲料水確保、工事責任者、工事費用、
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工事期間(7カ月(8カ月ではないか))
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〔課題1〕玉川上水は、誰が、いつ、どこからどこまで作ったのだろうか。
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教材は地図帳、東京都立体地形図、東京都の断面図。
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2.玉川上水ができる前の武蔵野台地
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自然植生、800年前の海岸線の位置、江戸名所図絵(江戸市内名所、国分寺村・ 恋ヶ窪村の様子。1836年刊)
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〔課題2〕玉川上水が作られた時代の武蔵野のようすを見てみよう。
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3.玉川上水ができる前の武蔵野の水事情
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先土器遺跡分布図、野川や谷の段丘上や湧水地付近に生活。井戸堀り技術の水準、 当時の井戸(羽村まいまいず井戸)
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〔課題3〕玉川上水ができる前、武蔵野台地に住んでいた人々は、どのようにして水を手に入れていたのだろうか。
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〔つけたし〕(問い)玉川上水がある、武蔵野台地の地面の下の地質はこのように なっています。水を手に入れるにはどこまで掘れば良いか。
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地下断面図、地層の深さをテープで表す、地質サンプル3(赤土、砂礫、粘土) にそれぞれ水を注いで観察、地層ミニチュアの観察
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校外学習
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玉川上水縁を歩く/小平市ふれあい下水道館の見学
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玉川上水の深さ・幅、縁がローム層・赤土であることの確認、縁の土手の樹木の観察。下水の仕組みを学習、上下水道の今昔比較、武蔵野台地の地質構造の学習。
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4.(玉川上水の工事)ローム層の部分を掘った
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当時の道具、作業時期、工事中のようす(絵)
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〔課題4〕地層のどの部分をどのようにほって水を流していったのだろうか。
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〔つけたし〕赤土の性質
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〔問い〕赤土に水を含ませて粘土状にしたものをペットボトルに入れる。その上から水を注ぐと水はどのようになるか。赤土はどうなるか。
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5.玉川上水の両岸の樹木
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植樹したこと、薪炭材を植えた。雑木林がその名残である。工事想像図、上水の
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配置図(水路)
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〔課題5〕放って置いたら赤土の壁はくずれてしまいます。どのようにしてくずれないようにしたのだろうか。
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6.四ツ谷大木戸と江戸市中の水道
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吐き口(四ツ谷大木戸)、ここからの配水の仕組み(木樋)
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玉川上水の勾配(平均1mあたり2.5)、工事道具(水盛台・水準の図、検地 要具図、自作簡易水準器)、工事(分業)
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〔課題6〕1mで2.5の傾きになるようにほっていった。それはなぜか?
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そのかたむきをどのようにして見つけたか。
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7.当時玉川上水の水は飲めた。上水たる所以
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多摩川と玉川上水の厳しい管理、水質を保つために(駆り出された人々)、御上水堰の絵、お話資料『玉川上水その歴史と役割』
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〔課題7〕玉川上水の水が飲めるのはなぜか。どのようにしたのか。
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3.授業の記録・資料一覧から
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社会科の学習単元として、9月5日から12月一杯までかけた実践のようである。最後の児童の記録では(2006年)12月21日というのがある。
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〔課題7〕の学習では、<たしかになった事>として「…水門でよごれを取って水を飲んでいた事です。またゴミをすてたらばつを与えて…」とある。ここまで読んで、現在の浄水場のしくみを学習させたい、と感じた。
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参考文献は臼井忠雄さんのを入れると20冊ほどで、半分は羽村市教育委員会や羽村市郷土博物館が著したものであり、いわば地元の資料が大半ということになる。村松昭『玉川上水散策絵図』、羽村市教育委員会『玉川上水散歩マップ』というような親しみやすいものから、安藤広重『名所江戸百景』、文献一覧にはなかったがさらに『江戸名所図絵』からの引用など多彩な資料が検討されている。また、貝塚爽平監修『新版 東京都 地学のガイド』があり、貝塚爽平『東京の自然史』からも資料(教材)が採られている。参照資料は結局30冊にも及んでいる。
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こうしてみると、玉川上水をめぐる徳川幕府の政策史、江戸前期からのまちづくりの歴史総論といったものを、鈴木まき子さんから改めて聞いてみたいと感じたところである。これと生物学教育ですすめてきた中学校土壌の学習指導と比較する時間も欲しいな、とも思った。小川郁さんからの実践報告を聴きたい。
なお、堀雅敏さんは「ナミビア・南アフリカの旅」の報告を準備されていたのであるが、割愛させていただいたことを記し、お詫びしたい。