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 昔話をしよう。

 牛魔王がまず思い出すのは、山中の小屋だ。山頂近くの険しい地形にぽつんと一軒だけ建っている、何の変哲もないあばら屋。しかしその中がどれほど酸鼻極まる有様かは、周囲を覆う血の匂いで分かった。
 戸を開けて中を確かめることもせず、牛魔王は小屋に火を放つ。術で発した炎は、辺りの木々には飛び移らず、きれいに小屋だけを焼き払って勝手に消えた。
 耳を澄ませば、山の中腹から声が聞こえる。悲鳴と歓声の和声。
 声の元へと、牛魔王は飛んだ。

 きっかけは、いつも通り花果山で開かれた宴会。その最中、義兄弟の一人・獅駝王がぼやいていた。
『今度妾を迎えるんだが、女房が嫌がって、せめて別宅に置けと言う。しかし良い場所が無くってな』
 これに牛魔王が応えた。
『一つ良い山を知ってるぞ。温暖な土地にあって、一年通して花が咲き、景観もいいし、湧き水もうまい。良い住処になりそうな洞もある。
 しかし具合が良すぎるもんで、人間たちがかなり住みついとるのが問題だな。炭焼きの村だの、樵や漁師だの、あちこちに居るから片づけるのが面倒だ』
『そんなことなら、俺に任せてくれよ!』
 元気よく手を挙げたのは、末弟であり、花果山の主・美猴王孫悟空だった。
『俺がきれいさっぱり始末して、四哥にその山を贈ろうじゃないか』

 山の中腹、見晴らしの良い場所に小さな集落がある。村人は全員炭焼きを生業とし、細々と、穏やかに暮らしていた。
 この日、悟空が来るまでは。

 突然降って湧いたように炭焼き場へ現れた男に、村人たちは好奇の目を向けた。毛むくじゃらの体は幼子のように小さく、猿とも雷公とも見まごう異様な顔立ちににこやかな笑みを浮かべている。その表情が人なつっこいので、彼の不思議な形にも、人々は驚きこそすれ恐れはしなかった。
 微笑んだまま近づいてきたその猴様の男に、村人たちも笑顔で迎え──

 ブンッ
 鉄棒がなぎ払われ、男──悟空を囲んでいた人々は一斉に頭蓋から腐った豆腐のような脳髄を吹き出した。
 突然の惨劇に村人たちは、やっとこの猴が恐るべき妖怪であることを知り、慌てて逃げ出す。悟空はさっと毛を抜き、息を吹きかけた。すると抜け毛は数匹の子猿となり、次々逃げ出した人々に襲いかかる。小猿に引っかかれ、足止めを食らってもたもたすれば、あっという間に鉄棒がのびてきて頭を、腹を貫いていく。
 小さな集落だ。村を一掃するのに、さほどの時間はかからなかった。

「──殺しすぎるなよ、悟空」
「大哥! 来てくれたのか?」
 上空からかけられた声に振り向けば、牛魔王が雲に乗ったまま悟空の仕事を見守ってくれていた。長兄に向けて笑顔で手を振る悟空は、その淡い褐色の体毛の所々を返り血でしとどに濡らしている。
「この山を勧めたのはわしだからな、様子を見ておくとしたものだろう。山頂付近の樵小屋、焼いておいたぞ」
「ああ、こりゃすまねえ! 片づけとかなきゃとは思ったんだが、まずは人間どもをさっぱりさせとくかと思ってな」
「嘘をつけ。先に暴れたかっただけだろう」
「……へへ」
 ただの人間相手、動かぬあばら屋を潰すのとさほど手間の違いはないようでも、動く標的と動かぬ標的では面白みがまるで違う。まずは面白い方を堪能してから、退屈な仕事にかかろうと思っていた。図星を指されて、悟空はいたずらっぽく笑う。
「それから、さっきも言ったがあまり殺しすぎるなよ。たとえば──」
 言うなり牛魔王は近くにあった納屋の戸を拳で叩きつぶす。扉は左右の壁ごと壊れ、ほとんど一面崩れ去った。大きく開いた入り口からは、納屋の中がよく見渡せる。納屋の奥、農具に隠れて若い母親と五、六歳ほどの少女が肩を寄せ合って震えていた。二人とも失禁して股間を濡らし、目には光がない。すでに正気を失っているのだろう。
「こういうのは生かしておけば、獅駝への良い新居祝いになるだろう」
「生かしてどうするんだよ? どうせ食うなら今肉にしちまったって大して変わらんじゃないか」
「阿呆、食うばかりが使い道ではないぞ。おぬしは興味がないのは知っとるがな」
 言われて、やっと悟空は合点がいく。自分は加わったことはないが、大抵宴会の途中から、座を盛り上げるものは酒から女へと変わっていく。
 悟空は再び毛を抜き、綱に変えて、小猿に女たちを縛らせた。地獄絵図と化した村をぐるりと一望し、牛魔王が言う。
「二人じゃ足らん。もう少し生き残った奴はおらんのか」
「どうかな…… 挽肉にしたって肉団子が土産に出来ると思ったから、構わず棒を振るったもんでな」
「全く、少しは気を回せ」
「分かった分かった、悪かったよ。うちの雌でも連れて行くから」
「それじゃあ気兼ねなくやり殺すわけにはいくまい」
 自分に興味がないためか、悟空は殺す相手が男か女かなどはまるで気にかけない。一度獲物と見定めてしまえば、年齢も性別も関係なく棒の下敷きにしてしまう。妖怪仲間で一緒に暴れていても、ちょっと気を抜くと悟空が皆殺しにしてしまう。このため仲間の間では、獲物に見目の良い女が居たらまずはそいつを生け捕りにする、というのが暗黙の了解となりつつあった。
 ふと気になって、牛魔王は尋ねてみる。
「悟空、おぬし本当に女を抱く気はないのか」
「ないよ」
「相当好みが限られているのか? 偏食はいかんぞ」
「そんなんじゃないったら」
「なら男風か?」
 こう尋ねる牛魔王の脳裏を、ちらりと偶戎のことがかすめた。だがそれも悟空に笑い飛ばされる。
「ますますどうでもいいや! 俺は色事は好かん。それだけだよ!」
 そうか。そうだろうな、と牛魔王も納得する。
 だが、そうすると。
「ならば、おぬしは生涯独り身のつもりか」
「……大哥、何だってそんな馬鹿なことを聞く?」
 額にかかる毛から、返り血の滴をしたたらせつつ悟空は小首をかしげた。質問自体は馬鹿なこととは思わないが、確かにこの状況にはそぐわない話題であろう。周囲は血と腐肉の匂いに満ち、脅えきった女子供を足下に転がしながら話すには、話題が暢気すぎる。
「おぬしが色事に関心がないことは分かった。だが、おぬしも花果山の王ともなれば、山の猴たちを思って行動せねばならぬ。いつまでもおぬしが一人で子もおらんでは、奴らが心配するだろう」
「あんたの言うことはわかるがなぁ」
 俄に遣り手婆にでもなったような長兄の言葉に、悟空は苦笑するばかり。
「大哥は肝心なことを忘れているよ。俺は猴は猴でも、天地から生を受けた石猴なんだぜ」

 悟空は自分が石猴であることを誇りに思っている。天地開闢以来、花果山の石卵に溜められ続けた精気が形を成した、天地に唯一の存在として。
 およそあらゆる生き物は、自分と同じ種族の異性と番う。ならば悟空は? 今や方術を身につけ、なれぬものなどないとは言え、悟空の本相は石猴のままだ。世界に一匹しかおらぬ石猴は、天地から生を受けた石猴は、一体誰と番えばいい?
 俺は俺。石猴孫悟空。父母も兄弟も、妻子も持たぬ。持たぬが故に悟空は自由だ。三界は遍く俺のもの。
 一代限りの孤高の化物、それこそが俺様、美猴王孫悟空だ。
 そう言いきる悟空の口調には、強い自負がくっきり滲んでいた。

 悟空の話を聞いていて、牛魔王にも悟空の思いは分かる気がした。
 だが、それは本人には誇りでも、周囲にとってはあまりに寂しい話ではないか。悟空は自分が一人だと決めつけ、己以外の生命など要らぬと言っているようなものだ。

 すっかり山中の人間を片づけ終え、悟空は体を百丈ほどに伸ばし、集落の家々を巨大な足で踏みつぶしていく。まるで霜柱をサクサク踏むように。
(──今はああ言ってはいても)
 巨大な悟空を雲から見下ろし、牛魔王は思う。
(こいつにも、いずれは后を迎える日が来るだろうか)
 嬉々として村を潰す悟空の顔は、稚気に満ちた子供そのもので、そんな日が来ることは想像も出来ない。何より悟空が誰かを望む心境になろうとは、とても思えない。
 が。いつか。もしかしたら。
(こいつの心にねじ込み、居座る相手がいるとしたら、それはどんな奴だろう──)

   *

 さて、話を今に戻そう。

 火焔山を舞台とした大立ち回りも終焉を迎え、牛魔王は本相を表し、その鼻に縄を通された情けない姿で那托三太子に牽かれている。周囲は諸神仏に囲まれ、先頭には羅刹女から受け取った芭蕉扇を引きずるように抱えた悟空が居る。
「太子よ」
 本相に戻り、すっかり大人しくなった牛魔王に呼びかけられて、那托が振り向いた。
「悟空は今、人間の僧侶の弟子であると聞く。どんな男だ」
「そうか、お前はまだ見たことがなかったか。全く珍しい奴だな。ほとんどの妖怪は、大聖とやり合うよりもまずは三蔵法師様を食らおうと狙いにかかるんだが」
「三蔵……というのか」
「ああ。玄奘三蔵法師。金蝉長老の生まれ変わりで、誠にご立派な高僧だ」

「お師匠様!」
 そこへ前方から悟空の歓喜に満ちあふれた声が響いた。見下ろせば、火焔山にほど近い道ばた、汗みずくの坊主が色の青黒い長身の男に抱えられるようにして悟空に手を振っている。
「お師匠様、お体はいかがです?! 暑くて参ってしまったでしょう」
「何、私なら大丈夫だ。──よくぞ芭蕉扇を手に入れ戻ってきてくれた。ありがとう、悟空」
 微笑み、手を広げて迎えた三蔵に、悟空はその腕の中へと飛び込んでいく。芭蕉扇さえかなぐり捨てて。その様子に青黒い男──那托の解説によれば末の弟弟子だそうだ──が慌てて扇を拾う。天蓬元帥も駆けつけ、仲間の輪の中へ入っていった。
 師匠の胸に顔を埋め、弟たちに囲まれて、笑う悟空の顔ときたらどうだ。村を潰した時よりも、自分と戦っていた時よりも、遙かに幸せそうなとろけんばかりの笑顔じゃないか。

 ──あの男が。

 牛魔王は三蔵を食い入るように見つめる。色白でふっくらした頬の、いかにも篤実そうな──言い換えれば、お人好しなだけがとりえでぼんやりしてそうな坊主だ。
 あの男が、悟空にあんな顔をさせるのか。
 あの男が、あそこまで悟空を必死にさせたのか。
 あの男が、悟空の心に上がり込み、居座ることに成功したのか。

「──行こう」
 それまで無言だった牛魔王に突然出立を促され、李天王と那托太子は慌て、取経一行への挨拶もそこそこに西天へと向かった。
 西へと進む雲の上、牛魔王は二人に問う。
「わしはどんな刑罰を受けることになるだろうな」
「それは御仏がお決めになることだ」
 答えたのは李天王だった。
「だが、御仏は御慈悲の方。処刑されることはあるまい。大方は御仏の元で修行に励むこととなろう」
「わしも僧になるか…… それもいい」
 鼻にかけられた縄を揺らして牛魔王が笑う。意外にも、その笑みに自嘲の色は感じられなかった。
「──怒ってやしないのか?」
 那托は思わず、公務中であることも忘れて牛魔王に言葉をかけた。
「大聖は師匠を西へと進めるためだけに、義兄弟であるお前を裏切って、羅刹女やお前に戦いを挑んだんだろう? だから俺はてっきり、お前は三蔵様と大聖に怒ってるんだと思ったんだが」
「那托」
 無駄口を叩く息子に李天王が釘を刺してくる。那托は慌てて肩をすくめたが、牛魔王は天王に構わず答えた。
「そうだな…… 悟空があの坊主に向けて、ああも陶然とした顔を見せて、嫉妬しなかったといえば嘘だ」
 牛魔王の言葉に、那托は無言ながらやっぱり、と頷く。
「だが──させたのが誰であれ、悟空があんな顔で笑える、それだけでも大したことだ」

 三蔵の腕の中で見せた、悟空の幸せそうな笑顔。母に甘える幼子のような笑顔。長兄・牛魔王を敵に回してでも守ろうとした人に迎えられ、悟空は誇らしげだった。自分は孤高の石猴よと胸を張ったあの日よりもっと。
 取経一行こそ、悟空がようやく手に入れた、心を寄り添わせることの出来る「家族」。

 願わくば、牛魔王こそがなりたいと願った役割を坊主ごときに奪われ、悔しいのは確かで、那托の指摘はなかなか当を得ている。悟空に「師匠に火焔山を越えさせるため、芭蕉扇を借りたい」と言われて素直になれなかったのは、多分に嫉妬のせいだ。
 だが、今頭を冷やし、幸せそうな悟空を見れば、やっとこれでいいのだと思えた。

 西へ行けば。西天で修行を続ければ。
 いずれ悟空は西天へたどり着く。

 一足先に、待っているぞ悟空。

 すでに遙か東に見える火焔山に向け、牛魔王は胸中密かに呼びかけた。


風月沙龍・暁霞さんより、「使命」に続き頂きました。大哥が大哥が!!まったくもっていい漢です!
だいたい火焔山編は、悟空が一方的に悪党で牛魔王は取経一行の被害者でしかないのに、それを許してもらうのは大哥が相当できた人物でないと無理なわけなんですよ。
牛大哥…実力は七十二変化のレベルMAXの自分と並ぶ剛の者のくせに人懐っこい末弟の石猴のこと、本当に可愛がってたと思うのですよ。
悟空の父親役を巡って、ワケも分からずにいる功徳仏に火花散らして欲しい正果後です。