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戦後詩とか 2



(承前のような^^)なにか、こう破天荒な詩人はその辺にいないかな、と考えてみたりするのである。
「荒地」の詩人が詩に批評意識を持ち込んだ(《少数の読者がこの無償なモノローグめいた時間との対話のなかにあるたつたひとつの客観的な意味――つまり詩のなかに導入された批評または批評のなかに導入された詩――を感知してくれるならば、ぼくは小さな光栄をこの作品に賦与し得たことになるだらう。》「少数の読者のための註」吉本隆明『固有時との対話』より)というとき、このキレを内部分析しないととてもやってられないよ、という戦後が来る。これは一般的に詩の歴史に刻印されたなにものかだ。
 鮎川信夫は、もともとはとても他人や社会の言葉を信じるタイプの誠実な言語感覚をもっていた人だと思うし、キレてからも、それはそれで十分わかる。
 とにかく言葉はそのままじゃないよ、いろんなことに騙されるよ、だから、言葉を使うコミュニケーションでの関係は立体的にみようよ、というようなひねくれたなかにも、でもそのなかで言葉の美を追求しようじゃないか、というふうに意識は変わった。これは個人史にはあるかもしれないけれど、まともにこのことが、書くことの歴史にぶつかってきた。であるなら、それは建前と本音がわかるみたいな、日本人の心理学みたいじゃないか、というふうに言う人がいるかもしれないけれど、「本当にみえて本当じゃない」言葉を疑え、というごく単純な問いがなされた。《アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である》(アドルノ「文化批判と社会」)なんて、アドルノを熟読したわけでもないし、ジャズをどうして貶すのかとか思うし、するけど、なにかこう言葉に対する疑いを主題にしなけりゃ切実でないよ、ということになるのはよくわかる。

 途上

 そのとき
 ふと歩みを止め
 世界の明るさに耐えた。
 アラブの町の
 吊られたユダヤ人のように
 地球の重みを首にかけて、
 死にたくなった。
 どうしてかわからない。
 大事故の記憶がよみがえってきた。
 三十年前か
 もっとずっと昔、
 生れる前か
 もとずっと昔の、
 a broken man

 村の思想の種子がこぼれて、
 アスファルトの縁に
 タンポポのように咲いたこともあったか。
 死よりも暗い「病院」で
 見たものを否定して生きてきた
 こめかみの痛みはつづく
 炎天下……
 くるめく十字の
 黄ろいタンポポを黄色にしたものが
 ときに男をさびしくさせる

     (「路上のたましい」改題)

 別に言葉づらを批評しようとして、引用してみたのではない、『鮎川信夫著作集』の第1巻を久しぶりに開けて、目にはいった詩を書きつけてみただけだ。
 でもこの詩は能天気じゃない。実存主義みたいのも疑う姿勢がある。かといって生活的に完結しようとするわけでもない。
 どうだろう、やっぱり現代にもフィットする言葉づかいだよね。
 批評意識というのはその先はどう進んでいくのだろう。立原道造の充実した短期間の詩を読んでいて、何か霞のむこうから聞こえてくるような感じがした。これは、「羅生門」という映画で芥川の「藪の中」の話もすこし入れた感じで、ことのなりゆきを話すのに、一人巫女が登場して声色を使って話すのがある。あの感じなのだ。
 これは死へ足をかけた詩人の言葉であるというようなことを吉本隆明は『吉本隆明歳時記』(廣済堂文庫)で書いていた。立原の年譜からみれば、戦前の「万歳」もやっているし日本浪漫派に近づいていたし、ということになるが、死へ足をかけた人の言葉という意味があくまでその詩の中心なのだと思う。

 空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
 小川の水面に かげをおとす
 水の底には ひとつの魚が
 身をくねらせて 日に光る

 それはあの日の夏のこと!
 いつの日にか もう返らない夢のひととき
 黙つた僕らは 足に藻草をからませて
 ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた

 ……小川のせせらぎは
 けふもあの日とかはらずに
 風にさやさや ささやいてゐる

 あの日のをとめのほほゑみは
 なぜだか 僕は知らないけれど
 しかし かたくつめたく 横顔ばかり

     (「夏花の歌」その1、立原道造『萱草に寄す』より)

 前頭葉の言葉のイメージがそのまま記憶の海馬に直結しているような感じ、これが「死に足をかけている」感じだ。
 とすると、批評には、戦後の詩をソシュールの「共時的」典型と見るだけでなく、古くかかれた詩を時代に呼び戻すために「通時的」掘り起こしを、さらに行うことになっている。

 そこでそれについて与えうる唯一の定義はつぎのようである:言連鎖において先立つものと続くものとをのぞいて、ある概念の能記である・ひびきの一片。
     (ソシュール『一般言語学講義』第2章「言語の具体的実存体」)

 言葉は解体すれば、視覚記号に擬せない、とこの前段に書いてある。
 まるで、読んでいる意味のほかに全然別のものを感じていいのではないか。簡単にいえば直感だが、それは道造の詩に謎がちゃんと入っているということではないかと思う。その謎は生命とあまりに濃密な関係にあるために、言葉では説明できなくて、せめて「死に足をかけている」感じ、というように言うしかない。
 戦争体験は共時的なもの、まさにそうだ。それは第一次戦後派(小説)の作品を読めばわかる。それは海馬に残る記憶のように文章で残っている。
 だから、現在その時点の共時的なものを見るのに、(以下次回)



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