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木嶋孝法著『宮沢賢治論』(思潮社)書評



 近代批評というものは、言葉が言葉に対峙するのであるから、その批評の言葉
への疑い、位相のところへバラエティの力点をもっていったところがある。
 しかしテキストクリティックというものは、いくら意匠を探しても、心理学や
社会学、宗教学を援用しても、書くというその行為自体によって定位される。た
とえていえば、その批評言語によって批評者の「詩」を見るようなものだ。
 木嶋の賢治論の言葉には最初のダッシュにおいてなにかいたいけな趣きがある
が、それが賢治の作品のテキストクリティックにとてもマッチしているように思
える。
 この本によって賢治のテキストが「おもちゃ化」をされる原因をも明示されて
いるように思う。木嶋は「『春と修羅』の序について」の最終連について次のよ
うにいう。

「最後は《第四次延長》というような時空を超えた岩屋の中に身を隠して、この作
品は完璧にその円環を閉じる。だが、作者の意図に逆らって、そこに、すべてを
非実体化しようとした主体の貌が、いやおうなく浮かびあがってくる。(略)こ
れが観念の上ではなく、現実に行われていたら、彼は無言で死んでいたに違いない」

 この本の主題はひとつはここにあるのだが、この部分を押さえない批評は、賢
治の絢爛たるイメージは「おもちゃ」に終わるのだ。引用の主題は「銀河鉄道の
夜」にも当てはまる。この作品が生も死でもない中間のところにある、というこ
とをはっきりと解析できているのである。木嶋が書いているわけではないが、い
わば留保の延長に「銀河鉄道の夜」の華麗なイメージは浮いている。
 木嶋は現在の仏教学を典拠に「菩薩」の定位について「そもそも、自分のため
の覚りという概念自体、一切衆生のための覚りという概念を前提にしなければ成
立しない。在家教徒が、ゴータマの覚りの目的に、自分たちの救われ(衆生済
度)を盛り込んだとき、〈覚り〉という幻想にもまして、一切衆生のための〈覚
り〉という新たな幻想を累加してしまうことになったのである」といっている。
この大乗については、親鸞の思想は置いておく。もちろん、賢治はそこから逸脱
した。「おそらく、賢治は、一切衆生のための覚りを、社会苦も含めて、「何で
も解ること」だと考えていたに違いない、というより術がない」と木嶋はいう。
 木嶋はあたう限り精密に賢治の考えの変遷と作品とをを照らし合わせている。
それはたとえば「如来寿量品」と、進学がやっとかなう時期の心理状態や、「無
声慟哭」詩編の空白時期の考察、東京への出奔、保阪嘉内との交流と訣別、下根
子時代などほとんど異論を挟む余地はない。「摂折御文」が田中智学の『本化摂
折論』の『日蓮上人語遺文』の孫引用であることなど知られつつあったが、木嶋
が改めて照合してそのことを書いていることなど問題にならない。木嶋は「初め
から」緻密に追っていったのであり、もともと仏教についての素養があったにし
ろ、賢治の思想にまともに向き合う困難な場所から見事に解析してみせたのである。
 この賢治論を吟味することによって、明らかに新しい地平に出られるように思
う。その点で、谷川徹三、中村稔、吉本隆明、鶴見俊輔、平尾隆弘、天沢退二郎
らにじゅうぶん匹敵する十年に一度ぐらい現れる優れた宮沢賢治論であることは
間違いない。



*この書評は、「賢治の思想にまともに向き合う困難な場所から見事に解析」
という見出しで、「週刊読書人」2006年3月3日号に掲載されたものです。


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