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映画「Dolls」について   



 北野武監督の映画「Dolls」をテレビで見た。コマーシャルのたびに流れが中断されるのにはまいったが、興味深く見たので感想を書いてみたい。この映画は、2002年秋の公開でやや古く、北野武監督作品としては10作目にあたる。従ってネットで検索すると情報が沢山でてくるが、まずは、アマゾンドットコムのDVD販売ページのから、映画レヴューを引用させてもらおう。


「1本の赤い紐に結ばれ、あてもなくさまよう男(西島秀俊)と女(管野美穂)、迫り来る死期を悟った老境のヤクザ(三橋達也)と彼をひたすら待ち続ける女(松原智恵子)、事故で人気の絶頂から転落したアイドル(深田恭子)と、そんな彼女を慕い続ける孤独な青年(松重勉)…。
北野武監督が、3つの物語を交錯させながら繰り広げていく愛の映画。その語り部として文楽「冥土の飛脚」の人形が用いられており、さらには美しい日本の四季を背景に織り混ぜていくという、実に幻想的で色鮮やかに美しい作品に仕上がっており、そこから男と女のあてどもない愛の悲しみが如実に浮かびあがってくる。ファッション世界のカリスマ山本耀司による斬新な衣裳デザインもすこぶる効果的。北野映画の新機軸とも言える秀作である。」(的田也寸)


 この記事をたよりに、記憶をたどりながら書いてみたい。映画では冒頭に文楽「冥土の飛脚」の舞台場面がでてきて、続いて赤い紐で体を結びあった青年男女が桜並木の道を歩いていくシーンに移行する。その移行は容易に文楽の心中ものの道行きの場面を連想させる導入部になっていて、男女がなぜそんなふうに歩いていくのか、という二人の過去のいきさつが明らかにされるという形で映画は展開していく。

 そうして、それぞれ緩やかに関連する現代を舞台にした三つの男女の物語が順次語られていくのだが、映画のところどころに、一話目の男女の道行きのような歩行シーンが、多彩な日本の四季おりおりの自然風景を背景に何度も繰り返し描かれる。この歩行場面の単調さや静けさや様式美みたいなイメージが、この映画の映像的な印象をきめているといっていいと思う。桜や新緑、紅葉、雪景色といった自然の景観の中を、後になり先になるようにしてとぼとぼと歩いていく男女二人の姿は、彼らが景観に合わせた衣裳替えをして、ストーリーから言えばどうにも不自然な扮装をしていることや、心ここにあらずという文楽人形のような面もちであることも含めて、一種人工と自然が反転しあうような印象的な舞台劇的空間をつくりあげている。映像美としてのこの映画はそこが見所なのだと思う。

 映画に盛り込まれた3つのストーリーは、いずれもいわば北野武式恋愛ストーリーとでも言うしかないものだ。一度捨てた女が、自殺未遂の果てに人格を失ってしまったことを知った男が、彼女を病院からさらって二人であてのない彷徨の旅にでるという第一話。自分がまだ若くて堅気だった頃に別れた女性に数十年後に巡り会ったヤクザの組長が、彼女がいまでも自分を待ち続けていることを知り、自分が彼女の待ち続けている男だと悟られないようにしながら、週一度の彼女との逢瀬を生き甲斐にするという第二話。アイドル歌手にいれあげていた青年が、彼女が交通事故で片目を失明して芸能界から引退したことを知り、誰にも会わないという彼女に、故意に自分で両目をついて失明してから面会を求めにいくという第三話。

 これら三つのストーリーは、それぞれシチュエーションを変えながら、男性の側の恋愛心理(異性への一途な憧れや思い入れ)のようなものを描いている。そしてどのストーリーでも、彼らの思いがむくわれそうになる直前で、男女や男の死による切断が訪れるというパターンが共通している。毎日新聞のサイトの映画情報コーナーに掲載されているインタヴュー記事での監督自身の言葉を借りれば「仏心(ほとけごころ)を出した瞬間に立ち切られる、究極の暴力映画」(毎日新聞2002年10月15日東京夕刊から)ということのようなのだった。

 ただここでちょっと言ってみたいことがあるとすれば、この作品で描かれている恋愛は、あくまでも男の側の「絶対感情」の行く末みたいなものとしてであって、あらかじめ男女の情念のもつれのような関係心理の描写は排除されている。そういう意味ではドラマとしての恋愛は描かれていなくて、ただ一方的な片思い(思いこみ)という、恋愛感情の原質のようなものが描かれているだけなのだ。もちろん、それは原質であるからこそ、観客を感動させもするだろう。しかしその代償に映画は、現実的な男女の恋愛の質を描くことを自らに禁じてしまった。このことはもしかするとこの監督の描く映画の主人公の人物造形に共通していえることかもしれないのだが、先に引用したインタヴューの中で、監督はまた別のことを語っている。


(この映画で)「近松門左衛門の世界を現代にっていう気持ちがあって。江戸時代の封建社会では心中があったけど、今はふられたら別の男見つけりゃいいという時代。それでもひっかかるものを描こうと思った。自分は『男女は撮らない』って言われてたし」


 映画製作の動機に関して、自分(タケシ)は恋愛映画は撮らない(撮れない)などと言われていたことに反発して、では撮ってみようじゃないか、というような気分が働いたこと、近松門左衛門の世界、それも心中ものの男女の情念を描いたような世界を、現代を舞台に映画化してみたい、という思いがあって、それは自分の中で、いわゆる現代人の恋愛感覚の相対性みたいなものに問題を投げかけるような愛情表現のあり方を示すようなモチーフとしてあった、というようなことが語られているのだと思う。私の感じでは、この「近松門左衛門の世界」を現代にうつしてみる、という意味での試みは、失敗していると思う。たしかにその心中の道行き場面のもつ様式美を映像化する、ということに関しては、斬新な映像的な効果をあげていると思えるのだが、この世に生きられないと思い決めた男女が死に場所を求めてさまよう、という情念のドラマはうつしとられているとはいいがたい。それは、たぶん男の側の絶対感情という側面からのみ恋愛(心理)を描こうとしたことによるものだ。

 第一話の道行きのような歩行場面が明かすのは、この世の生を断念した相思相愛の男女の情念の哀れさというようなものではなくて、もっと別のもの、いわば愛する女性をただ自分のそばに置いておきたい、他のことはいっさい頭にない、という男の側のいわば閉塞しきったような心の空虚な哀れさだ。もちろん放浪しながら彼女の恢復を願うというような男の心理(仏ごころ)がないまぜになっていることは暗示されているし、彼女が記憶の一部を取り戻して、その恢復の兆しがあらわれるところで、二人に死が訪れるという(ややおなじみの「究極の暴力映画」的)設定にはなってはいるが、これはたぶん、もし第三話のアイドル歌手に憧れているおたく青年が、アイドル歌手を誘拐して放浪するというようなストーリーをつくったとしても、道行き場面は、同じようなことになるのだと思う。

 結局、監督がインタヴューの別の個所で語っているように、「愛なんていう包装紙でくるむと、日本の文化の中では暴力的な死がカモフラージュされる。そこでランク、跳ね上がるのが面白い」という、モチーフの扱い方の問題ではないのだろうか。すこし憶測をまじえて言うと、三つのストーリーは、それぞれ、この世でそい遂げるてだてを奪われた男女が思いあまって死出の旅にでる、という近松の心中もの、長い間別れ別れになっていた男女が、昔交わした約束どうりに再会を果たすという山田洋次監督の映画「幸せの黄色いハンカチ」、美しい全盲の女性主人に仕えていた男が、その女性が顔に火傷をおったのを知り、自らの目をついて彼女に仕えようとする谷崎潤一郎の小説『春琴抄』といった作品を下敷きにしているように思う。こうした「恋愛」の物語に、あえて「暴力的な死」という「切断」を与えたい、というモチーフはわかる感じがするのだが、もともとそれらの作品における「恋愛」の描き方の比重がまるでこの監督の作風と異なっているために、ただその形式をなぞっただけのような印象を与えることになってしまったようにも思えるのだ。

 この映画の三つのストーリーは、どれも女性が、ただ男の「絶対感情」を受け入れる都合のいい器のように描かれていることで共通している。第一話では、自分を失って幼児期に退行してしまったような人格を喪失した人形のような(可愛い)女性が描かれることで、第二話では、数十年の間、好きになった男性を毎週土曜日に手製の弁当をつくって待ち続けるという、子供が思い描く理想化された母親願望の象徴のような、およそ非現実的な女性が描かれることで、第三話では、自分に会いたいあまり両目をつぶしたという元ファンの行為に、異常さでなく「一途さ」をよみとって、心をひらく(彼を薔薇園に誘う)という、やはりおたく青年の夢物語にでてきそうな元アイドル歌手の女性が描かれることによって。女性の側の心の傾斜のプロセスや葛藤はみごとといっていいほど描かれていない。

 ところで、「近松門左衛門の世界」を現代にうつそうとして、男のひとりよがりな恋愛感情の原質しか描けなかったというような、この「失敗」は、制作者が意識したかしなかったかは別にして、逆に「現代」の恋愛の困難さを照射するような結果をもたらしているように思えるのが興味深いところだ。彼女たちが、男性のこうあってほしい願望の象徴のように描かれ、そうであるからこそ、男性の側の人生を棒にふるような行為の「一途さ」がきわだつというこのドラマは、現代にあっては、本当は女性の側の「ふられたら別の男見つけりゃいいという」恋愛感覚や、男性の側の、たとえば第一話に登場する、婚約者を捨てて社長令嬢との結婚を選んだ男の友人が、そりゃあ当然のことで、誰でもそうするでしょう、というようなセリフに、たくみに表現されている現実感覚を前提にしている。第一話の主人公が好きになった女性と婚約するのも、第二話の主人公が若い頃に別れた女性を慕い続けるのも、第三話の主人公が、アイドル歌手に憧れるのも、こうした現実感覚と矛盾しない。しかし男たちの心のドラマがそこから超出するのは、そこでは生き生きと同様に動いているはずの女性たちの心のドラマを、一様に静止させることによってだ。女性たちが、自意識そのものを喪失して世界を従順に受け入れるだけの器ような存在になったり、自分だけを愛しつづけるという理想化された存在として見出されたり、人を愛する=愛される、という契機を失った存在として見出されたりするとき、男たちははじめて、彼女たちへむけられた恋愛感情の原質の「一途さ」を生きることになる。だからここにあるのは、むしろすれちがいなのである。第一話の女性は、婚約者である自分を捨てて社長令嬢にのりかえた親のいいなりになるつまらない男を憎悪し、はらいせのために自殺を企てたのかもしれないという想像の線や、第二話の女性には、数十年の間に他の男性と出会って好きになったりつきあったりというごく自然な体験がなかったのだろうかという想像の線や、第三話の女性は、自分の目をついて全盲になったというなじみのオタク青年に、愛情よりもなにか度はずれたエゴイズムや心理の異様さを感じなかったのだろうか、といった想像の線をたどることは、いずれも物語が禁じている。このつごうのいい願望が、結局その失墜を美(一種いいようのない切断)として描くための装置であることが、みとおせてしまうところに、べつに皮肉な意味でなく、この映画の「現代性」があるのだとすれば、この繰り返される「切断」ののちに、私たちはしばし、時代感性のより根深い部分での空無に触れていると言えるのではないだろうか、とは思ったことだった。








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