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      駿河 昌樹 文葉 二〇〇三年一〇月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




輪廻について



 輪廻について、説得力のある明快な叙述に成功している心霊書はそう多くはない。荒唐無稽に走るものは別としても、殆どが、過去の宗教聖典に則った抽象的な説明に終始するか、あるいは著者の能力の不確かさを通俗の道徳的輪廻観で補いつつお茶を濁している。心霊家の真贋は案外はっきりと露呈するもので、輪廻についての叙述は、それを知るに適した箇所のひとつといえる。
 大山白道氏の『浄霊の不思議』*を久しぶりに読み返していて、輪廻について実に的確な記述がなされているのに感心した。怨念霊の浄霊経験を重ねるにつれて、因果応報の掟が宇宙には厳として存在し、誰ひとりそれを逸れることはできないとの認識に達したと氏は言い、「人間はその掟に従って輪廻転生を通じて、自分がまいた種はちゃんと自分で刈り取らされている。例えその事に本人が全く気づいていないにしても、従ってこの世で起こる幸、不幸の根本原因は全て自分自身にあり、決して他を怨む事は出来ないという事になる。我々はその事を忘れてしまっているだけなのだ」と断言している。もともと、常軌を逸した事柄を語る書籍の類として扱われがちな心霊書の記述であるから、この程度は当然のことと思われるかもしれないが、多数の浄霊体験の積み重ねの上で、輪廻転生の原理を確信するに行き着いたと語る本は、実際には稀少である。心霊現象に関心を抱いて多くの関連書籍を渉猟する者にとっては、これは貴重な証言なのである。
 怨念霊は、殆どの場合、先祖の犯した非道な行いで死傷させられた相手が、子孫である現存者に祟っているものを云う**。この本に紹介されている例で言えば、中世や近世、正当な理由もなしに武士に切り殺された農民父娘がその武士の子孫に祟り続けるケースや、冷酷な庄屋に酷使された農民集団が怨念集団と化して、やはりその庄屋の子孫に祟るといったケースなどが、怨念霊による霊障の典型的なものである。
 むろん、ここまでなら単なる怪談の域を出ず、輪廻の原理に結びついていくものではない。大山氏の本の特質は、こういったケースの浄霊を試みる過程でわかってくる、複雑な輪廻の結びつきを記述している点にある。
 浄霊家としての大山氏は、怨念霊の憑依を解くに際して、霊としてのあるべき道を説くようなありきたりな方法は採らない。無駄だからである。全くと言っていいほどの不条理かつ非道な殺傷、抑圧を蒙ったからこその怨念である以上、上っ面な霊的道徳を説いてもどうにもならないのだ。そこで大山氏が採るのは、怨念霊に、その霊自身の過去世を見せるという方法である。
 先に挙げた農民父娘の場合は、娘が過去世において大名の奥方、父がその奥方に雇われて大名の側室母子を殺害した浪人であったという。庄屋に酷使されて怨みつつ死んでいった農民集団のほうは、過去世において多くの奴隷を牛馬のごとく使役した酷薄な監督たちであったという。つまり、不条理な非道の殺傷や抑圧を蒙った怨念霊たち自身が、過去世において非道な行為をしてきたわけで、異なった時代と設定のなかで、過去の自分たちが行った所業が、ほぼ同じかたちで自分たちに戻ってきているだけのことだったのだ。
 怨念霊の浄霊はすべてこの方法で解決してきた、と氏は言うのだが、大切なのはこの点にある。霊障のなかでも殊に解消しづらいといわれる怨念霊による霊障が、この方法ですべて解決されうるというのは、これが霊的な真理に基づいているからに他ならない。現世を生きている人間は霊的に盲目であるから如何ようにも騙しうるが、霊を騙すというのは、なかなか容易なことではない。霊は、霊的真理とそこから生じる力によってしか動いてくれないものだからだ。むろん、そうした霊的真理は、現世の人間が真に指針とすべきものとしての真理でもある。
 確かな霊的能力を備えた宗教家たちの殆どは、口をそろえて、世界は今あるままでよいのだと説く。これは、転生輪廻のこのような原理の機能している場として現世を見ているからである。なるほど、いかなる時代いかなる場所にも、不条理な運命、悲惨いっぽうの出来事、非道な行いは後を絶たないように見える。多数を巻き込むような大きな事態でなくとも、個人個人の小さな経験の中でさえ、これといった理由の見出せない不幸や不遇は数え切れない。だが、それらの根本には、現象の種子として、被害者たち自身の過去世の所業ひとつひとつが存在している、と彼らは考えるのである。 現在も絶えることなく続く多くの殺人事件や戦争や災害のあらゆる被害者たちは、ほぼ同じ行為を過去世において行っており、行っている以上、彼らの蒙った被害はまったく避けようがない。輪廻転生の原理を知る者は、当然のこととして、このような認識をする。霊的無知に陥ってしまっている一般人にとっては非情かもしれないが、徹底的な平等性に基づくこの原理が破られてしまうことこそ非情であるのは、少し考えれば容易にわかることだろう。
 行為は必ず同じかたちで戻ってくる。霊としての自己が絶えることがないため、自分の行為が今生で回帰してこない場合は、来世以降に回帰してくることになる。それだからこそ、来世で蒙りかねない不幸を少しでも避けようと望むならば、現在の人生を、最終的でも決定的でもない一時的な境遇にすぎないと認識し、過去世と来世を繋ぐ間として、つねに反省と修正に努めて生きなければならないということになる。確かに、こういうことに思いを至らしてみれば、ある程度年齢を重ねてきた人なら誰もが、自分の今回の人生の諸事のあれこれに、いわく言い難いような合点のいく経験をするのではないか。なぜ今生の自分がこのようであったか、なぜあのようなことに見舞われたのか、不幸や不遇や病についてだけでなく、自分の心がけや努力から生じたとは思えない幸運に恵まれた理由などについても、明瞭に見えはしないまでも、ものによっては、かなり確かな感知のできる気のすることがあるはずである。
 悟りに達したといわれる先達たちの決まって言うことに、世界の現状を気にせず、いかなる変革もしようとするな、という言葉がある。世界よりも、まず、自分にとって満足のいく自己を成就せよ、と彼らは言うのだ。これは利己的な自足への閉塞の促しではない。まず自分自身が、霊性にそぐわぬあらゆる行為を停止すること、普通の人間として、他人から受けたら幸福と感じるような行為を、特定の人に対してではなく、あらゆる人間に対して行い始めること、此処からしか世界は変わり得ないという了解に立っての現実的な方法論なのである。これは二〇世紀ヒューマニズム流の浅薄な平和主義ではない。輪廻転生の原理と展開の実例を現実に霊視してきた末の、きわめて実際的な結論なのだ。
 したがって、霊的に考えれば、あらゆる革命も、いわゆる「平和を守る」ための戦争も放棄されねばならない。いかなる口実のもとに行われようとも、行使された暴力や破壊や殺戮は必ずその行為者たちに回帰していくのだから、革命や正義のための戦争も、結局は数十年後、数百年後の戦乱を準備するだけのことになってしまうのである。
 今の人類のひとりひとりが、すでに、怨念霊のようなものと化してしまっていると認識するべきなのかもしれない。戦乱状態であれ、経済的な混乱状態であれ、自然災害に見舞われているのであれ、すべてが過去世の自分たちの所業の揺り戻しを受けているのであり、根源は自分たち自身の行為にあったのではないかと見直してみる必要が、おそらく、ある。もし本当に幸福を希求するのならば、いま此処で、現状を嘆く心を停止させる他に方法はない。現在の状況は、正確に、過去世の自分の所業からのみ発生してきたものであり、蒔かれた種子が成長して実り、刈取りの時期が来ただけのことだからだ。すべてが今まさにこのようであること、これは輪廻転生の原理が例外なき法則として厳密に顕現しているということであり、まさにこうあるべきであり、まったく正しく、このようにあることそのものが救いでもあるはずなのである。したがって、例えば、聖書の読解においてフローレンス・スコーヴェル・シン***が勧めるように、「主」という言葉を「法則」に置き換えて読むならば、「これ(=人生)はあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。(…)あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主(=法則)があなたたちを救うのを見よ。」(歴代誌下二十・十五〜十七)****、あるいは「主(=法則)に自らをゆだねよ。主(=法則)はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主(=法則)にまかせよ。信頼せよ、(…)、沈黙して主(=法則)に向かい、主(=法則の成就)を待ち焦がれよ。」(詩篇三十七・五〜七)といった言は、輪廻転生の原理を読み込んでの行動指針として、まさに至言ということにもなる。
 心霊的な考察を行う人々にとっては、指と手のひらの関係のように、個人は人類と繋がっているものと見なされており、また、霊のレベルにおいては時間的差異と空間的差異は存在しない、とも考えられている。時間空間は、霊的な進化のために用意された練習舞台のようなものであって、ある意味では、現世での出来事はすべて架空の出来事であって、なにひとつ起こったこともなければ、今後も起こることはない、というのだ。幼稚園で園児たちによって演じられる劇のなかの物語のように、なにひとつ現実ではない。『バガヴァッド・ギータ』などの高度な霊性の書は、こうした見解を説いていると読んでよいだろう。
 こういう考え方に従うならば、人類が延々と殺戮や抑圧を互いに繰り返していってもかまわないということにもなるのかもしれない。確かに、それを喜んで受け入れるようになるくらいなら、霊が現世の状況によって影響されることもなくなるわけで、それはそれで至上の悟りに達したということになろう。とはいえ、私たち霊というものの本性は、よほどの例外を除けば、そうした激越なかたちでの進化には、なかなか耐え続けていけるものではない。霊性の道におけるキリスト出現の理由はここに在ったのだが、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書十一・二十八〜三十)と語り、愛という魂の方法によって、輪廻転生という霊の法則そのものからの超出を説いたキリストの発想原理について考察するには、そもそもの枠組みを、愛という方法のそれへと替えて新たに考え直す必要があるだろう。



*大山白道『浄霊の不思議』(たま出版、一九九六年)
**怨念霊が自分に非道を働いた者の子孫に祟るという事実は、個人を基本単位として人間をとらえる現代の見方からすると、ひどく理屈にあわないようにも思われる。しかし、霊にとっては、仇の血を受けている子孫は、仇そのものと見做されるのが通例であるらしい。受け継いでいる血の一滴さえもが仇であって、最後の一滴まで祟るといった理屈が、怨念霊たちにはある。
***Florence Scovel Shinn : The game of life and how to play it (in The Wisdom of Florence Scovel Shinn, fireside, Simon&Schuster,1989).
****聖書よりの引用は、全て新共同訳1994年版によった。







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