2サイト合同クリスマス企画 地図にない道

ヤクモ−第一回 (Rino)
ヤクモ−第二回 (Rino)
ヤクモ−第三回 (Rino)
ヤクモ−第四回 (Rino)

アカリ−第一回 (PAT)
アカリ−第二回 (PAT)
アカリ−第三回 (PAT)


12月18日 ヤクモ−第一回 (Rino)


 気がつくとそばの椅子に子どものきつねが座っていた。
 きつねは「目が覚めたの?」とばかりに少しだけ首をかしげた。僕はふわふわのベッドの中にいて部屋の中はひどく暖かだった。暖炉の炭のはじける音が聞こえる。やんわりとした明るさの中部屋からけぶるようなヒノキの匂いが鼻をくすぐった。
 もう一度眠りたいのをこらえてきつねに「頭が痛い」とだけ言った。
 本当に頭の後ろのほうに何かで殴られたような鈍い痛みがあったのだ。
 きつねはイスからするりと降りるとキッチンの方に消えた。僕は少しだけ鼻先を枕に押し付けた。心地よい匂いがする。
 気がつくときつねの子がしろいお椀を手に持って立っていた。

「あめ湯なんだ。さめない内に飲んで。」

 僕は体を少しだけ起こしてそれを受け取った。金色の蜂蜜のようなあめ湯を銀のスプーンですくって飲む。こめかみが、じんとするのを感じた。

「甘い。」

 キンモクセイのような香りがするあめ湯はびっくりするぐらい甘かった。
 そしてそれは初めてチョコレートを口にした子どものように、心に染みる甘さだった。

「うん。それを飲めばきっとすぐに元気になるよ。」

 きつねの子はどんぐりのような瞳でにっこり笑ってそう言った。

「そうか、ありがとう。すごくおいしいよ。」

 僕がそう言うと、きつねの子はひどく満足した様子だった。
 「ところで・・・」と、僕は言葉を選びながら言った。「僕はどうしてここにご厄介になってるのだっけ?」

「ゴヤッカイってなあに?」

 きつねの子は僕を覗き込むように見ながら聞いた。

「ええと、どうして僕はここにいるのかなあ?」

 全く、不可解なことにそれが全然思い出せなかった。
 すっぽりと僕の頭をくもの巣が覆っていた。

「そんなこと、僕が聞きたいよ。どうしてヤクモはここに来たの?」
「ヤクモ?それがぼくの名前なの?」

 それすら思い出せなかった。

「あのね、昨日ヤクモは僕んちの前の林の中で倒れていたんだよ。雪も降っていたし、僕が薪を拾いに行かなかったらヤクモ今ごろシャーベットになってたんだから。」
「君はなんていうの?」
「僕?僕はトマっていうんだ。」
「そっか。トマ、ありがとう。助かったよ。」

 僕は本当に狐につままれたような気分でそう言った。朝起きて、あまりに夢がリアル過ぎて現実に戻って来れない時のように、僕は自分が何者なのかひとしきり考えをめぐらした。
 しかし、思い出そうとすると後頭部が痛み、激しい眠気が襲ってくるのだった。

  *

「ねえ、ヤクモ。僕ね、ずっとここにひとりぼっちで暮らしてるんだ。」

 突然トマが悲しそうな声で僕に話しかけたので、僕ははっとしてスプーンを落としてしまった。かちゃんと空になったお椀が小さく鳴った。僕は慌てて今の現実に考えをシフトした。

「ひとりぼっち・・・って、トマはそんなに小さいのに。お母さんはどうしたんだい?」
「ママとパパは僕が小さい時に僕をおいてどこかに行っちゃったの。」

 一瞬目を伏せて悲しそうに笑ってトマはそう言った。

「・・・そっか。じゃあトマはこのおうちでずっと一人で暮らしてきたんだね。」
「そうだよ。このあたりは冬が長くてなかなか春がやってこない。春が来ても友達なんて一人もいないし話し相手になってくれるものもいない。だからずっと笛を吹いたり、本を読んだり、地図の整理をして暮らしているんだ。」
「地図の整理?」

 僕は聞き返した。

「うん、僕のおうちは地図屋なんだ。ここには道に迷った人たちがやってきて、地図を買い求めて行くんだよ。」

 地図屋なんて聞いたことがない。大体こんな雪ばかりの土地で地図なんて必要なのだろうか。

「たまにその地図の為に僕を訪ねてやってくる動物たちがいるんだ。でもみんなすぐにどこか別の場所へいってしまう。僕はいつもここでその動物達を待っていなくちゃいけないの」

 僕ももしかしたらその地図を買いに来たのだろうか?そうだったのかもしれない。今となってはなんとも言えないが。

「ヤクモもやっぱり地図が欲しくて僕のところに来たの?」

 トマは僕と同じ事を考えたようだった。

「う・・・ん。そうなのかな。」
「ヤクモ、どこかに行かないで。僕、ひとりぼっちで本当に寂しかったんだ。」

 小さなしっぽを震わせて、きつねの子はしくしくと泣き出した。
 僕は困ってしまった。多分僕は何かの目的があってこの地図屋にやってきたのだろう。だけど、何か理不尽な理由で記憶を失ってしまった。僕はあやうく死にそうなところをきつねの子どもに救われる。トマは僕を必要としている。そして困ったことに僕はこのトマの家がとても居心地のよいものに思えた。
 トマのしゃべり方はどことなく懐かしく、ずっと話していたい気にもさせた。

「じゃあ、ここにいようかな。」

  *

 ・・・と、そう声に出しかけた時だった。突然のことだった。静かにそのメロディーは流れ出し、瞬く間に部屋を包み込んだ。僕はびっくりしてあたりを見回した。トマはもっと驚いた様子で椅子から転げ落ちてしまった。
 そしてよく見るとトマは全然涙で濡れてなどおらず、大きな目を白黒させていた。

「誰か・・・いるのかい?」

 僕は代わりにそう尋ねてみた。するとトマは首を大きく振って、

「ううん。僕はここでひとりぼっちで住んでいるの。ママとパパは僕が小さい時にどこかへ行っちゃったんだよ。」

 とさっきと同じ事を繰り返した。音楽は鳴りやまない。
 この曲は・・・「アメージング・グレース」。なんにも思い出せない筈だったのにその曲名が僕の頭の中にふわりと浮かんだ。そして、なんだか無性に胸の奥をひっかくものがあった。
 もしかしたら早く帰らなければならない場所があるのかもしれない。
 僕はトマの方に向き直ると言った。

「ごめん、トマ。僕も実は地図を探しにきたんだ。」

 トマは慌てて何か言おうとしたが、やがて下を向いてぺろりと舌をだした。

「ごめんね、嘘泣きしちゃって。」
「ううん。いいよ、君が助けてくれたのは本当なんだろう?」
「うん。でもね、お父さんとお母さんは今は地図を探しに行っていて僕一人でお留守番なんだ。だから寂しいのも本当だし、ヤクモがここにいたいのならずっといていいんだよ。
ねえ、ここにいればヤクモはずっと安全だし、誰もヤクモをかき乱したりしないよ。」

 僕は首を振った。

「いや、確かにここはすごく居心地がいいし、もっとトマとも話をしてみたいけど、なんだか長くいちゃいけない気がするんだ。」

 トマは小さく何度かうなずくと、ついてきて、と僕を連れて地下に通じる階段に案内してくれた。


12月19日 アカリ−第一回 (PAT)


 立ち寄ったパン屋で小銭が足りなくて、私は軽く舌打ちをした。昨日から、なんともツイてない。

 冬の寒さは嫌いじゃないが、朝の布団にかなうわけがない。電車の時刻ギリギリまでまどろんで、それから朝の街を全力疾走。ゆっくり化粧をする時間もないし、かといって電車の中で化粧をするほど無神経でもない。会社のトイレで、そもそも化粧道具を忘れてきたことに気付く。結局、昨日は一日メイクのことばかりに気をとられてしまった。書類の不備、担当者の聞き違え、初歩的なミスの相次ぐ始末。年末進行なのにそんなんでいいのかと上司は怒る。お前には危機感がなさすぎると。
 だから、私はイライラしていた。危機感がないのは認めるところだが。
 そこに、恋人からの電話。絵本を書く彼は、どうも今書いている作品がうまくいかないらしい。つまり、彼もイライラしていた。
 ああもう、それはそれはどうでもいい理由だったのだ。昨日のことなのに、覚えてさえいない。笑って済ますことのできるようなことだったのに、お互いツイていなかった。売り言葉に買い言葉。

「もう帰りの電車来たから。切るよ」
「なんだよ。もういい、俺はもう寝る!」
「ああそうだね、ずっと寝てな」

なんていうか。小学生だろうか。

  *

 4時も過ぎると日は傾き、街路樹のライトアップが目立ちはじめる。
 あちこちで自己主張を重ねる街を、私はパン屋の紙袋を抱えて通った。フランスパンは視界の半分近くを隠したが、鼻をくすぐる焼きたての香りは私を喜ばせた。
 どうせあいつのことだ。今ごろになってむくむく起きて、おなかでもへらしているだろ。
 突然の訪問に驚きながら、それでも視線はパンに向け、「どうしたの、会社は」と彼は言う。

「実はね、今日はお休み」
「アカリが?」
「わたしがっていうか、会社が」
「この時期に?」
「そう。年末進行なんてどこ吹く風、ね。休み明けが地獄だけど」
「だったら休みになんてしなきゃいいのに」

 そうしてパンをかじる。昨日のことは、まあもういいや。

 そんなことを考えていたら、自然と笑顔が浮かんでいた。ま、昨日は昨日だよね。
 ひとつ大きく深呼吸をした。せわしげな街の香り。焼きたてのパンの香り。リベンジもかねて気合いを入れてつけてきた香水の、キンモクセイの香り。
 さて彼は、パンに夢中で、香水に気付かなかったりするのだろうか。
 ありえるなあ、とひとり苦笑いをしながら、私はイルミネーションの街をくぐり抜けた。

  *

 ところが、彼はまだ眠っていたのだ。そりゃ、何度チャイムを鳴らしても出ないあたりでそうかなとは思っていたが。
 合鍵でそっと入った彼の家はなんともしずかで、ひんやりとしていた。靴を脱いでそっと足を踏み入れると、フローリングの床がしんと冷たかった。
 明かりをつけると、キッチンの向こうで、うつぶせになってベッドに埋もれるように眠っている彼が見えた。
 ほんと、泣き寝入りの格好だ。布団くらいかけなよ風邪引くよ、と思いながら、私は紙袋を机のそばに置いた。

「おーい。ヤクモー」

 反応がない。こんなに目覚めが悪かったっけ、と思いながら肩を揺さぶる。

「起きろー」

 起きる気配はない。はて、もしかして息をしてないなんてことは、と一応疑う。顔をそっと彼の横顔に近づけたが、もちろん息はしているし、血色も良好。おかしいのはいくら呼んでも開かないまぶただけだ。
 どうしたんだろと思いながら、とりあえず布団をかけた。このままじゃなんにしても風邪を引いてしまう。
 ほっとけばそのうち起きるかな、と、とりあえずイスに腰掛けて机に向かった。そばに置いた紙袋から飛び出してるフランスパンを取り出したところで、机の上に置かれた原稿用紙に気がついた。
 昨日の電話をぼんやりと思い出した。確か、絵本が書けないって言ってたっけ。
 手にしたパンを食べながら読もうと思い、包丁を探そうとしたが、それもめんどうだったのでフランスパンをそのままかじった。ふだんは彼がよくやることだ。切って食べなよ、というのは私の役目。表面はがりりと堅く、中はふわりとしていた。やわらかい香りが、くすぐったく鼻をなでる。

「起きないなら全部食べちゃうよ」

 背中ごしに彼に言った。ぱくぱくと食べながら、未完成のその原稿を読む。犬、猫、リス、ネズミ、キツネ。動物たちがたくさん出てくる。が、ある一文で唐突に終わってしまっている。続きが書けなくなったところだ。
 その最後の文章はこうだ。

『ここで楽しい夢を見よう。これからはもう、こわいことはないよ』

 …私はなんだか怖くなった。もしかして、彼はこのままずっと眠りつづけてしまうのではないだろうか。
 まず雰囲気が悪い。寒い部屋、静かな部屋。これはいけない。あわてて机の上のラジカセの電源を入れた。
 ラジオから流れだしたのは、「アメージング・グレース」だった。

  *

 うわ、と思わず声が漏れた。次いで、笑みがこぼれた。ヤクモとはじめて迎えたクリスマスに、私がヤクモにあげたプレゼント。アメージング・グレースのオルゴール。それも、手作りだ。

「手作りなんだ。これ」
「手作り!?へえ、アカリやるなあ」
「12月のすべてを費やしたと言っても過言じゃないよ」
「でも、これだけ有名な曲なら、普通にオルゴール売ってるよな」
「あのねえ!」

 もう何年前の話だったか。あのときの会話が、アメージング・グレースをBGMに、頭に浮かぶ。
 しばらくの間、じっと耳を傾けていたが、それから私はぱっと顔をあげた。

「ヤクモと一緒にアメージング・グレースを聞くんだ」

 声に出して確かめた。なんだか声に出さないと不安だった。イスに座ったままくるりとまわり、ベッドに手を伸ばした。

「ヤクモ、ヤクモ!起きないと、もうごはん作ってあげないよ!」

それがあまりに無理な体勢だったせいで、何度か彼を揺さぶっていると、イスが重力に耐えきれなくなってがたんと倒れてしまった。
 もちろん、私も一緒にだ。
 その振動で、机の上の本がばたばたと倒れた。枕もとにつんであった本も、ヤクモめがけてばたばたと。

「わー!危ないから枕もとに本を置くなって、あれほど!」

 自分の責任はさておき、私は彼の顔に降り注いだ本を一冊一冊取り除いた。絵本の書き方、クリスマス・キャロル、おいしいワインの話、その奥からヤクモ。
 なんとか掘り出して一息ついたところで、壁に貼ってあった世界地図が、とどめとばかりにひらりと彼の顔にかぶさった。
 なんだか思わず吹き出してしまった。地図を顔にかぶせる彼が、なんだかひどくおもしろいものに思えた。けれど放っておくのはかわいそうなので、そっとそれをとった。

「さてヤクモ、君はいったい、どのへんにいるんだい」

 手にした世界地図を見ながら、私はそっとひとりごちた。それから窓の外にふと目をやると、もうすっかり暗くなっていた。ああ、もうこんな時間だ。

「残ったパンは置いていくから。起きたら食べてね」

 眠る彼に声をかけ、イスを起こして、私は家を出て鍵をかけた。きらきらひかる星空を見ながら、私は足早に自分の家を目指した。

 いや、危機感が足りないと、自覚はしているのだけれど。


12月20日 ヤクモ−第二回 (Rino)


 石づくりの階段を一段一段踏み外さないようにそうっと降りる。
 頭は相変わらずもやがかかっていて、身体もなぜだかとても重かった。
 それにしてもとても暗い。少し前のトマが口にくわえたランプが揺れるのを頼りに
 一段一段降りる。ぐるりぐるりと螺旋を描いていた。

 灯りの揺れが止まった。どうやらついたようだ。
 トマがじゃらじゃらと手に持った鍵の束の中から一つ
 取り出して、真っ暗な闇の扉の鍵穴に差し込んだ。
 カチン、と音がして扉が開く。中の柔らかい光が差し込んでくる。
 大分背の低い扉だ。
 僕が頭をかがめて中に入ると、そこはまるで古い歴史のある図書館のようで
 部屋は広く、高い本棚が壁を埋めていた。
 そして正面の壁には見たこともない程の大きな世界地図がかかっていた。

「実際、お客さんが来るのは久しぶりなんだ。」

 トマはランプを机の上に置くと、
 部屋の隅にある石炭ストーブにざらざらと燃料を足して、マッチを擦って火を付けた。
 暖かい空気が流れ出す。

「今はまだ平気だけど、冬の間はこの辺りは雪も深くなってくるし、
なかなかやってくるのは難しくなるんだ。
2週間位前にシロクマの親子が新居を探しに来たくらいかな。」

 トマは古びた机の上にひょいと飛び乗り、

「それでどんな地図が欲しいんだい?」

 とたずねた。
 あっけにとられていた僕ははっと我に返った。

「どんな・・・って。」

 困った。僕には目的地も指標も手がかりも何もないのだ。
 仕方なく、正直にそれを伝える事にした。

「トマ、実は僕は記憶がないんだ。どうやってここに来たのかも
何を探しに来たのかも、そして僕がどこに行きたいのかも、
何もかも分からないんだ。」

 トマは、しばらく黙ってじっとしていたが、やがて
 ふうっと肩をすくめてため息をついた。

「あのねえ・・・!僕は占い師じゃないんだよ?どこに行きたいかなんて
分かるわけないじゃないか。大体、じゃあなんで君は地図を探しに
来た、なんて言ったんだよ。」
「どこか帰る場所があるんだ。僕には。・・・多分。」

 自信がなかった。もしかしたら、僕は天涯孤独の身で全然帰る所も
 待っている者もない放浪者かもしれなかった。旅の途中で航海図を手に入れに
 寄ったのかもしれない。
 トマは困ったように首を振った。

「どこかって・・・そんな曖昧な依頼は初めてだよ。」

 全くだ。魚屋にいってなにかくれって言ってるようなものだ。
 僕は本棚を眺め、この沢山の地図の中に僕の目的地があるのだろうか、
 と、そっと傍にかかっているはしごに触れようとした。その時だった。
 がたんっと音を立て部屋が大きく揺れた。
 僕は声を上げてひっくり返ってしまった。ばさばさと上から何冊か地図帳が落ちた。
 トマが慌てて僕に駆け寄る。「大丈夫?ヤクモ!」
 痛い。また頭を打ってしまった。
 トマが僕の上に積み重なった沢山の地図帳を一つずつどける。すると、「あっ」
 と突然トマが声を上げた。

「占い師・・・そうか。ヤクモ。占い師のところに行けばいいんじゃないかな?」

 僕はゆっくりと起きあがって、トマが左手に持っている一枚の地図を見た。

「占い師、だって?」
「うん、西の森を抜けて山を2つ越えると、イタチが住んでいるんだ。
ちょっと気むずかしくて偏屈なおじさんだけどいい人なんだよ。
そのおじさん、趣味で占いをやってるんだけどそれがすごく当たるんだ。」

 なんの手がかりもないのなら行ってみる価値があるかもしれない。
 僕は、わかった行くよ、とトマから地図を受け取った。
 「ところで」と僕はずっと気になっていた事を口にだした。「ここは『地図屋さん』なんだよね?つまりお金をださなきゃいけないんだろう?」
 トマは落ちてきた地図を一冊一冊元の場所に戻しながら僕に尋ねた。

「お金・・・?お礼ってこと?」
「そうそう。僕は君にはたくさん世話になったし、なにかお礼がしたい。」
「うん、別に助けたことは構わないけど・・・、ただで地図をあげたら
パパに怒られそうだなあ。」

 トマは梯子から降りると耳を掻きながら僕に言った。

「なにがいいかなあ?・・・かといって僕は何も持ってないし。」

 と、ズボンのポケットに手をつっこんだ。
 するとチロルチョコと書いてある四角いチョコレートが出てきた。

「なあに?それ?」

 トマは僕の手をのぞき込んだ。

「うん、どうやらお菓子みたいなんだけど。・・・いる?」

 トマは目を輝かせてうなずいた。

  *

「それじゃあ、もう行かなくちゃ。」

 僕はトマに心からお礼を言った。

「本当に色々よくしてくれてありがとう。食べ物までもらっちゃって。」

 トマは僕にゆうに3日分はある水やらパンやら果物やらを
 持たせてくれた。

「ううん。僕、あんなにおいしいしいお菓子食べたの初めて!
ヤクモ、また来てね。今度はもっとチョコレート持ってきてよ。」

 にっこり笑ってトマは言った。僕もにっこり笑ってうなずいた。
 どうやら満足してくれたらしい。

「外は寒いから気をつけて。絶対に、もうダメだって思っちゃだめだよ。
そう思ったらどんどん目的地は遠くなるんだって。
絶対に着くって信じれば絶対着けるんだって。」

 大まじめにそう言うとトマは家の扉を開けた。冷たい風がひゅうと吹き込んでくる。
 雪は少しだけ積もっていたが、今は降っておらず空はきらきらと
 晴れていた。僕はトマと握手をして別れた。



 林の奥から振り返ると小さなきつねが小さく手を振るのが見えて
 なんだか泣きそうになってしまった。そして地図を手に僕はゆっくりと
 歩き出した。


12月21日 アカリ−第二回 (PAT)


 その朝。
 ベルの音が部屋の隅までとどく前に、私は叩くようにして目覚まし時計を止め、布団を投げ捨てて勢いよく目を覚ました。
 時刻は6時。雨戸を開けると外はまだ薄暗い。夜のうちに降った雨の香りがほのかにやってくる。それからキンと研ぎ澄まされた空気が肌をさす。
 窓を閉めて、昨日のうちに用意しておいた大きめのカバンを横目に確認してから、私は洗面台に足を運ばせた。

 ドアの鍵を閉めたのは7時。ふだんより1時間は早かった。
 そうして向かった先はもちろん会社、ではなく。

「起きてますかー」

 相変わらずベッドに寝たままのヤクモに、私は声をかけた。枕元には世界地図。机のそばにはパン屋の紙袋。何も変わらないままだ。

「起きてる?起きてない?まあそのままで聞いてね」

 スーツにはあまりにも不似合いな、大きめのリュックサックをようやくおろして、ためいきひとつふうとついた。

「これから会社が年末進行、いっぱいいっぱいの生活になるんだ。眠ったまんまのヤクモを毎日見に来れる時間もないかもしれない」

 紙袋から、痛んでないのを確認して、まるいパンをひとつ取り出した。中にたくさんくるみの入った、私のお気に入り。

「だから、今日からヤクモの家に泊まり込もうと思うんで。よろしくね。拒否権なしね。あ、くるみパン食べるよ」

 一方的に告げるだけ告げて、私はキッチンで熱いコーヒーを入れた。ヤクモの家はいいコーヒー豆が揃ってる。猫舌なのをがまんしてそっとすする。なんていうか、コクと苦みと酸味がほどよく調和した、さわやかな味がした。
 気がする。引用元は、ヤクモのいつものうんちく。
 湯気に包まれながら、私は自宅にいたときではとうてい味わえなかった贅沢感を存分に堪能していた。うん、朝からいい感じ。

  *

 とはいかなかった。慣れない食器を洗っているうち、時計は気づけば発車時刻を告げていた。大慌てでヤクモの家を出て、鍵をかけ忘れていたことに気づいて、慌てて戻って鍵をかけて、駅まで急いで、足を滑らせて、電車が動き出すのをうらめしく見送った。次の電車の中で、もっと速く走れ、さっきの電車追い抜け、と無茶なことを念じながら、駅に到着するやいなや猛ダッシュ。勢いよくオフィスのドアを開けた。
 時間はギリギリ間に合った。けれど、フロアの人たちの視線が。
 赤面しながらタイムカードを切って自分の席へ。となりから、苦笑しながら声をかけられた。

「アカリちゃん、どうしたの」
「あーもう、余裕もって家を出たかったのに!」
「昨日の休み気分が残っちゃうよね」

 そんなんじゃないのになあ、と少し唇をとがらせて同僚を見た。

「ところでこれ。昨日の休みのツケがさっそくきてるよ」
「はっ?」

 私との机の境に置かれた書類の束。何事もないかのように指さす同僚を、思わずまじまじと見てしまった。

「ツケって言ったって、休んだのは別に私だけじゃ」
「だから、こっちにだってきてるんだよ」

 自分の机に広げている分厚いA4のファイルをあごで指しながら、あきらめ顔に同僚は言う。何かの資料かと思ったら。

「私のほうがまだマシか」
「これだけで済むならね」
「不穏なこと言わないでよ!」

 泣き言を言いながらも、私たちはおもむろに机に向かった。
 二人とも新入社員じゃない。こんなもので済むとは、無論思っていない。

  *

 給湯室で思い切り大きいためいきをついてやった。

「ちょっとアカリちゃん。聞こえるよ」
「聞こえるようにやってるんだから」

 不快感を隠す気はさらさらなかった。部長の机あたり目がけて、もう一度大きなためいきをついた。

「好戦的だね」

 あきれるように同僚は言った。

「そもそもコーヒーくらい自分で淹れろと。お前はお湯をそそぐこともできないのかと」
「まあねえ。忙しいのは私たちだって同じことだもんね」

 茶渋のこびりついた白いマグカップにドリップのコーヒーを落とす。安物でもなんでも、その香りに私は少し表情をゆるめた。少しだけ、机の上の惨状を忘れた。
 あの後もちろん仕事は増えた。次から次に持ち込まれる紙の束。この若い身空でリストラなんて考えはしないけど、それでも肩に手を置かれるあの感覚がたまらなく恐ろしかった。これもお願いできるかな、と手渡されるファイルの山。頭の中でファイルを叩きつけ、できるかそんなにと叫んでいる自分を抑えつけながら、上司の顔も見ずに生返事。今考えてみれば、度胸だけは大した物かもしれない。
 はい、と同僚にも一杯コーヒーを手渡した。にっこり笑って受け取ってから、彼女は言った。

「で。どう?」
「どうって」
「見通しは」
「ついてたら怖いね」

 全体を把握してないからまだやっていられるのだ。全体量を一度確かめてしまうと、もうやる気はわいてこない気がする。いや、量を調べている間に年を越してしまうそうな気配すらある。
 引きつった笑顔を合わせてからコーヒーを飲んだ。少しも美味しくはない。

「変なこと聞いてもいいかなあ」

 おもむろに私は声をかけた。なに、と返す同僚に、目は合わせず続けた。

「一度眠って、もう二度と目覚めないなんてことあるかな」
「は?永遠の眠りってこと?」
「死ぬってことじゃないよ」

 同僚は目を白黒させながら聞いている。まあ、そりゃあそうだろう。

「テレビで見たことあるような気はするけど」
「やっぱりそういうのかなあ」
「なに、アカリの友達で?」
「いや、別にそういうのじゃないよ」

 眉をひそめた彼女に、慌てて私は首をぶんぶんと振った。

「絵本書いてる友達がいるんだけどね。その人が今書いてる物語の話」

そう言ってもまだ眉をひそめている。疑われてるかな、と思ったけれど、だんだん彼女が目を輝かせていることに気がついた。

「…どうしたの?」
「絵本か!絵本、その手があった!」

興奮しながらひとりごちている。

「なに、絵本がどうしたの」
「いやそれがねさっき園児教育がらみの件があってどうしようとか思ってたんだけど絵本かそれはアリだよね気がつかなかったー昔たくさん読んだのになあ!」

 一息にまくしたてて満足そうにコーヒーを飲む彼女を、私はぽかんと眺めた。

  *

 ソファから見えるアナログの時計は、深夜1時だと告げる。腕時計にもそう書いてあった。仕事で午前様って、と深く息をはいて体重をソファにあずけた。重力が何倍にもなったような気がして、しばらくそこから動けなかった。別の星にいるかのような気分だった。

「ヤクモ。コーヒー淹れて」

 そう呟いて視線をベッドに向けたけれど、もちろんヤクモはぴくりとも動く気配はない。仕方なくのろのろとキッチンに向かった。コーヒー豆を入れたタッパーを開ける。

「絵本かあ。それでいいんじゃないの」
「ありがとうアカリ!これでなんとかなるかしら」
「よかったよかった。その勢いでこっちの仕事も手伝ってね」
「やだ」

 ふわりところがった香りに、給湯室での会話を思い出す。

「ところでその、絵本を書いてるって友達なんだけど」
「え?」
「プレゼンの時に実際に絵本があると、効果的だと思わない?」
「や、そりゃまあ」
「書いてもらえないかな、その人に」
「え。いつまでに?」
「26日かな?クリスマスあけだし、なんとかなるでしょ」

 絵本を書いて、か。ベッドに視線を投げた。3年くらい寝続けてもおかしくないくらい自然な寝顔。26日までに起きるだろうか。そもそも起き出したところで、今はスランプなんじゃなかったか。

「ヤクモ。寝てる場合じゃないよ」

 そう呟いたら視界が少しぼやけた。慌てて淹れたばかりのコーヒーを飲んで、その熱さに涙が出た。
 味はなんだかはっきりしなかった。何か物足りなかった。コク?香り?苦み?酸味?
 しばらくぐるぐると考えていたけど、それからはっと気がついた。このコーヒーに足りないもの。

 うんちくだ。

 来客用の布団と毛布を引っ張り出して、ソファでうとうとしたとき、そろそろ2時を指しそうな時計の針が見えた。なんだかうらめしくなって、目を閉じてさっさと寝ることにした。
 ヤクモのかすかな寝息が、夢の中まで耳に残った。


12月22日 ヤクモ−第三回 (Rino)


 僕はどこまでも続く真っ白い道を一人歩いていた。
僕のつけた足跡はきりもなく降りしきる雪にすぐかき消された。身体中が自分のものとは思えない程、重くしびれていた。ひきずるように一歩、また一歩と踏み出すごとに意識がだんだんと遠くなっていくようだった。
 トマと別れてからどれくらいたったのだろう。褐色の地図を握りしめ僕は山を越えた。もらった食料も乏しくなってきていた。一つ目の山を越えると雪はどんどん降り始め、僕の体温はどんどん奪われていった。それにしてもイタチの家が見あたらない。そろそろ着いてもよさそうな頃だった。トマの言いつけ通り僕は絶対に着けるという100%の確信をもってやってきた。しかしここへ来て家どころか辺り一面雪しか見えない事に不安を感じ始めていた。体力が限界に近い。
 もうだめだ、僕は雪の上に体を投げ出した。湧いてくる力のようなものが何もなかった。
恐ろしく寒く孤独な雪原の中僕は死んでしまうのだろうか。ふとトマの言葉を思い出した。

「ここにいればヤクモはずっと安全だし、誰もヤクモをかき乱したりしないよ。」

 そうだね、トマ。僕は君の言うことを素直に聞いていればよかったのかもしれない。さよならトマ。さよなら僕の記憶。思い出せないまま死んでしまうのかと目を閉じた。
 と、その時、絶対にあり得ない香りが僕の意識を包んだ。これは・・・コーヒー?僕の体にしんしんと降り積もる雪と辺り一面白銀の景色の中から、かすかにだが懐かしいコーヒーの香りがする。僕の消えかかった意識がかすかにつなぎ止められた。ゆっくりと目を開けると、瞼の上につもった雪が目に入った。視界が曇る。
 楔が打ちつけられたように重く固い体を起こすと遠くにぽつんとまるい光が見えた。ふらふらと立ち上がり光に駆け寄ると、なんと電灯がたっていた。僕はその柔らかい灯りを見てこれは何かの目印なのだろうか、と朦朧とする意識の中感じた。それはまるで明治初期にはじめて横浜の街を照らしたようなガス灯のようだ。ジリジリと揺れる灯りの下、すっぽりと雪に包まれた僕は真っ白い息の塊をはきだしながら、吸い込まれそうな程に美しい雪景色を眺めていた。それは本当にどこまでも白く、永遠に続く無の世界だった。空も地面も木も草も全てが色を失いそこに横たわっていた。
 と、その時、

「おい、いつまでぼさっとしているのさ。」

 うしろからディズニーアニメに出てくるコヨーテのようなダミ声が聞こえた。
 僕が振りむくとそこには白い雪洞がまぬけにぽかんとあいていた。そのとなりに一匹の白いイタチが立っている。一体いつの間に・・・と僕が口をきけないでいると、

「入るの?入らないの?こっちだって忙しいんだから。」

 イタチは生意気そうに鼻を鳴らしながら僕に向かって言った。

「は、入るよ。」

 僕は自分の胸の高さほどしかない雪洞をくぐった。すると中は意外にも広々としていた。床には白クマの毛皮がしいてあり、ゆったりとしたソファがあった。イタチは僕にお構いなしにソファにどかりと腰をかけると、座りな、といわんばかりに壁の近くの椅子をあごでしゃくってみせた。仕方なしに僕は椅子をずるずるとひいてきてそこに座った。その時に気がついたのだが、もう体全体を覆うような寒気はなく、なぜだか足の凍傷までよくなっているようだった。

「こんなところまでやってきて、あんた一体何から逃げてきたんだよ。」
「逃げてきた?僕が?」

 イタチはキセルを加えながら、目を細めて僕を見た。そして別の事を聞いた。

「誰に紹介されてやってきた?」
「山を越えたところにある、地図屋のきつねです。トマって言いました。」
「ふうん。そうかそうか。トマにもわからなかったってわけか。」
「僕には記憶がないんです。だから自分がどこに行きたいのかもわからない。」

 するとイタチはさも面白そうに膝を叩いて笑った。

「そりゃ、わからないワケだ。目的地もないまま地図屋に行くなんてなあ。魚屋に入ってなにかくれって言ってるようなもんだ。」

 僕は黙っていた。

「俺の本職も地図屋なんだ。ただもう引退してるけどな。沢山の旅人達にあっていたら大体どんな人生を送っているのかがわかるようになってきた。そのうち趣味で占いを始めたら結構あたるようになってな。まあ、あまりに客が多すぎて冬の間はこうやって引きこもっているよ。寒いのも嫌いだしな。」

 イタチはとにかくベラベラとよく喋った。聞いてないことまでよく話す。まるで・・・。

「そうそう、言い忘れていた。俺の名前はレタ。よろしく、ヤクモ。」
「あ、よろしく。」

 ぶっきらぼうだが根はよさそうなイタチだった。

「あんたトマの奴に引き留められたんじゃないかい?」

 そうだと僕は答えた。

「あいつも寂しがりやで困るなあ。気に入った旅人にはいつも泣きつくんだ。ただ、あんた留まらなくて正解だよ。別にトマが悪い奴だって言ってるわけじゃあないがね。あんたは帰る場所のある人間だ。俺のみたところあんた随分遠くからやってきたように見えるなあ。」

 レタはキセルの葉を詰めながらそう言った。

「遠くって一体・・・。」
「さすがにどこかまではわからないけどね、ちょっとどうしてこんな所にやってきたのかが不思議な気がするんだ。」

 レタは煙を吐き出すとぼんやりその行方を目で追っていた。なにか考える事があるらしい。

「あんた、地図屋のところへ行ったらいい。」

 僕は一瞬わけがわからなくなった。

「あの、僕は地図屋のトマのうちから地図屋のレタの所までやってきた。
そしてまた地図屋の所に行くんですか?」
「そうだ。」
「なんだか宝探しみたいだなあ。」

 ぼくはやれやれとため息をついた。

「正確にいやあこれで最後だな。大元で地図を描いてるやつのとこにいくんだ。そいつにわかんなけりゃあんたお手上げだよ。」
「地図を描いてるやつ?」
「ああ。なかなか知られてないんだが不思議な力もあってな。もしかしたら帰る場所が見つかるかもしれんよ。」

 ちょっと待っててくれ、とレタはタンスの引き出しから一枚の地図を取り出した。

「大分汚いけどまあ、読めるだろう。ここからさらに西に行ったところに大きな沼がある。
そのほとりにすんでいるツチグモがいるんだ。そいつがせっせと地図を描きためているんだよ。ただしょっちゅう測量にでかけちまっていないんだ。運が悪けりゃ半年は待つかもしれねえなあ。」

 イタチはこともなげに鼻を掻きながら言った。

「半年だって?それはちょっと困るよ。」
「まあ、運が悪けれりゃの話だ。それに冬は部屋に閉じこもって描いてる事の方が多い筈だ。とにかく行ってごらんよ。」

 僕はレタの強引な説得に負けてとにかくそのツチグモに会ってみることにした。そうするしかなさそうだ。

「今日は一晩ここに泊まっていきな。明日になれば雪もやんで行きやすくなるだろうしな。」

 レタは自分の天気予報は外れた事がないと鼻を鳴らした。なんだかただのほら吹きなじいさんにしか僕にはみえなかったが。

「なんだか色々してもらって申し訳ないです。」

 それでも親切なレタに僕は丁重にお礼を言った。そして、何かお礼ができないものかと胸のポケットを探ると吸いかけのラークの箱が出てきた。もしよければ、と聞くとイタチはたいそう喜んで引き出しにしまっていた。どうやら気に入ってくれたらしい。

 朝になると確かに雪はやんでいてうっすらと日も差していた。レタは「また何かあったら戻って来な。」と言い「もし帰る場所が見つかんなけりゃ俺の助手にしてやるよ。」としっぽを揺らした。
 僕は礼を言い、手にレタからもらった沢山のワカサギを持って穴を出た。とにかくクモに会わなくてはいけないらしい。困ったことには僕はクモが大の苦手だった。


12月23日 アカリ−第三回 (PAT)


 ジョン・レノンの「イマジン」が流れ出して、そこで初めて私は時の流れを知った。

 ヤクモが眠りだしてからもう何日が経つか。世間では、明日はクリスマスイブだそうだ。イルミネーションの街並みも、これが最後とばかりに輝きを一層増していた。みんながみんな同じレコードをプレイヤーにかける。曲が終わると誰かが針を戻す。そうして甘い、悲しい、さびしい、明るい、そんなクリスマスソングが一日中街を騒がせる。オフィス街の近くの伊勢丹には、不況を物ともしない人々が押し寄せ、宝石をうっとりと眺めていた。薬指の表裏を見つめ、それから隣りの人物ににっこりと笑いかける。
 そんな姿を横目に、私は区立図書館に出向いた。空暮れなずむ、午後4時過ぎ。冬の日のつかの間の夕焼けを、白い息に透かして眺めた。オレンジの明かりが目に染みた。
 もちろん今も仕事は年末進行の真っ只中、そんな時間があるならば、クリアファイルのひとつも整理しているほうがはるかにいいのだが、隣りの同僚にことわって、私は少しだけ時間をとったのだ。

「アカリ、コンビニ行くなら栄養ドリンク買ってきてくれない?」
「ああゴメン、コンビニ行くわけじゃないんだよ。ちょっと」

 図書館にね、と小声で言うと、彼女は目を丸くした。

「図書館?何しに?ていうかこんなときに?」
「ごめーん、どうしても調べたいものがあるんだ」
「まあ、いいけどさあ」

 きょろきょろと周りを見た。そこに広がるのは、さながら戦場。

「わかった。1時間くらいで帰ってきなよ。フォローしきれないからね」
「恩に着るよユキエ。帰りに栄養ドリンク買ってくるからね」

 そうしてやってきた図書館で、私は低い本棚が立ち並ぶ一角に居座った。児童書のコーナーだ。目に付いた絵本を片っ端から引っ張り出して、座るのも忘れてひたすら読みふけっていた。

 で、イマジンである。閉館の時間だ。
 貸し出しカードとか、そういうものを持っているわけではないので、やむをえず手にしていた本を棚に戻した。本当に片っ端から引っ張り出していたようで、最後に読んでいたその本は、「おおきなおおきなおいも」だった。疲れを訴えた目が、ぎゅっとまぶたを閉じさせた。つられて、大きなあくびがひとつでた。

 会社に戻る途中で、栄養ドリンクを二本とチョコレートを買った。

  *

 つまり私は、先日のユキエの言葉が頭の中に残りつづけていたのだ。プレゼンテーションの資料として使うための、絵本の執筆依頼。詳しく話を聞くと、新たに起業される保育施設絡みの会社からの依頼であり、幼児教育の一環として、様々な角度からの手法の提案を必要としているらしい。そのひとつが絵本というわけだ。ふだんから絵本を書くヤクモを見ている私からすれば当然思いつく手法なのだけれど、彼女にとってはそうでもなかったらしい。三が日になったら久しぶりに絵本でも読もうかしら、と意気込んでいた。
 ヤクモに書いてもらいたいという彼女の提案に、はじめは私も同意していた。もちろんその時ヤクモは既に眠りの世界にいたのだけれど、そのうちぱっと目覚めるだろうという根拠のない自信があった。そうして口約束を交わしてはみたものの、いざこうして日が差し迫ってくると、さすがに焦燥感のひとつも湧いてきた。ヤクモはいつまでも起きない。プレゼンの日は迫る。のほほんと過ごすわけにはいかない……いや、のほほんどころか毎日終電で帰宅するような限界の生活を続けているのだけれど。
 おでこにできたにきびを気にしながら、私は栄養ドリンクを一息に飲み干した。

「おお。見事な飲みっぷり」
「茶化すならユキエの分も飲むよ」
「わあ、ごめんごめんアカリちゃん」

顔の前に手を合わせて謝るユキエに、ひょいと瓶を手渡した。

「それで、いったい何を調べてきたの?」
「うーん、ちょっとね」
「ほほお。ごまかすんだ。お茶をにごすんだ。アカリがいない間、あたしがどれだけフォローをしたことか。『あれアカリさんはどこですか』『ああ彼女なら先ほど資料室に行ったようですが』」
「わかったわかった。ありがとね」

 芝居がかった口調でまくしたてるユキエの肩に手を置いてから、私は困ってしまった。
 まさか彼女に言うわけにもいかない。ヤクモは今眠りつづけているから、代わりに絵本を私が書いてみせるよ…とは。
 眉をひそめて考えてしまったらしい。ユキエがふっと表情を曇らせた。

「ごめん、もしかしてこないだの話?」
「こないだ?」
「二度と目覚めない人がいるっていう」

 覚えていたらしい。しかも微妙に認識が間違っている気がする。

「いや、別にそういうわけじゃ」
「そうだったらごめんね、あたし顔つっこんじゃって。図書館でそのへんのこと調べてきたんでしょ、医療関係とか心理学とか」

 ああ。
 そんなことはすっかり忘れていた。いいかげん緊張の糸は張り詰めているつもりだったのだけど。

 *

会社の窓から見える街は、遠足の前の日のように落ち着かない様子だった。赤や青や黄に光るビルの明かりに照らされて、いつもよりもっと早足で人が駅に吸い込まれていた。よく見ると紙袋だのを持っている人もたくさんいる。
 そしてまた、遠足の前の日のように、眠りにつくのも早かった。あっという間に人々はベッドにもぐりこみ、話し相手をなくしたイルミネーションだけが、寝静まった街を照らしつづけていた。
書類の束をトンとそろえ、私は大きく息を吐いた。腕時計は23時半、そろそろ終電の時間だ。
 家が遠いせいで終電の早いユキエが先に帰ってからもずっと書類と戦い続けていたおかげで、なんとか今日の分は片付けることができた。今日はもう大丈夫だろう。椅子の背もたれに寄りかかって、両腕を天井に向けて大きく伸びをした。

「あれ、アカリさん?」

 ディスプレイのいくつか向こうから声をかけられた。

「あ、お疲れさまです。そろそろ帰りますね私」
「え、アカリさんて、終電24時でしたよね」
「そうですよ。もう少ししたら出ないと」

 そう告げると、相手はなんとも不思議そうな顔をした。

「どうしたんですか?」
「あれ、違うか。別に遅れてるわけじゃないか」

 そう呟く声が聞こえた。遅れてる?
 …それを認識したとき、慌ててパソコンの時計とオフィスの時計、それから自分の腕時計を見比べてた。2対1で腕時計の負け。

「ねえ。今って何時」

 呆然としながらたずねた。

「いや、23時50分なんですけど」

 後で聞いた話だが、その時私はすごい表情だったらしい。とるものもとりあえず会社を飛び出し、駅へと全力疾走。
 時間の壁をいくつか超えたかもしれない。閉まりかけのドアに無理矢理体をねじこんで、私はなんとか終電に乗り込むことができた。やけに温まった座席につき、乱れた呼吸を抑えつけ、髪の毛を少し整えながら、深夜の街を電車の窓越しにぼんやりと眺めた。
 妙に今日は電車が空いてるなあ、と車内を見回して思った。そうか、そういえば私は休日出勤、というか祝日出勤だった。そりゃ、終電に乗る人なんてふだんより少ないに決まってる。
 そこまで考えてからふと腕時計を見た。23時45分。確かさっき20分遅れていたから、実際はもう日が変わってるのか。ということは今日はもう、
 クリスマスイブだ。

 *

 部屋は相変わらず寒々しくて、帰ってきた私を静寂が包み込む。だんだんこのヤクモの部屋が自分の部屋のように思えてきて、怖くなって私は頭をぶんぶん振った。とりあえず熱いお風呂を沸かして、バスキューブでも入れて、それから絵本を書こう。
 そんなことを考えながら部屋に入った私は、はじめその違和感に気が付かなかった。
 ヤクモの姿勢が変わっている。
 姿勢、という言葉で片付けていいものか。まるでそれは眠れない真夏の夜に、布団を抱えて寝返りをあちこちに打ったような、そんな錚々たる有り様だった。布団が体に巻きつかんばかりの寝相。
 なにやってんの、と思わず苦笑いが浮かんだ。不思議なもので、普段と違うものが自分を待っていたというだけで、少しだけ心が軽くなった。もしかしたら起きようとしてもがいてるのかもね、と思いながら布団を引っ張ってかけなおしてやった。心なしかヤクモの表情が和らいだ気が、しないでもない。
 お風呂に入って一息ついて、私は熱いコーヒーを淹れた。いつの間にやら慣れた仕草でコーヒーを淹れる姿を見て、彼はなんと思うだろう。少し笑みがこぼれた。ぼんやりしていたので、マグから少しコーヒーもこぼれた。
 アメージング・グレースを口ずさみながら机に向かった。シャープペンを右手で回しながら、白紙の原稿用紙を見つめた。夕暮れの図書館が脳裏によぎる。今日読んだ絵本の束を思い出す。検索をかける。
 頭に浮かぶ絵本の文字に霞がかかって離れない。貴重な時間を費やしたのに、記憶はどうにも曖昧だ。コーヒーを飲んで霞を払おうとした。それは熱くて、風呂上がりの体をゆるりと通り抜けたけれど、やっぱり美味しくはなかった。ヤクモとのこの不思議な同居生活が始まって、毎日コーヒーを淹れているけれど、どうしてもヤクモが淹れたときのような味が出せなかった。何が足りない。やっぱりうんちくなんだろうか。
 そう思ったら、無償にヤクモのコーヒーが飲みたくなった。しっかりと味を覚えてるわけではないけれど、自分のコーヒーとは違うことには不思議と確信があった。
 白紙の原稿用紙から視線を滑らせると、また違う原稿用紙が目に入った。ヤクモの原稿だ。どんな話だったっけ、と手にとって読み返してみる。
 動物達がたくさん登場する、絵本らしいといえば確かに絵本らしい話だ。そしてその動物達に、おばけの出る家から逃げ出してきた男の子が順番に会ってゆく。そして最後、いや物語としては最後ではないのかもしれないが、ヤクモが書いた最後のシーン。色々な動物を巡って、キツネに出会った男の子は、おばけから逃げてきたことを伝えると、こう言われるのだ。

 『ここで楽しい夢を見よう。これからはもう、こわいことはないよ』

 ここまで書いて続きが書けなくなったヤクモ。今彼は楽しい夢を見ているのだろうか。こちらに戻ってこようとはせず、夢の中で楽しく暮らしてるのだろうか。そう思うと、ペンを持つ手もおぼつかなかった。書こうとしても手が走らない。文字が残らない。ガラスに向かってエンピツを走らせるようなものだ。
 耐え切れなくなって、私は眠っているヤクモに抱きついた。

「ヤクモ、私書けないよ。助けてよ。帰ってきてよ。目を覚ましてよ」

 そして、二人でアメージング・グレースを聞こうよ。私は眠るヤクモの頭を強く抱きしめた。
 そのとき、かちりと時計の針が鳴った。


ヤクモ−第四回 (Rino)


 昨日のうちに降り積もった新雪はきらきらと光っていた。
遠くで雪の落ちる音がする。
レタの言うとおり雲一つない晴天だった。明るすぎて目がくらむくらいに。
肌を刺すような冷えきった空気の中、僕はさくさくと足跡をつけて進んだ。
雪原の先に針葉樹の林が見える。あれを越えれば沼があるはずだ。

 それは不思議な地図だった。日に焼けた紙に描かれた細やかで美しい絵画。
じっと見ていると、何が描かれてるのかよくわからなくなってくる。
まるで夢の中で本を読んでいるような感覚だ。細部を見ようとすると
頭がぼんやりしてきてしまう。
ところが、まるで道にしるしができたように(もちろん道なき道なのだが)僕を導いた。
くるりと後ろを振り向くと綺麗に僕の足跡が一本の線を引いていた。

 目が痛くなる位青い空を仰ぎ、僕は帰るべき場所の事を考えた。
もちろん、塵一つほども記憶など存在しなかった。
そして僕は便宜上トマの暖かい家を思い浮かべた。
丸いテーブルの上には温かい料理があり、
湯気の向こうには僕を待っている人がいて、足下には小さな猫が眠っている。
しかし、それはなんだかひどく非現実の匂いがした。
他人の故郷をむりやり自分の居場所に置き換えた居心地の悪い気分だった。

 暗い林に足を踏み入れ、これから会うべきクモについて考えると足がすくむ思いだった。
今まで会った地図屋みたく親切だとよいのだけれど。
それにもしかしたら半年は待つかもしれないとレタは言った。
冗談じゃない。こんな寒いところでは半年どころか一週間だって
待つのは無理だろう。

 林は沼地になっていて、少しでも気を抜くと足を取られそうになった。
遠くから聞いたこともない鳥の鳴く声がする。
雪はつもっておらず、その代わりに冷たい湿気を帯びた空気と
耳が痛くなるほどの静けさが周りを覆っていた。
背の高い木の隙間からうっすらと日が差し込んできたがその光は僕までは届かなかった。

 どれくらい歩いただろう。
地図は寒いのに汗ばんだ手のひらに握られたままだった。僕は、ただ歩いていた。
前も見ず、後ろも振り返らず、自分の足の2,3歩先を見つめながら
ひたすらにぬかるむ道をたどり続けた。

 歩くことに気をとられていたので、急に視界が開けた事に気付くまでしばらくかかった。
気付いたら目の前にぽっかりとした沼が広がっていた。
固唾を飲んで、おそるおそる沼のほとりから
湖面をのぞき込むと僕の顔が映った。
・・・はずだった。沼の中から白く細長い糸が音もなく足に
からみついた。僕は足を取られ、そして瞬く間に蚕の繭のように巻き付かれ
ずるりと沼に引きずり込まれた。息ができない・・・。
こんなひどい目にあってばかりでは命がいくつあっても足りない。と意識が遠のく中で感じた。

 *

 はたしてクモはいた。
 気がつくと僕はジメジメと暗い洞穴の天井からぶらりとみの虫のように吊るされていた。
どこからか水と風のうなる音が聞こえ、壁には幾つものろうそくがかかっている。
そして目の前には身の丈3尺程もある大きなツチグモが紫色の目をぎろりと僕に向けていた。
もう一度気を失いそうになる僕にツチグモは話しかけた。

「こんな所まで何しに来たんだ。」

 どうやらあまり好意的ではないらしい。
僕は説明しようとしたが、苦しくて声にならなかった。

「お前は俺様を食いに来たんだろう。言っておくが食われる位なら俺がお前を食う。」
僕は必死で首を振った。クモを食べるなんてそんな趣味はない。
「違うのか?海を越えたところに住んでいる人間は俺様を食おうとしたんだ。」
ぼそりぼそりとしゃべるクモはどうやら人間嫌いらしかった。
「ち・が・う」
僕が口をぱくぱくと動かしたが、息となって消えてしまった。

「ところで、お前の持っていたこのワカサギ、この辺じゃレタの住んでる湖でしか
取れないはずだが・・・。」
レタ!
僕は必死でうなずいた。そうだ。そのイタチに紹介されてきたんだ。
「レタめ。・・・ふん、話だけは聞いてやろうじゃないか。」
と八本ある足で糸を器用にはずしてくれた。
「俺様の名はジン。世界中を旅して地図を描くのが仕事だ。」

 大きく咳き込んだ後、僕はあまりジンを見ないようにしながら言った。
「帰る場所を探してるんです。記憶を無くした上に、どこから来たのかわからなくて
レタに紹介されて来たんです。」
ジンは僕の顔をじろじろと見回した。
背中が冷たい汗でびっしりとシャツに張り付き、
多分僕は恐怖にひきつった笑顔でとても奇妙な表情をしていたに違いない。

「地図は」とクモはたっぷり間を取ってから話しかけた。「お前の帰るべき地図はもちろん作れる。」
僕ははっと顔を上げた。「本当かい?」わらにもすがる気持ちでジンを見た。
「だが条件がある。これから俺様が何をするか、当てたら地図を描いてやろう。
ただし、当たらなかったらお前を食う。」
にやりとジンは笑った。

「そんなの不可能だ。」僕はとっさにそう思った。
なぜならジンは僕が言ったことと違う行動を取ればいいのだから。
条件でも何でもないじゃないか。ジンは、初めから僕を食おうとしているのだ。
足がガクガクと震え立っているのがやっとだった。

 どこで、僕は、間違えたのだろう。あのレタの言葉を信じた僕がいけなかったのか?
それとも、やはりトマの予言に従うべきだったのだろうか。
僕の胸がジンジンと痛んだ。胸を誰かが叩くような。
予言に従う?そうか、このジンの問いも・・・。
そして、不意に答えが浮かんだ。しかし、それは・・・。

急かすようにクモは僕の首に爪をかけた。
「答えられないなら、容赦なく食ってやる」
ぼくは小さな声で答えた。
「あ、あなたは、僕に地図をかかないだろう。・・・それが答えだ。」

 しばらく沈黙した後、ジンは大声で笑って言った。
「よくわかったな。答えられたのはお前が初めてだ。」
「でも、それが答えだとしたら・・・」
「その通り。俺はお前に地図を描くことができん。」

 僕はへたり込んで言った。
「やっぱり。あなたは初めから僕に地図を描く気などなかったんですね。」
ジンはそっと僕の側に来た。その顔はもう、笑ってはいなかった。

「お前の行くべきはお前の中にある。地図には描ける道ではない。
今、絶対にはずれない予言が解けたように、初めからこの世界に答えがないことを
気付いているんじゃないのか。ヤクモ。」

 僕はしばらく動けなかった。
 そして、ゆっくりと立ち上がると礼を言った。
 僕は今、歩き出さなければならなかった。
不思議な力を持つ予言者はここが行き止まりである事を告げていた。
これ以上のストーリーをこの世界に求めてはいけないと。
 早く、いかなくては。帰らなくては。帰るべき場所へ。
 ヤクモと僕を呼ぶ声だけが耳鳴りのように聞こえていた。
僕は洞穴の光が見える方へと必死で走っていった。

 その小さな光を頼りに走ることしかできなかった。


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