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ARCH 42

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年九月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




わざと曖昧に書かれた文



 ぼくが肉体からはっきり離脱したのは、二十代半ばのとき。
 離脱というと、ちょっと違うかな。
 肉体とそれをとりまく外界の違いの消滅、とでもいったほうがいいかもしれない。
 その時、ぼくは机に向かっていた。左手にはヴェランダがあり、部屋一面のサッシの窓ガラスからは空と雲が見えていた。ふいに、ぼくは、自分が机であり、空であり、雲であるのがわかった。それは、知的な認識ではまったくない。胴体から肩、腕、てのひらと繋がっている感覚が自然なように、すべてが、なんの支障もなく繋がっていた。ぼくは、肉体に閉じ込められている「自分」ではなく、雲でもあり、空でもあった。それ以外の物でもあり、それらのどれかだけなのではなかった。もちろん、肉体であるだけではなかった。突然襲ってきたこの感覚は途方もないもので、自分が知らないものが、もう、なにもないのを知った。自分はすべてを知っていて、それを知的な情報として意識化できないとすれば、それにふさわしい方法を十分に思い出していないからだと強く感じた。なにかを習得するために人間に生まれてきたのだとすれば、そうした課題はこの瞬間に終わった、と知った。あの時から、ぼくの人生は、まるごとながい休暇に入った。
 その頃、ぼくは、この生で唯一、師と呼ぶべき人に再会してもいた。ぼくの住んでいる都市に、師の乗った特別列車が一時的に停車する夢の中でだった。
 ぼくは、長いホームで列車の到着を待ち続けていた。ホームに入ってきた列車はずいぶん長い編成のもので、どの出入口に師が現われるのかと不安になった。ぼくの街に降りて滞在したり、話したりする時間は師にはないと聞かされていたので、列車が止まっている数分間だけが、師に面会できる時間だったからだ。
 運よく、待っていたところから遠くないドアに、師は姿を現わした。自分では歩けず、弟子たち何人かに支えられていた。白い衣で、禿頭、厳しい僧侶のような張り詰めた顔だが、アジア系ともインド系とも見える顔立ちをしている。列車からは下りずに、ドアから体を乗り出して手をのばし、ぼくの頭に触れて、祝福を与えてくれた。ひさしぶりに師を見て、ああ、師だ、お元気そうだ、と思った。しばらく、師を見ながら、立っていた。師はなにも言わず、うなずいたように見える。やがて、発車ベルが鳴り、ドアが閉まった。列車は動き出した。
 夢から覚めたとき、ずいぶんと涙を流していたのに気づいた。いま、師に会ったのだ、夢の中だが、たしかにぼくは師に会った、とぼくは思い、心の昂りは、いつまでも治まらなかった。

   ぼくは今日、どうしてこんな文を書く気になったのだろう?
 どうして今日?ということは、よくわからない。だが、そろそろ始めてもいいのは、確かなのだ。中年を過ぎて、社会生活や日々の実生活についての全般的な常識が染み込まないうちは、心霊家は活動を開始してはいけない、とルドルフ・シュタイナーは忠告している。若い時代のほうが敏感でも、受けとめる現象がなにを意味するか、どのように危険か、どんなレベルのどんな意味合いのものかを知るには、ごく一般的な生き方を続けて中年を過ぎなければいけない。ましてや、むかしよりも遥かに多くの雑音や悪作用の波動で満ちるようになった現代では、多少の衝撃波にびくともしない耐性を感性の中にも霊性の中にも確立できていなければならない。
 ある種の霊性の伝達の役を、そろそろ引き受けなければならない。それは、いかなる意味でも宗教ではなく、オカルティズムでもなく、思想でもない。つまり、権力的なものではない。
 抽象的にいえば、静寂と簡素さの伝達役ということだ。心と、生活との。心霊や地力などとのかかわりを避けることはできないが、心霊現象の呼び込みやパワースポットの探訪などをするのではなく(ぼくの二十代、三十代はそうした心霊修行だけで過ぎた)、むしろ心霊現象を抑え、カスタネダがドン・ファンの教えのひとつとして書いたように、こちらの力を減じるスポットをひとつひとつていねいに避けて、回り道をして進むような、静かな省エネルギー型の生き方の絶えざる探求のようなものになるだろう。

   ぼくはこの文で、霊性の目が開いていない人びとには曖昧に見えるように、わざと書いている。そうでない人びとには、ぼくが示そうとするものは明瞭だろう。
 これまで、なじみのなかった現代日本語に慣れるために、ぼくは文芸のかたちで使用練習を積んできた。そういう日本語をべつの用途に用いるためのポイント切り替え部分のひとつが、この短文なのだ。文にはいろいろな用途がある。多用な効果を生み出すための電気回路のようなものだと認識しておいたほうが、文の詐術に誤魔化されるのも減るし、文の力を爆発させるのにも有効だ。言葉や文は、意味を伝達するためのたんなる記号配列ではない。もっと強力なものだと、そろそろ、そして再び、もっと多くの人びとが気づいてもよいが、そのためには、ぼくが先ほど述べた霊性の確立がなされていなければならない。
 もちろん、文芸のための日本語使用練習も、ぼくはまだ続ける。ぼくがかつて、柿本人麻呂として日本語使用に関わったことは、そろそろ明かしてもよい。あの時以来の日本語表現の変遷を辿る楽しみと義務が、ぼくにはあったし、あり続けている。
 宮澤賢治さんが、ちょうどオウム事件の頃、いちどぼくの部屋にやってきて、夜のあいだ、しばらくソファに座り続けていたこともある。そうしながら、ぼくらはなにも話さなかった。彼がなにを言いたかったか、わからない。なんで現われたかもわからない。だが、賢治さんに訪われた者は、賢治さんを突き動かしたあの勢いを、たぶん、生涯持ち続けて書く。文芸において「書く」とは、なにかを書くということではない。自分に流れ込み、交じりあう日本語の今を書くということだ。書けばよい。書きさえすれば、日本語がなにごとかを語り、歌ってくれるのだ。日本の文芸とは、主体が「自分」などにはなく、どこまでも日本語にあるのを、素直に認める実践の場なのである。

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