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宇治



       
 宇治では、はじめての、
            訪れでもあり、のんびり、散策となった。
 
 
 
 あまり例の、他にもないような平等院の、建物も、塗りの剥落したまゝに、軽やかな初
秋の廃墟、それもよかったが、なにより、そこに至るまでの、駅から辿る道、辿っていく、
辿ってくる道の、ひと昔前の店々の並ぶ様もよく、道の涯て、ついに宇治川に出た時の心
の、清々しさ、わたくしは、川の、今の、わたくしを美しんでいた。ここが浮舟の、また、
薫の、と、川の流れの、思いもしなかった大いさ、強さに、流された、浮舟の怯えの、底
知れなさが胸に来た。この川の、流れの大きさ、強さ、知らぬまま、わたくしは宇治十帖
を読み、しばらくは記憶し、やがて其処此処、物語の曲がり、留まり、人らの関わりや意
味の小部屋のあれこれ、忘却もして、して来て、今、宇治橋に立っている。
 もっと細い、浅い、糸を水に濯ぐような流れかと想像していた。そのような細川に入水
するのも、思えばおかしいが、足も容易に着くような、流れもゆっくりと、仄かな色の彩
に、やわらかな音の鳴るような水の過ぎ行きに浮舟は入って、ようよう浮かびながら、静
かに死んでいこうとしたのか、と思い続けていた。その
                         思いつづけのうちに、わたくしの
若い時間がある。本当の宇治川をいま見ながら、わたくしの若い想像が保ってきた繊細な
音曲さながらの宇治川は壊れず、二重写しになるでもなしに、遠く近くもなく、揺れてい
る。浮舟は細く、ゆるく、繊細な川に流れ、望む死は穏やかな朝焼けの、やわらかな切な
い色に浮く雲々の切れのようなまゝだ。想像も、現実も、美しく、わたくしも、幻のわた
くしの生の、まだ精緻な見つめをし尽くしていない物語の、物の、物たちの語られの、未
整理な池に立って、なるほどその池には、平等院のお池はふさわしくて、池もろとも、大
川に流されていっていた。
            川に流されるのか、それとも川がわたくしに留まるのか。
                                      わた
くしよ、わたくしは今、わたくしを生きているわたくしの、お前さまだった。
 
 
 
 宇治上神社は息も止まらんほどの美しいお社で、心はすぐにも流離し、わたくし、わた
くしの心の戻りを待ちながら、宇治七名水のひとつと云う桐原水の井戸の小社の、薄くら
がりに、片手を浸し浸し、いにしえに触れていた。小さな宿の、質素な木造の湯殿のよう
でもある小社の中は、遠い人々の、水の近々さに清々しく一杯で、見えない肌と人いきれ、
霊の、いきれ、だろうか、それにべったりと篭められて、このように井戸の水に手を浸し
浸ししたいにしえの人々の、それぞれの時間に沁み入られ、入られ、し続けた。
 暮れがた、驟雨となり、小晴れして、また雨がちになる頃、井戸を守る小さなお社を出
ると、魂が前を行く。や、と洩らすと、ようやく間に合って、ようやく辿りついて、ね、
来たね、と魂は言い、わたくしはそれから、もう少し、わたくしだった。
 帰るさ、東屋観音に触れて、やはりいにしえの人の手を倣うように、川風に髪をわずか
直し、宇治橋をまた渡る、渡る。わたくし、渡りの人、と、内の妻が言い、内の夫が、そ
うだ、ここは知った場所、懐かしかったねえ、また次のからだの時代、来るかい、ん?、
と。睦まじく。わたくしはふたりを含めたまゝ、渡る、渡る、そのまま、少し逸れて、橋
姫神社まで。急いで、暗くなってしまうからね、と、
                        誰が誰に言っているのか、わたくし
は祈る手をほどいて、心の祈りのかたち、ひとつ、残して、
 
 
 
                行く、行く、駅までの商店街の、生れから死までの秋
の賑わい、抜けて、お茶を心安めに買うて帰ろ、と、中村藤吉本店に入る。昔風のお店と
いうより、タナ、という構えに、並んだお茶の包み、どうせならいいものをと、並でなく、
ひとつ、ふたつ、上、それ、そう、下さいな、と。
 その間に、もう七十だというおかみさんが、水出しした緑茶を淹れて下さっていました。
水出し緑茶は、話には聞いても初めてで、珍しく戴きましたが、おかみさんから長々、お
茶の淹れ方だの歴史だの、わたくしは特別の講義を戴けました。水出しから始めて、何度
も淹れられる。絞るようにすっかり出したら、蓋は、お行儀悪いようでも開けといてな、
そうして、また、湯呑みに注げる分だけ、お水入れて…。おかみさんの口吻、真似たくて
もわたくし、よう出来ん。片言でも、宇治弁への、憧れ。京都弁とは違うのかしらん。そ
うして、…そうして、何度か水出ししてから、まだ、お湯で何度か出せる、そうな。
 東京へ戻ってから、
          わたくしはある午後、世の中からも、憧れからも、すっかり離れ捨
てられて、水出しのお茶を試してみると、様々の色の彩の広がるような、香りの柱の幾本
でした。それに射貫かれて、宇治川はわたくしをなお流れていた。川の端に咲き乱れてい
た萩の清らな点々の葉々、点々、花の海老紫も、点々、転生、健やかでありますように。
いい人に生れて、すずらかな風のなかを、来世は生きてまいります。
 
 
 
                               いいえ、今から。た
った今から。 
               






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