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都市で食される厖大な鶏の厖大な毛を毟る厖大な労働を思う



そのころ可能性のすべてが未来という領域にあって
外国の田舎を旅してまわっていた
ねぐらを提供してくれたある日の農家の記憶
痩せた若い無害な異邦人のぼくに
農婦は一羽をつぶしてくれた

二〇〇六年の東京の梅雨の日曜日
しとしとと鳴る雨音に目覚め
一羽の毛を毟るのにかけるあれだけの労力と面倒を
突然に思った

そして鶏肉のイメージに思いは移り
そして鶏肉の
きれいにパック詰めされて積まれ
隙間なく並べられた
マーケットの売り場のイメージに移り

あっ、と
声を上げんばかりの衝撃

なんと
なんと
東京でも世界のどこの大都市でも
大量の鶏肉が毎日きれいに毛を毟られてたくさんの店に並んでいる!
鶏の毛を毎日毟るのを生活としている人々が
厖大に存在しているのだ
生き物の命を奪う作業は簡単になっただろうが(そう、鉈で
切り落とされた首から
血を噴き出させながら
走り去ろうとする鶏の胴体を見る必要は
なくなった…)
毛を毟ることまでは機械作業になってはいまい
なったのか、それとも?
すべてがオートメーションなのか
それとも毛毟りは手作業なのか
厖大な鶏の死体から
厖大な毛を毟る気の遠くなるような手作業…

雨の日曜日の始まりから
また
こんなイメージと事の厖大さに心を重くして
体を起き上がらせる
ステレオをつけてモーツァルトでもかけるといいかもしれない
絶滅収容所でむかし
ナチスの将校たちが数百人を殺しているあいだ
中庭で演奏させていたともいう
モーツァルト

そうして
ぼくはまた思う
唐突なようだがいつもの通奏低音である思い
こういう「ぼく」も
長くても数十年で確実に消滅する
おとといも終わり
きのうも終わり
今日だって
もう午前も終わる
ぼくがいない最初の日は
どんなだろう
こんな梅雨の休日の午前のような
人がいてもいなくてもいいような
だれがいても
だれもいないのと同じような
こんなぼんやりと暗く湿った感じになるだろうか

人間は永生でなければ生きるには値しない
本当に絶対の死があるならば
生の一瞬一瞬は無価値でしかない
…こんな当然のことをつぶやきながら
ぼくはようやく身を起こす
生活は巨大なオートメーションの殺戮装置で
ただ あまりにゆっくりなためか
あまりに意識が粗雑なためか
自分が生きてでもいるかのように
生きていっているかのように
ぼくらは信じ込んでいる





「ぽ」116 2006年8月

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