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海埜今日子詩集『季碑』について



 この詩の世界が何に似ているだろうと考えて、舞台劇などで、女優が観客に向かってしゃべるモノローグのようなものに似ていると思った。わたしとあなた、彼と彼女、たしかにそのおしゃべりの内容に特定の男女が登場するようなのだが、それは肉体や個性をもった個人の輪郭として、こちらに突出してこない。またそこでは確かに性愛のの所作が語られているようなのだが、濃密なエロスの情感としては伝わってこない。なんだか乾いていて、気分しだいでどのようにも言い換えがが可能なのかもしれない男女の性愛がらみの出来事が、風や鳥の囀りのように語られている舞台劇の即興のようなモノローグ。しかしこれはセリフではなくて、やはり紙に書かれた詩作品なのであった。

 夢というのは、実際に見たそのままを言葉で再現できないのだが、私たちは言葉で再現された結果を、夢(の内容)とみなしている。でも夢でみたことで、印象に残ったストーリーの展開の意外性や現実離れしたシチュエーションは伝えることができても、夢の形象の妙に奥行きを欠いた扁平な感じや、また細部がすごくリアルなのに全体の輪郭がぼけた感じ、というのを言葉で伝えるのは難しい。『季碑』の多くの作品は、夢の記憶のもつ、めだたないが妙にリアルな、そういう感触にふれてくるところもある。

 書く側からいえば、たぶん、ここでは全体のストーリーが印象的な意味として収斂してしまわないように、注意ぶかく言葉が選択されているのだ。ひとつの線をなすような現実の時間の展開は、分断され、混ぜ合わされ、いったん生じそうになった意味の節くれや結び目は解きほぐされる。ただし作者は、ある種の硬い意味の切片を砕かれたガラス片のように随所にちりばめることも忘れない。そのことで、読むものは、全体の意味をとろうとすると、やんわりと翻弄されてしまい、それでいて、あちこちで想念が手傷をうけるようなのだが、そのことが重たくなるまえに、作品の向こう側に抜けていける仕組みになっている。これを作者の私生活の記録の翻案だというのは、ちょうど夢という原酒を意味で薄めて呑むようなことだろう。ここには、風変わりで魅力的な詩の文体が出現している。

 一番の印象でそういうことを書いて置きたかったのだが、この詩集の魅力は別のところにもある。私は深読みが好きなので、作者の作風の秘密をあかしているように思える作品をつい詩集のなかに探していることがある。この詩集でいうと、「季碑 
土地の名という優れた散文詩がちょっと異色で普通のエッセイ風の文体で書いてある。作者はこういう文章も書けるのだ(^^;。というより、こういう文章にもすごく味があることから、逆に作者が詩の言葉の構成に相当意識的なひとだということが推察できるのだ、ともいいそえておこう。この作品では、作者の幼い頃の記憶として、ことばを覚えたてのころ、名前がとても新鮮だったと書かれていて、いくつかの地名があげてある。

「若林、山下、代々木八幡、梅ヶ丘、参宮橋、どれも懐かしい響きです。ちがうでしょ、世田谷代田って言ってごらん。私はわざと言い間違えをしたものでした。セタガヤライタ、セタガヤダイラ。父はとてもうれしそうでした。」「季碑 
土地の名より)

 「季碑 
土地の名では、幼時期の作者と父親の心の交流が、手放しといっていいほどの甘美な幸福感とともに語られているのだが、引用したのは、そのなかでも、とりわけ印象深い個所だ。「父にとても愛され」「父によく似て」いた一人遊びの好きな少女が、覚えたての言葉が面白くて、いろいろと口にだす。世田谷代田。たぶん最初は偶然言い間違えてしまったのだろうが、父親がその言い間違えをおかしがったために、少女は(たぶん父の気をひこうと)、今度は、わざと間違ってしゃべる。それを聞いて「とてもうれしそう」だった父は、幼い娘のそのわざとらしさに気がついていただろうか。その作為性に焦点をあてれば、友人にうけたいためにわざと相撲に負けてやる子供だった、というような太宰治の初期小説の世界になってしまうのだろうが、ここではそういうことがいわれているわけではない。「わざと」間違って言ったことは、父親には、娘の自分に対する親密な甘えとして了解されている。そのうえで、この父娘は、同時にひとつのことに気がついている。それは、「言い間違え」られた言葉ののもつ純粋な響きとしての面白さ、とでもいうようなことだ。

 「セタガヤライタ、セタガヤダイラ」のなんとも奇妙で新鮮な甘い響き。娘もいつかそのことに気がつき、父もその言葉の響きを聞きながら「うれしそう」(たぶん子供のように)に反応している。ここでなにが起こっているのだろう。思うに、ここで作者は、最初の詩をつくり、最初の幸福な聞き手(自己表出としての言葉が届いたと確信できた相手)に巡り会ったのだ。

 無謀にも一気にいってしまいたい気がするので言ってしまうが、たぶんこの詩集に収録されている海埜さんの詩の多くは、この「言い間違え」(通常の言葉の意味や文意のつながりの解体)を「わざと」(つまりは周到な構成意識に基づいて)作品化するという方法に貫かれている。そうしてそれら多くの作品は、かってその最良の理解者だった「父」の原イメージに向かって(また言い添えれば向かうことの「反復」として)書かれているのだと。

 詩集の栞には野村喜和夫氏が「めまいのようだ、海埜今日子の詩を読むことは、」という一文を書かれていて、そのなかに海埜ワールドは「誤解を恐れずにいえば、それはさらにほとんど幼年というに近い、身体の奥深くにしまい込まれた性以前の性の季節というに近い、、、」という個所がある。深い読みだと思うが、私なりにその野村氏の言葉にのせて言わせてもらえば、「身体の奥深くにしまい込まれた性以前の性の季節」に隠された主題を裏返したものが、ちょうど「季碑 
土地の名という作品にあたっているのだと思う。

 幼年期に言葉や他者とであった時のある種の幸福感を、そのまま損なわずに残している詩の書き手はどのくらいいるのだろう。この詩集の作者は多くの人が忘却の底に置き去りにしてしまうようなそういう世界を、「身体の奥深く」から何度もとりだしてきて生きていく力にしてきたに違いない。多くの解釈の言葉はいらない。読者がこの「めまい」にさそわれるような詩集を読んで共振すること。そのとき、たぶん私たちは作者とともに、あの「うれしさ」がはじめて伝わった遠い初源の季節の中にいるのだ。





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     海埜今日子詩集『季碑』(2001年7月1日発行・思潮社)

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