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ARCH 93

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇九年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ベストセラーときもの(2) 高橋治『風の盆恋歌』




「では、なぜ別れなかったの。なぜ着物のために畳を拭くのが愛だと思う女を探さなかったの」
 越中は八尾、Tおわら風の盆Uをいちやくブームにしたのが、高橋治の小説『風の盆恋歌』だったが、きもの好きの読者たちには、むしろ、ヒロインのこの発言あたりこそが気になるところだろう。

五十になる主人公の都築は、大新聞社の外報部長。長身、無口、やさしくて、笑うとすてきな皺が眼尻に寄る。パリ駐在も長く、はじめて八尾に現われる時も「ひと目で外国ものと知れるボストンバックを提げ」、「紺の縞模様のネクタイをしめ、淡いチャコール・グレイの背広の上衣を腕にかけて」という出で立ち。欧風の身だしなみがビシッと染み込んだ紳士で、いま演じさせるならどの男優がいいだろう、あの人かこの人か…と、ひとしきり、楽しい人選に時を費やしかねない。
 ところがこの主人公、古い型の人間だと自認していて、大のきもの好き。敏腕弁護士の妻とのあいだに子もなく、経済的にも申し分ない生活から、「人がほしがる大抵のものは持っている」という。なんてステキなお方かしらと、きもの好きの女性がたは思うかもしれない。しかし、ご用心。この御人、「でも、家の中では着たことがない」とおっしゃるのだ。
 家でもゆったりときもの暮らし、などといえば味わい深いようでも、それもまぁ、しっかりと掃除を行き届かせていれば、の話。畳もこまめに拭き掃除しておかないと、やけに値の張るモップをつけて歩きまわるのに等しい。「二日も着れば洗い張りに出さなきゃならないほど汚れる」と、われらが光の君、都築は嘆く。

大学時代から馴染みだった妻の志津江は、さっぱりした性格なうえ、陽気なもののほうが好きなたちで「影になった部分が少い女」、しかも外では敏腕弁護士と、けっこうイケてるはずなのだが、どうやらこのあたりに難アリか。妻が掃除好きでないぐらいのことは…となだめようにも、「あいつは亭主の着物を汚さないために畳を拭いて廻るなんてことは、女の屈辱だと思ってるのさ」と、不倫相手の、やはり大学時代からの馴染みののり子に吐露する始末。妻のことをそう言うか?、言ってしまうか?、不倫相手に?
ちょっと男を下げるかとも思ってしまうのだが、じつはここに、『風の盆恋歌』のいいところがある。ロマンスグレーに近づいていく年代のステキな紳士のお株を、しっかりと、どこかで下げておく。だって人間だもの、と相田みつをあたりの声が聞こえてきそうだが、さほど波風も立っていないはずの幸せな家庭を持ちながら、ちっちゃなちっちゃな不満を長年にわたって貯め込んで、けっこうわがまま勝手なロマンをこしらえ、ちゃっかり不倫の口実にまでしてしまう男なるものを、ちゃあんと捉えておりますね、作者は。哀切と夢幻、洗練と熱気にくわえ、不思議な静寂までが混在するTおわら風の盆Uの臨場感を味わわせながら、世の女性たちにむけて、男なるものについてのこんな極秘情報まで漏洩してしまうなんて、高橋治は男の敵なのかもしれない。もちろん、都築のこんな情けないところを読んで、くすぐられるように苦笑するのでなければ、男の側も度量に欠ける。ひとのふり見て我がふり笑え。こうありたいものですね、お互い。我がふりを直すか、直さないかは、また、べつの話。

八尾に都築が借りた家にはじめて現われる時から、えり子は「やや黄ばんだ地に朱とも茶ともつかない井桁模様の琉球絣」と、なかなか渋い路線で攻めてくる。他の場面では「薩摩だという極薄の木綿の絣」に「素足に黒塗りの下駄」であったり、また、「藍一色の地に、極細の白い縞と縞の間隔だけで味わいを出す糸目絣」に「錆朱のつづれの帯」であったり。心得のない男には、微妙な美意識を測られかねないあたり、なかなかのプレッシャーにもなる装いだが、これを自然に受けとめ、たじろがないのは、やはり、都築の粋なところ。男にもやさしく、しっかりと自分の主人公を支えてやる作者の心の篤さがある。

白山のすぐ下の白峰村へ、牛首紬を一反、えり子の死装束のために織って貰いに行くところは、きもの好きにとっては圧巻だろう。二匹の蚕が作る玉繭を使って、手でよりをかけ、「天然のカールが出る」のを生かして独特の風合いの紬に仕立てていくという牛首紬が、読者の心の底にも、この小説の最後の肌ざわりを織りなしていく。「有名だったんですよ、着物の玄人の間では」という牛首紬を、夢まぼろしの風情さえある、清冽な印象の不倫愛の物語の大団円に持ってくるあたり、きものを愛してやまぬ作者の面目躍如たるところだ。




◆この文章は、「ベストセラーときもの・高橋治作『風の盆恋歌』」として、「美しいキモノ」二〇〇九年夏号にも掲載された。


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