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ARCH 26

                   駿河昌樹詩葉・2001年3月



如是我思、如是我書、如是我読




ある長さの時間、文人詩人と知り合っていた
六百七十年間ほどだったのじゃないか
誰が記しても文字は大抵白紙の上の線影である。そんな線影が
どうした!と啖呵を切って戦に出て首を沢山切り落とした。
その後は山奥で静かに生きていたようで墓は
名までは明かさないが深山の日当たりのいい斜面にまだ在ってぽかぽか幸福である。

ここまでを書いて現代詩人に見せたら、
ははは、と笑って、これはあんた、詩じゃないよ。
ということは現代、我が文字列は猶も詩の近くに徘徊しておるわけじゃったか。
不才、とはこのこと。
俗人猶愛するは未だ詩と為さず(陸游)、とふと思い出したが
この場合関係ない
現代詩人のははは、が心耳に残った。ははは、には残音感が強い。
はαはαはα、としてみると、ちょっと宇宙的である。
が、
人間の空想する〈宇宙的〉はくだらない。
そんなものでひとを騙くらかすのを詩人って呼ぶんだろ。

詩トハ任意ノ時空ニオイテ空無ニシテ至福ナルコトナリ。
文字列配列ノ芸ノ巧拙ナラズ。
身体霧散化を学んだ時の師と霞酒を飲んでいてこんな結論に達したことがあった。
一時の気まぐれ結論であるが
この場合の、一時は長いながい。
少なく見積もって、数千年はもつじゃろう。
世の戯作詩人たちは齷齪齷齪じゃ。
あほじゃなかろか。
自己顕示、表現邪欲、は生を浪費するばかり。

ここまで書いたら非師が、
オマエニ言ウコトハナイ、オマエハあほジャ、
と矛盾する言ウコトを投げよこしてきた。
欲、淋しさ、自己憐憫を糸とする織物の人界にて
なお文字を配するとはいかにもアホじゃけんど
天界もアホでっしゃろ
空界もアホでっしゃろ
神仏揃って悟りゴッコおやめなせえな
たまには人界さ来て
欲のヌルミ、苦味、淋しさの軽薄な芝居っけ、
自己憐憫の安酒くささ、
とくと味わって
縁日楽しんでいきなせえな

と、
如是我思、如是我書、如是我読







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