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戦後詩とか 3



(承前のような^^)さらに通時的なものを掘り起こすのには、仮に「戦後文学」という概念はウソというテーゼを提出してもかまわない。文学史が証拠のように表だった文学の成果を引用して、重畳するその下の具合をはからないというのは、いくらか「法」に似ている。証拠主義である。
 文芸における柳田國男の『明治大正史 世相篇』があるのはあたりまえで、世相というものにはいろんなものが「動員」される痕跡があるものだ。こういうことも詮ないことだということもよくわかっているつもりだが、文化というのはどこかで「分離融合」するものだ。それは戦時・戦後が免れるはずもない。
 「分離・融合」しなければ、波は起きないし、文化は常に波だ(と大きなことを言ってみる)。戦後の分離は、世相における「動員」の方向転換でそれが、「戦争」から「経済成長」へのベクトルをもっていて、イメージを遣うことの「動員」もそれに追随している、とマクロ的なことを言ってみるが、たしかに、現代詩というのは分離されて分離されて頭蓋に残る皮一枚みたいなものの側面がある、と現象面ではいえるかもしれないと言ったら「馬鹿野郎」と言われるかもしれないが、なにも不可逆的反応の分離だと初めに言ったわけではない。常に文化の現象は可逆的なもので、どこからどう戻ってくるのか、あるいはすでに耳の後ろの頭蓋に、変な皮が一枚張り付いてきて、そこから一本神経が分離していったもののほうに繋がっているというようなこともいえると思うのだ。
 戦後、実存とかなんとか言った。でも、よく自分の一日を見てみれば、朝起きて嫌なことやいいことを考えて、で、ふと丸山薫の詩に似たイメージが湧いたとすると、それは文化と自分の時間との両方に神経が繋がっていることになるのですよ。ただし、強い冷房がタイマーで始まって外は暑いのに涼しい朝だけどね。比喩的にいえばそんな繋がり方で、「相当ハードだぜ」っていうことになる。
 じゃあ、証拠となる図書館にあるような戦後文学を丹念に読むとき、どんな感じで読めばいいの? ってことだけど、「平安時代、歌は政治だった」ってウチの子が言ってた。でも相聞歌はどんなふうに政治だったの? ということだけど、女系相続があって所領があって、いまでいえば、核家族の遺産相続に関係あるんじゃない、それが政治に関係あるんじゃない、なんて生臭いこと、考えたくもないことが連想されてきたりするわけだ。
 戦後文学はそういうわけで、なにか拮抗するもの、イメージのエネルギーを集める必然性があって、それが戦後文学の証拠を作ってる、って考えてもいいように思う。
 だいたい文学の行方なんかは「運動」だって(以下次回)



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