気がつくとそばの椅子に子どものきつねが座っていた。
きつねは「目が覚めたの?」とばかりに少しだけ首をかしげた。僕はふわふわのベッドの中にいて部屋の中はひどく暖かだった。暖炉の炭のはじける音が聞こえる。やんわりとした明るさの中部屋からけぶるようなヒノキの匂いが鼻をくすぐった。
もう一度眠りたいのをこらえてきつねに「頭が痛い」とだけ言った。
本当に頭の後ろのほうに何かで殴られたような鈍い痛みがあったのだ。
きつねはイスからするりと降りるとキッチンの方に消えた。僕は少しだけ鼻先を枕に押し付けた。心地よい匂いがする。
気がつくときつねの子がしろいお椀を手に持って立っていた。
「あめ湯なんだ。さめない内に飲んで。」
僕は体を少しだけ起こしてそれを受け取った。金色の蜂蜜のようなあめ湯を銀のスプーンですくって飲む。こめかみが、じんとするのを感じた。
「甘い。」
キンモクセイのような香りがするあめ湯はびっくりするぐらい甘かった。
そしてそれは初めてチョコレートを口にした子どものように、心に染みる甘さだった。
「うん。それを飲めばきっとすぐに元気になるよ。」
きつねの子はどんぐりのような瞳でにっこり笑ってそう言った。
「そうか、ありがとう。すごくおいしいよ。」
僕がそう言うと、きつねの子はひどく満足した様子だった。
「ところで・・・」と、僕は言葉を選びながら言った。「僕はどうしてここにご厄介になってるのだっけ?」
「ゴヤッカイってなあに?」
きつねの子は僕を覗き込むように見ながら聞いた。
「ええと、どうして僕はここにいるのかなあ?」
全く、不可解なことにそれが全然思い出せなかった。
すっぽりと僕の頭をくもの巣が覆っていた。
「そんなこと、僕が聞きたいよ。どうしてヤクモはここに来たの?」
「ヤクモ?それがぼくの名前なの?」
それすら思い出せなかった。
「あのね、昨日ヤクモは僕んちの前の林の中で倒れていたんだよ。雪も降っていたし、僕が薪を拾いに行かなかったらヤクモ今ごろシャーベットになってたんだから。」
「君はなんていうの?」
「僕?僕はトマっていうんだ。」
「そっか。トマ、ありがとう。助かったよ。」
僕は本当に狐につままれたような気分でそう言った。朝起きて、あまりに夢がリアル過ぎて現実に戻って来れない時のように、僕は自分が何者なのかひとしきり考えをめぐらした。
しかし、思い出そうとすると後頭部が痛み、激しい眠気が襲ってくるのだった。
*
「ねえ、ヤクモ。僕ね、ずっとここにひとりぼっちで暮らしてるんだ。」
突然トマが悲しそうな声で僕に話しかけたので、僕ははっとしてスプーンを落としてしまった。かちゃんと空になったお椀が小さく鳴った。僕は慌てて今の現実に考えをシフトした。
「ひとりぼっち・・・って、トマはそんなに小さいのに。お母さんはどうしたんだい?」
「ママとパパは僕が小さい時に僕をおいてどこかに行っちゃったの。」
一瞬目を伏せて悲しそうに笑ってトマはそう言った。
「・・・そっか。じゃあトマはこのおうちでずっと一人で暮らしてきたんだね。」
「そうだよ。このあたりは冬が長くてなかなか春がやってこない。春が来ても友達なんて一人もいないし話し相手になってくれるものもいない。だからずっと笛を吹いたり、本を読んだり、地図の整理をして暮らしているんだ。」
「地図の整理?」
僕は聞き返した。
「うん、僕のおうちは地図屋なんだ。ここには道に迷った人たちがやってきて、地図を買い求めて行くんだよ。」
地図屋なんて聞いたことがない。大体こんな雪ばかりの土地で地図なんて必要なのだろうか。
「たまにその地図の為に僕を訪ねてやってくる動物たちがいるんだ。でもみんなすぐにどこか別の場所へいってしまう。僕はいつもここでその動物達を待っていなくちゃいけないの」
僕ももしかしたらその地図を買いに来たのだろうか?そうだったのかもしれない。今となってはなんとも言えないが。
「ヤクモもやっぱり地図が欲しくて僕のところに来たの?」
トマは僕と同じ事を考えたようだった。
「う・・・ん。そうなのかな。」
「ヤクモ、どこかに行かないで。僕、ひとりぼっちで本当に寂しかったんだ。」
小さなしっぽを震わせて、きつねの子はしくしくと泣き出した。
僕は困ってしまった。多分僕は何かの目的があってこの地図屋にやってきたのだろう。だけど、何か理不尽な理由で記憶を失ってしまった。僕はあやうく死にそうなところをきつねの子どもに救われる。トマは僕を必要としている。そして困ったことに僕はこのトマの家がとても居心地のよいものに思えた。
トマのしゃべり方はどことなく懐かしく、ずっと話していたい気にもさせた。
「じゃあ、ここにいようかな。」
*
・・・と、そう声に出しかけた時だった。突然のことだった。静かにそのメロディーは流れ出し、瞬く間に部屋を包み込んだ。僕はびっくりしてあたりを見回した。トマはもっと驚いた様子で椅子から転げ落ちてしまった。
そしてよく見るとトマは全然涙で濡れてなどおらず、大きな目を白黒させていた。
「誰か・・・いるのかい?」
僕は代わりにそう尋ねてみた。するとトマは首を大きく振って、
「ううん。僕はここでひとりぼっちで住んでいるの。ママとパパは僕が小さい時にどこかへ行っちゃったんだよ。」
とさっきと同じ事を繰り返した。音楽は鳴りやまない。
この曲は・・・「アメージング・グレース」。なんにも思い出せない筈だったのにその曲名が僕の頭の中にふわりと浮かんだ。そして、なんだか無性に胸の奥をひっかくものがあった。
もしかしたら早く帰らなければならない場所があるのかもしれない。
僕はトマの方に向き直ると言った。
「ごめん、トマ。僕も実は地図を探しにきたんだ。」
トマは慌てて何か言おうとしたが、やがて下を向いてぺろりと舌をだした。
「ごめんね、嘘泣きしちゃって。」
「ううん。いいよ、君が助けてくれたのは本当なんだろう?」
「うん。でもね、お父さんとお母さんは今は地図を探しに行っていて僕一人でお留守番なんだ。だから寂しいのも本当だし、ヤクモがここにいたいのならずっといていいんだよ。
ねえ、ここにいればヤクモはずっと安全だし、誰もヤクモをかき乱したりしないよ。」
僕は首を振った。
「いや、確かにここはすごく居心地がいいし、もっとトマとも話をしてみたいけど、なんだか長くいちゃいけない気がするんだ。」
トマは小さく何度かうなずくと、ついてきて、と僕を連れて地下に通じる階段に案内してくれた。
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