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具体性の詩学ノート2  ―風流、あるいは詩的であることについて



 森鴎外の『渋江抽斎』のなかに、風流韻事のことにひどく五月蠅いらしい喜多村某が、抽斎の友人である芝居の見巧者、二世劇神仙・真志屋五六作とその一党を漫罵して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」等と云ったとある箇所をみる。ここで鴎外は「風流をどんな事と心得てゐたか」と、いささか色をなして糺す。彼は言う。「わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。」

 三世劇神仙の称を五六作から譲られた抽斎のことだから、もとより風流韻事のことについて昧(くら)いところがあろうはずもないけれど、このエピソードは彼がいたずらに高踏的なものに価値を置かなかった事実を物語るのみならず、角兵衛獅子の訪れのごときにある種のエピファニー(顕現)を見ていたといった感じがしてならない。これは私の想像だが、おそらく角兵衛獅子にしてそうであるのなら、季節や節気の巡りの度にイエの門先にやって来たであろう、六部の鉦やぼろんじの尺八の音、また祭文語りの詠唱に、抽斎はまぎれもなく「詩」を体感していたのではないか。

 私の子どもの頃くらいまでは、二十四節気に準じた小さな祭礼がそれぞれの家でおこなわれていた記憶がある。生まれてから小学校の三年まで、川崎の今で言う高津区にいた。たしかタナバタの篠竹はツダヤマまで数キロの道のりを歩いていって採って来、ツキミの薄はタマガワの河原まで行って調達したのが毎年のことで、その仕事は姉と私という、子どもたちがおこなうべき小さな賦役とされていた。正月には私たちの親のような大陸引揚者住宅の住人の戸口にも、土地の獅子舞の獅子はやって来て、大きな予祝の噛みつきの口のなかで、私たち子どもはひとりひとり恐れて泣いた。

 当時のちんどん屋は現代に生き返った漂泊芸と言うべく、新開店の宣伝というよりはその店のコトホギの性格が強かったという意味合いで、唱導芸人や説経語りの部類に入れられると思う。構文論になずらえて話すとするなら、そこでの本地の神は、いわば主文から脱落したと見えるだけで、実は形容詞や述語、また一文の現象面ともいうべき活用性能にあたるところの、きらびやかな衣装や常人とは極端に掛け違ったコトヨウの化粧、音曲や律動をともなう身のこなしといった具体性の細部に、まさに示現していたのである。

 地元には、顔にそれなりの皺は刻まれているのだが、ついに肉体的にも精神的にも「大人」になることのなかった「ミゾノクチのヨッチャン」というclowneryがいて、ちんどん屋が来ると一種の恍惚状態になり、彼らのお株を奪うような身のこなしでどこまでもどこまでも跡をついてゆくのであった。たぶんその光景に見入っていた私などは、振り返って顧みるに抽斎の「詩的」なるものとそう遠いところにいたのではなかったと思う。即ち抽斎と同じく、この何ものかがしきりに生起している現場に立ち会っている私は、一個の「高踏的」なる傍観者ではありえなかったはずである。

 いわゆるアンガージュマンとはちょっと違うと思うが、この、共に何かしらのただなかにいる感じ、引き込まれる感じを詩的と称して差し支えない気がする。これを現代の文芸としての詩にひきよせて考えれば、たとえば批評的なものであれ芸術的なものであれ、どちらが正しいどちらに価値があるとかまびすしく論じる前に、この何かしらのただなかに引き込む、引き込まれる、という側面が存在しなければ、メッセージ的であろうが耽美的であろうが実験的であろうが、そもそもの論の立てようがないのだ。

 この詩的ということは、われわれがこの世界に具体的にいる感じと密接に繋がっているように思う。だいたい、具体性というのはどういうことかというと、なんで氷のうえをスケートの刃が滑ることができるのか、あるいは蛍光灯の発光のメカニズムについて、いずれも科学的・論理的に説明することが不可能である等の意外に奇妙な現実と関連している。精密機械の特殊な部品が、いまだに職人の手業に頼らざるを得ないという例など、興味深いものがある。

 ある数値は、その数値が前提する観点からのみ可能な、現実の切り取りに過ぎない。いわば同義反復であり、ある意味で人間はこういった環境を、みずからの周りに自然破壊的に営々と築いてきたとも言える。だが、計測は現実の翻訳に過ぎず、概念や数値を積分していっても微分していっても、そこに捕らえきれない光のように必ず漏れ出てゆくものがある。あるいは積んでも割っても、概念操作と数値という表象によっては、絶対に現実と同形になることはできない。机上のことでなく、現実の用に充てるたぐいのことは「下駄を履いてみるまで判らない」のである。じつに具体性の現実というのは秘密に満ち充ちていて、しかもその秘密は、すぐ手が届いて触れることが出来るほどにもさりげない傍らに露頭しているものなのだ。おそらく詩的ということはこういったことに関する、気づきと驚きの方角からやってくると思う。誤解のないように書き添えておくが、宗教的なものが即ち詩であると言っているのではない。詩的なものと宗教的なものの根源に相通うものがあると言っているのだ。それらはあらゆる諸芸術と諸学の却って根源をもなしている。

 抽斎は大名行列を観ることを好んだそうである。そして各大名家の鹵簿(ろぼ)(行列の内容)を暗記して忘れなかった。武鑑(大名旗本の名鑑)に着色などもしていた。この嗜好は喜多静廬(せいろ)が祭礼を看ることを喜んだことと頗る似ている、と鴎外は言う。抽斎とそう時代を隔てない富岡鉄斎なども太秦の牛祭り再興に尽力するごとき、抽斎に似たところがあるが、総じてこの頃の人々にとって風流という名の詩は、今のわれわれよりもはるかに身近に在ったようだ。

    07/06/05


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