エッセイ / 村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」を読んで四の五の言ってみる

初の?読書エッセイ。そういや「ダンス」再読してないや。

ダンス・ダンス・ダンス読破。上巻はずいぶんとちまちま読んだが、下巻は一気に読んでしまった。

村上春樹作、ダンス・ダンス・ダンス。デビュー作「風の歌を聞け」からつながる「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の三部作、その正当な続編である。主人公が同じ。登場人物もまあ、同じ人がいる。記憶がつながっている。続編と呼んでまったく差し支えない。そして何より、続くべき理由がある。

上下巻合わせると700ページほどになる。積むとなかなか分厚い。スモークサーモンと薄く切った玉ねぎ、それからホース・ラディッシュ・マスタードをたっぷりはさんだサンドイッチがこれだけ厚ければ、少なくとも今日の昼食の心配はしなくてすむだろう。(ちなみに村上春樹はこういうような言い方が好きだ。好きかどうかはわからないが、少なくともよく使う。ていうかオリジナルの比喩を使いたかったんだが思いつかなかったよ。無念。)

この作品、とくに中頃はとにかく読むのがつらくなる。内容がつまらないとか、中だるみとか、そういった感じではなく、例えばラジオ・ドラマの脚本で、
「どうよ」
「うん…まあ…ぼちぼちだな」
「ぼちぼちねえ」
「んー」
「そっか」
「んー」
「…ふー。…あ」
「ん?」
「雨だ」
みたいなね。読んでらんねえよみたいなね。ぶっちゃけ今の会話って純青っぽいんだけどね。まあええ。
書くまでもない会話が書かれている、というわけではなくて、「本来書かないような会話」が書かれているのだ。会話している当人同士にしか楽しみ(面白み、ではなく)を感じないような会話であったり。主人公のぼんやりとした妄想だったり。どちらもその描写は非常にリアルで、これを描けるというのはすばらしいとは思うんだが、飽きる。どうにも飽きる。そこを耐えるのはなかなか大変だったが(まあ苦痛というほどではなかった)、それだけの価値はあった。

それは耐え抜く価値があったというより、それらのエピソードを通した価値があったというべきだろう。今までの主人公の人生からすると、それは大したことではないのかもしれないし、圧巻というような展開でもない。しかし読み終えた時、思わずため息が漏れた。本を閉じて目を閉じた。体が5回ふるえた。先ほどから詳細はおろか概要も伏せている。よけいな情報を一切持ってほしくないのだ。まっさらのまま読んでほしいと思う。じゃあこんな文章書くなよ。うん、ごもっとも。

ただ、ここのところ村上春樹作品をあまりに続けて、ほとんど毎日読んでいるせいか、とにかく思考が村上作品的になってきている。日記を更新しようにも、どうにも村上作品調に書いてしまった挙げ句、意義が感じられず更新をあきらめたりする。「下らない冗談」を日常でふつうにしゃべってしまったりする。やばい。かなりやばい。文章的な影響を受けた作家というのは今までにも二人いたが(一人は宮部みゆき。もう一人は聞かないでください)、生活レベルまで影響したのは初めてだ。まずいよね。だってこのシリーズの主人公、社会になじめない人なんですもの。(あちゃー)


ところで、この一連の作品を読み終えたことで、僕はずいぶん村上春樹フリークになったと思う。もちろん他の色々な作品もずいぶん読んだし、そろそろ偉そうに村上春樹を語ってもいいんじゃないかね。ねえ友人、どうかね。

「ん?ねじまき鳥読んだっけ?」

はいまだまだでしたよというお話。つうか俺、本棚のどこにも「風の歌を聞け」が見つからなくて、今回泣く泣く「1973年のピンボール」から読んだもんですから、見つかったら「風の歌〜」からまた全部通して読みかえさなきゃ。総ページ数、2000ページくらい?(くらくら)

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