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 積雷山の遙か上空を、一羽の白鳥が飛んでいく。その体躯は大きく見事ではあるものの、どことなく羽が乱れ、疲弊した様子が見て取れる。それでも必死に羽ばたき飛び急ぐのは、何かから逃がれようとでもしているのか。
 と、そこへ、更に高い雲の隙間からまっ逆さに鷲が飛んでくる。鋭い嘴は確かに白鳥の首を狙っており、危ういところで白鳥は鷲の攻撃から身をかわすと、羽ばたきつつ黄鷹へとその身を変じた。

(──良いぞ、大哥!)

 敵ながらあっぱれな変化の術に、悟空は胸中密かに賛美しながら、自分は黒鳳へと変じる。
 火焔山の炎を消さんと、芭蕉扇を巡っての牛魔王との戦いは、この変化比べを皮切りにいよいよ最終局面を迎えようとしていた。
 次々と姿を変える牛魔王を追いながら、悟空は己が身の熱く震えてくるの感じる。長く、実に長く、自由に戦える機会の無かった悟空の体は、細胞の一つ一つまでもが全力を発揮できる喜びに高ぶっていく。

(もっともっと、力を出してくれ! 俺を手こずらせ、振り回してくれ!)

 嗚呼、思う存分腕が奮える相手がいるということのなんという高揚感! 充足する感覚! タガなど外れてしまえばいい!
 ついに牛魔王は本相を表し、千丈を優に超す巨大な白牛となって鉄の角を振り立てた。しからばと悟空も体を大きく伸ばし、鉄棒を牛魔王めがけて振り下ろす。牛魔王も負けじと頭を固くしてこれに応じ、鋭い角を振り立てた。

 巨大な二匹の妖怪による戦いは、三界を揺るがし、天を裂き地を割らんばかり。このままでは収拾がつかぬとみて、三蔵を守っていたはずの諸神に、折しも虚空を通りがかった神々が加わり、悟空と牛魔王を取り囲んだ。悟空が白牛の額に打ちかかれば、諸神も四方八方から迎え撃つ。これにはさすがの牛魔王もたまらず、元の姿に戻るや芭蕉洞へ逃げ込んだ。
 仕方なく、悟空も元の大きさに戻る。駆けつけた諸神仏が集まり、大いに悟空の武功を称えた。
「大聖、お見事! あれほどの武芸は──」
 声をかけてきた六甲六丁の一人は、言葉の途中で悟空に首根っこを捕まれ、ぎらつく火眼金リに睨み付けられた。
「グチャグチャと喧しい」
 いつもなら自分を称える言葉を聞けば、やに下がりこそすれ怒ることなど無い悟空だが、今は怒髪天をつくばかりの勢いである。
「全くよけいな真似をしやがって! 俺様はな、大哥との戦いを楽しんでいたところだったんだ! あれほどの真剣勝負、五行山に封じられる以前でさえしたこと無いというのに、よくも邪魔だてしてくれたものだ!」
「し、しかしですな大聖」
 火眼金晴に間近に迫られ、すっかり竦んで動けない仲間を助けるべく、六甲六丁の筆頭、甲子神元徳が悟空を宥める。
「此度の牛魔王との戦いもずいぶん長引いております。そろそろケリをつけねば、火焔山の炎はいつまで経っても消えぬまま」
「知るか! 山が燃えたからそれがどうした!」
「山はどうでも、今のままでは西への旅は立ちゆきませぬ。それに──」
 元徳は三蔵の様子を思い出す。つい先ほどまで、六甲六丁は五方掲諦・四値功曹・護教伽藍らと共に三蔵法師の側に在って見守っていた。
「三蔵法師様も、火焔山の熱にすっかり参ってしまい、暑気あたりで倒れられましたぞ」
「何だと?!」
 これには悟空も色を変え、捕まえていた六甲の一人を放り出した。
「ですから、一刻も早く芭蕉扇を──」
「お師匠様!」
「またれよ!」
 いきなり三蔵の元へ飛び出そうとする悟空を、間一髪で元徳が押さえ込む。他の神々も悟空が逃げ出さぬように囲んでくれた。
「邪魔ばかりするな! 師匠の元へ帰るんだ!」
「今帰ってどうなります?! まだ芭蕉扇も無いままでは、大聖が行かれたところで炎を消すこともままなりませぬぞ」
「師匠の治療くらいは出来る! 弟子として放っておけるか!」
「法師様のお世話は捲簾大将がなさっておられます。それに山の熱が冷めねば、いかなる治療をしたところで所詮は付け焼き刃。まずは芭蕉扇を手に入れることこそが、三蔵法師様をお救いする近道でございますぞ」
「……うぅ!!」
 ギリリ、と軋んだ音がした。音のあまりの大きさに、元徳はどこぞで岩にひびでも入ったかと思ったが、どうやらこれは悟空が苛立ちを堪えて歯を食いしばった音らしい。
「畜生、こうなったら何としても芭蕉扇を取り返すぞ! おぬしら、ついてこい!」
 叫ぶなり悟空は芭蕉洞へと突進していく。切り替えの早さに呆れつつも、諸神は悟空の後を追い芭蕉洞へむかった。

   *

 甲子の神・元徳が悟空を見知ってから、すでに長い年月が経つ。

 斉天大聖の称号を手に入れたものの、仕事も与えられずに暇を持て余し、庭で神仙仲間と酒盛りをして騒ぐ悟空を見かけたことがある。噂だけは聞いていたが、手拍子に合わせて跳ね回る姿はまさしくサル回しの猴そのもので、これが李天王や三太子を手こずらせた化け猴とはとても思われなかった。
 悟空の神髄を見せつけられたのは、今なお悪夢として天族たちの語り種となっている大鬧天宮。全天の星官が駆り出され、猴一匹を捉えんと天網が張り巡らされた。しかし居並ぶ天兵は誰も彼も歯が立たず、揃って背中を見せる羽目となり、所詮山猴よと侮った連中の自尊心はズタズタにされた。
 無論元徳も討伐に加わり、悟空と剣を交えた。結果は言うまでもない。惨めに敗退し、続いて討ちかかっていく仲間を見送った。
 そうして、戦う悟空をとっくり観察した。あの猴はなんと楽しそうに棒を振るい体を舞わせるのか。数の上では圧倒的に不利な戦いを強いられているはずなのに、次々襲いかかる兵を迎え撃つその顔は、これ以上ないほどの愉悦に溢れていた。今その瞬間のためにこそ、生まれてきたとでも言うように。
 その愉悦が頂点を極めたのは、なんといっても対二郎真君戦。玉帝の甥御である二郎真君は、文句なく天上でも上位の実力者である。彼をして、悟空はとびきり面白い玩具が出てきたとでもいうように楽しんだ。
 結局悟空を捕まえたのは二郎神、完全に押さえ込んだのは西方仏祖。そもそも自分たちごときが出る幕ではなかったと思い知らされる。十万の天兵、揃いも揃って好い面の皮であった。

 先刻の牛魔王と戦う悟空を見て、元徳が真っ先に思い出したのは大鬧天宮の日のことだ。
 取経の旅が始まって以来、元徳は常に三蔵法師を、取経一行を見守ってきた。しかし今日ほど楽しそうに、自由闊達に、思う存分その腕を振るう悟空は見たことがなかった。強大な相手にぶつかっていき、小さな体は今にも弾き飛ばされそうなのに、悟空の瞳は炯々と輝き、唇からは今にもゲラゲラと爆笑が溢れ出さんばかり。棒をなぎ、変化を繰り返し、巨大化して山を踏む悟空の躍動。はじけるようなその動きに、今まで彼がどれ程実力を押さえていたのかを思い知らされた。

 悟空が存分に腕を振るうに足るのは、二郎神か牛魔王くらいだ、とも言えよう。しかし元徳には、それだけとも思えなかった。
 三蔵が倒れたと聞いて青ざめた悟空の顔。今回の戦い、悟空が斯くも自由闊達になれたのには、三蔵の不在も大きいのではないか。
 いつもならば、大概はまず三蔵が囚われ、その命が危険に曝される。そうなると悟空の目的は妖怪殺しよりも何よりも、まずは三蔵の安全の確保。ついで荷物や馬が奪われている場合は、その奪還。妖怪を始末するのはその後だ。思う存分暴れるには、先に片づけねばならない案件が多すぎる。これが悟空の自由を殺し、力を押さえつける要因とは言えまいか。
 悟空の力が抑制されるのは、天界側にとっては有り難い話だろう。
 だが。元徳は思い描く。悟空の壮観な身のこなし。舞い遊ぶような動きで、確実に敵を薙ぎ払う棒捌き。
 自分も武将である元徳にとって、悟空の力は最早羨むとか追いつきたいという願望さえ思い至らない高みにあった。ただ、憧れ、見惚れるのみ。
 そう。孫悟空討伐に加わった日、元徳は自分の立場も忘れて、悟空の戦う様に目を細めていた。
 三蔵を守るという使命のために、悟空があの力を控えねばならぬとしたら、如何にも勿体ないではないか。

   *

 火焔山を舞台とした大立ち回りも終焉を迎え、牛魔王は本相を表し、その鼻に縄を通された情けない姿で那托三太子に牽かれている。周囲は諸神仏に囲まれ、先頭には羅刹女から受け取った芭蕉扇を引きずるように抱えた悟空が居る。
 元徳もまた他の六甲六丁と並び、牛魔王の前、悟空のすぐ後ろ側に立った。
 悟空の弾む心をそのまま映したように、フラフラと揺れていた芭蕉扇が、ピクリと大きく揺れた。
「お師匠様!」
 前方から悟空の歓声が響く。見下ろせば、火焔山にほど近い道ばた、汗みずくの三蔵が悟浄に抱えられるようにして悟空に手を振っている。
「お師匠様、お体はいかがです?! 暑くて参ってしまったでしょう」
「何、私なら大丈夫だ。──よくぞ芭蕉扇を手に入れ戻ってきてくれた。ありがとう、悟空」
 微笑み、手を広げて迎えた三蔵に、悟空はその腕の中へと飛び込んでいく。芭蕉扇さえかなぐり捨てて。その様子に悟浄は慌てて扇を拾う。八戒も駆けつけ、仲間の輪の中へ入っていった。

 三蔵の無事を確認するや、悟空は意気揚々と火焔山の炎を消しにかかる。芭蕉扇の起こす風は、あれほど猛々しかった火焔山の炎を火の粉一粒残さず消し去った。
 騒ぎもようやく決着を迎え、諸神は雲に乗って去るばかりとなった。逡巡した末、元徳は立つ前に悟空に呼びかけた。
「大聖!」
「何だ? ……ああおぬしか。先ほどは済まなかったな、せっかく師匠のことを知らせてくれたのに」
 照れたように微笑む悟空は、ただの気のいい男に見えて、あの戦いの最中に見せた瞳の輝きが幻のようだ。
「そんなことはよろしいのです。それよりも、某、大聖にお願いしたい儀がございまして」
「言ってみろ」
「もっと我々を信用してはいただけませぬか」
 突然の言葉に、悟空は面食らった。
「我々の使命は、陰ながら三蔵法師様をお守りすること。法師に危機迫りし折、我らを信用して法師の身を託し、大聖は妖邪征伐に専念して頂きたく存じます」
「──お前たちで師匠を守り抜くというのか?」
「某の力不足は重々承知。しかれども、命に替えても三蔵法師様には傷一つつけぬ覚悟でございます。どうか──」
 元徳は跪き、深く頭を垂れる。しかしその頭上を、悟空の豪快な笑い声が通り過ぎた。
「馬鹿を言うな! おぬしらごときにこの孫様の商売を取られてたまるもんかよ!」
「し、しかし!」
「くどいぞ。孫様はな、観世音菩薩より直々に仰せつかったんだ。東土の取経僧を助け、修行を積めってな」
 さばさば言い切る悟空の目には何の迷いもない。
 それでも元徳は未練がましく、こんな話を切り出した言い訳に、己が胸の内を語った。
「心遣いに涙が出るよ」
 言葉とは裏腹に、微塵も有り難がってはいない風に悟空は笑う。
「だがおぬしは思い違いをしている。確かに俺様は暴れるのが何より好きだがな」
 一旦言葉を切り、悟空は視線を路傍の岩に腰掛けた三蔵に向けた。
 悟浄からもらった水を飲み、ようやく吹いた涼風を受けて人心地ついたようだ。頬に火照りが残っているものの、三蔵の顔にはようやく生気が戻っていた。
「俺の為すべきは、妖怪退治なんかじゃない」
 三蔵をじっと見据えたまま悟空は言う。
「ただ一つ、あの人を守ること、それだけが今の俺の仕事さ」

 一行の礼を背に受けつつ一足遅れで空へと上がった元徳を、他の六甲六丁たちはからかい混じりの笑みで迎えた。
「ふられたな」
「やかましい」
 揶揄に拳で応じれば、「早くも大聖に感化されたぞ」とまた戯言の種となる。
「元徳の気持ちは分からんでもないが、わしらじゃどう考えても力不足さ」
「全く、悔しいが法師をみすみす妖怪どもに捉えさせたことも一度二度ではないからの」
「──分かっているさ」
 そんなことは元徳だって百も承知。
 それでも。

 山のような白牛と戦う悟空。その顔に浮かぶ愉悦を想う。
 三蔵の胸元に抱かれる悟空。その顔に浮かぶ幸甚を想う。
 自分はそのいずれも彼に与える術を持たぬから、せめて彼の幸甚を守り、喜悦を支えたい。
 それがささやかにしておこがましい、元徳の願いだった。


風月沙龍・暁霞さんより、10周年記念に「牛・孫で!」と私のリクエストをくんで頂いたこれが1本目。一見、牛魔王との会話もなく「?」となるのは甘い!!
火焔山編で大哥との死闘を愉しむ悟空というのは、実は積年の我が妄想だったので、まるで頭の中読まれているが如くの燃えツボです。
しかも、お師匠さんとの萌えツボも押さえてもらって、至れり尽くせりでありがとうございます。

更に牛大哥側からの視点での「停雲落月」も!