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竹内敏喜詩集『燦燦』と『鏡と舞』について   



   竹内敏喜詩集『燦燦』(水仁舎)を読み、前詩集『鏡と舞』(詩学社)も併せて読み返した。『燦燦』は活版印刷で刷られているので、繊細な明朝体の活字がソフトな紙肌に食い込んでいる。その風情がとてもいい。冒頭の作品「忠度」や「予兆」のように、詩行の配置に変化がとんだものがあるのも、偶然の相乗効果をあげている感じだ。刻印された文字がまぶしい、と思ったのは久しぶりだった。


その朝に


詩をかんじる朝がある
それは言葉にはできそうにないものだ
風景などは求めてもいなくて
おどろくほど住みなれれた部屋のなか
しずけさに みつめられながら
すこしだけ緊張している

おさないころ布団にくるまり
鳶のこえを聞いていたことがあった
しだいにからだがむずむずして
カーテンにうつる陽をかぞえたりした
空は澄んでいたのかどうか
その朝に一日の意味が支えられた

読みかえしたい書物はあるけれど
もう ひらかなくてもいいとおもう
表紙の絵柄へ手をかさね
かつてかんじた愛に想像しよう


 ある朝、ふいに詩情のようなものが訪れる時がある。それは特別な風景の印象に刺激を受けてのことではない。身のまわりの環境は、ふだんと変わりはしないのに、いうなればそれは自分の内側からやってきて自分をとらえる心因性の気分のようなものだ。そういうときの心の感触をたどっていくと、しぜんに連想されるのは、自分が幼い頃に、布団にくるまって鳶の声を聴いていたときに感じた、やはりからだの内側から起こってくるような不思議な感覚だ。そのとき、自分の感じた充足感のようなものが、ひとつの(一日の、生の)意味を満たすことがあるのだと、はじめて知ったように思う。読み返したい書物をひもとくように、記憶の道筋をたどりかえすことはしなくてもいい。なつかしいその書物の表紙の絵柄のように、そっと手でふれるだけで自分のうちがわから湧いてくるものを大事にしよう。それが(一日の、生の)意味にふれることなのだから。

 詩集『燦燦』に収録されている「その朝に」という詩を、こんなふうに読みくだいてみると、竹内さんの二冊の詩集を読んだ読者にとっては、たぶん、竹内さんの詩の方法や特徴のようなものが語られていることが気づかれると思う。それは、詩の言葉が、現実からの直截な刺激という場所でえらばれるのでなく、そこからひとつ奥まったような場所で構成されているということ。また、その場所は、内面からこみあげてくるような感覚にふれあうところで「価値」として生まれるということ。さらにいえば、この詩にみられるように、多くの場合ある種の自己や世界の肯定感や幸福感のようなものと内奥で結びついているように思えるというようなことだ。

 これだけ抽象的なことを書くと、それはいわゆる一般的な詩のイメージということとどこが違うのか、と自分でも気になってくるが(^^;、ひとつの原形になりそうな一般的な詩のイメージというものがあるとすれば、竹内さんの作品は、たしかにそれに近い。というのは、結局そういうことは、この文章を書いている私の思い描く詩のイメージということを離れてはないことで、そういう私の基準からすれば、かなり原形的というか、私の好みに近いということになると思う。

 なぜこんなにまわりくどいことをいうかといえば、多くの人が、この作品に描かれているような、幼い頃の詩的な体験というものをもつことは確かなことのように思われるのに、そうしたことを、長じてのちに書かれる「詩」なるもののなかに、内面の通路のように明かしてみせる詩の書き手というのは、むしろ稀なのではないか、と思うからだ(こういうことを何度も書いている気がするが)。詩は一方で、「方法」とか「技巧」とか「思想」というものを磁鉄のように吸い寄せる。また隠すことでみせるという手の込んだことが芸(言葉の芸術)というところもある。そういう意味で竹内さんの詩は素肌をさらしているところがある。もちろんそれは芸がないということではなくて、技巧がなににむかっているかというところで、たぶんいつもまっさらな遠い記憶の情緒に届こうとしているということなのだ。

 竹内さんの詩は難しい言葉を使っていないし、感覚的な表現への嗜好があるので、その感覚に共振できれば、すっとわかった感じになる。けれどよく読むととても難解だ。この難解な感じは、いいたいことや、書きたいことがある確信で作者にとらえられているのに、それを説明する言葉が抑制されたり、省略されている、という印象を与えるような難解さだといっていい。うえにあげた「その朝に」でいうなら、ある朝、詩を感じたときに、なぜ作者は風景に見つめられているように思い、すこしだけ「緊張している」のだろうか。その理由は書かれていない。たぶん、この「すこしだけ」の「緊張」が、竹内さんが詩にむかうときの、美の構成意識なのだと思う。それは自己が自己像を相対化したり絶対化するときに走る小さな亀裂のようなものふみこえる、そのときの緊張感なのだ、というように。


  小鳥に羽が生えそろうほどの


春さきの雨が地上をにじませ
雑草はまだ 根つきのあさい土のうえ

おのれの翼で身をあたためる姿にキリストをみつけたなら
他人の過去をのぞいてはいけないとひとこえ
霞のむこうへきえゆく鳥よ

ひらかれたままの絵本が雨つぶにおさえつけられ
死は挿しだす場をたしかめることなく息絶えている

死者のまぶたへふれるように絵本をとじるのは愛情だろうか

ひとを 抱きしめたくなれば
ちょっとした紙幣でもたりるというのに
抱きしめられるためには小鳥に羽が生えそろうほどの
「時」が必要だとしたら

雨に世界がかすみはじめたのはいつからだろう

そこには 怒りや恐怖をひそめて
彼がよこたわっている


 この詩は「鏡と舞」の冒頭におかれた、とても印象的な作品だ。「鏡と舞」は、たぶんある「恋愛」をテーマにした詩集なのだが、そのはじまりをつげるという位置にもおかれている。他人の過去を覗いてはいけないと告げて去っていく(キリストの化身のような)鳥影、死者を連想させる雨ざらしの絵本、これが春先の雨の情景をかりた心象風景であることを明かすように、さいごにそこによこたわる「彼」(それが過去の死者なのか、作者自身の心象の自己像なのか、またキリストそのひとを暗示しているのかはわからない)がでてくる。だがこうしたことの関連は証されず、すべて謎に満ちてはいる。誤解をおそれずにいえば、なにかの宗教的な葛藤をひめているような事情から、自分の過去を封印したまま、あたらしく異性との関係をとりむすぼうとしているものの心情の高ぶりのようなものが、ある種の自己劇化された緊張感とともに届いてくるといっていい。

 この詩にみられるように、竹内さんの作品には一種のキリスト教的な感性(倫理性)への傾斜とでもいいたいものがあって、それが、冒頭にあげた作品の「すこしだけの緊張」に深く関わっているように思える。それは作品の中だけでの真実かもしれないような技巧や修辞、ということから半歩くらい踏み出しているように見えるところがあって、たぶん何年も間をおいて書かれたと思える「剥落」(詩集『燦燦』所収)という作品にもあらわれている。


剥落


ゆびが あんまり痩せほそって
水さえすくない

こぼれおちる光りは
洗面台をすべってむこうへといそぐけれども
あかぎれるこの両手から
また なけなしのいろをさらっていく

 せいしょについてかんがえはじめると
 くたくたにつかれるまでとまらなかったのは
 どうしてだろう

たとえば 祈りや
歌といったゆらめきでは
もはやなく

 ことばによるふくしゅうとは
 ちょうかくてきなはんすうだとしるしたひともいた

かつての声をつぎつぎに奏でるような----

 よみかえせばもじがぬけていたり
 みしらぬごのはいりこむてがみもふえて

やさしい 血のおもいでを


 この詩も、全体は感覚的で、まとまった意味をうけとるのは難しい。ただなにかの出来事によるわだかまりが作者の心に重くのしかかっていて、その反芻からわきでてきたような想念のきれぎれを言葉にしているために、内的には意味は完結していて、それが現れていないだけだということが想像できそうな気がする。出来事と聖書を読むことの関連は暗示されている程度だが、ことばのでかたが感覚的なだけに、その親しみの度合いがわかる、といったところがある。もう一作、これはまとまっていて、すぐにしっくりくる作品だ。


聖夜


だれも知らないけれど
一日の仕事のあとに
母親はいねむりをしながら
編んでいる

糸をかさねる波が
ゆめのなかへと満ち引きし
何千年もの
あたらしい光に誘われて

そして御使(みつかい)も気づかないうちに
届けられたセーターには
天上のあたたかさが
いつしかつまっている


 クリスマスに母親から手編みのセーターを与えられた子供の喜び、というより、そういう人間の営為にこめられた肯定的な意味が、寓話的にひいた場所から驚くほど甘く優しくまとめられていてる。子供のために編み物をする母親というイメージが、小学唱歌にあるような手袋を編む「かあさん」の「よなべ仕事」的な現実的ないみあいを脱色して辿り着いている「母親はいねむりをしながら/編んでいる」という言葉の天上的な(^^)優しさは、ちょっと無類の効果をあげていると思う。

 ここまで、宗教的な感性への傾斜ということを漠然と考えながら、よみ終えた詩集から、ぱらぱらと作品を紹介してみたが、これでは未知の読者にかたよった印象をあたえることになりかねないな、と思う。竹内さんの詩の多くは、冒頭の詩の一連目にあったように「風景などは求めてもいなくて/おどろくほど住みなれれた部屋のなか/しずけさに みつめられながら」、じっくり、しっとりと書かれたモノローグのような作品だ。いつも「おんな」という言葉であらわされる女性との関係を書いた一種の恋愛詩とでも呼べそうな作品が、『鏡と舞』の後半に多くでていて、それが『燦燦』でテーマや描き方の方法が、楽しいユーモアのセンスを含め、ぐっとひらけてきたように思える。自由で多彩な感じになってきたが、かわらない芯のようなところがあって安心して読める。宗教性への傾斜、ということもそのかわらない部分のひとつにすぎない。たとえば、恋愛詩の展開としてとか、作者の蜘蛛好きとか、清潔好き、ということでも一貫していて、そういったことに即しても別様の紹介文が書けると思うが、それは別の機会にゆずりたい(^^)。最期に私の好きな「庵」という詩をあげておきます。





そこから何をみているのだろうと
庵のなかへ入り込み
ならんで座ったことがある
こどもにかえって斜面をおりていく友人の
うごきが 草木をおしのける声となってつたわり
ときおりたのしそうな叫びも聞こえていた午後三時
二人はすでに酔っていた
ゴミ捨て場のようなバス停で雨やどりするあいだ
日本酒をちびりちびりと呑んでいたから
それから吉野の道をのぼり
くだりして
どこにもひとをみかけなかったから。
遠景のないありふれた眺めか
うぐいすの声はあかるい
尻のしたにちらばる小銭を手にとってみる
山むこうからおおきな風が吹きすぎる
となりの西行像はじっとする
ひとの風貌をまとって
待つでなく
耐えるでもなく
となりに西行はじっとしている。
声が ひびく あかるさ
どれくらいの「時」が落ちたのか
こころのうちを反響するあかりをたしかめると
うつむいた顔をあげ
ひとりであることを思っている



ARCH

『燦燦』(水仁舎 2004年5月15日発行)

ARCH

『鏡と舞』(詩学社 2001年10月18日発行)

 最期に、この詩集『燦燦』のしゃれた装丁にもふれておきたい。この詩集は、タイトル文字を金箔でおしたしっとりとした濃緑色のケースカバーに覆われている。装丁者は、水仁舎の北見俊一さんという方。美装の本を蒐集する趣味というのはもちあわせていないけれど、ただ目にふれる機会がないだけで、やはり美しいものは美しいと思った(^^)。北見さんは元詩学社におられた方で、詩学社刊の『鏡と舞』も同氏の装丁によるものだという。これまでも沢山の詩集制作に携わってこられたのだと思う。
 『鏡と舞』の表紙では、タイトル文字が銀箔を貼ったような枠の中に収まっている。その「鏡」の中で、「鏡と舞」というタイトル文字の「と」という言葉を挟んで上下に小さく作者名が英語と日本語表記で記され、ちょうど合わせ鏡にうつる鏡像を模したようなしゃれた作りになっているのだ。こういう遊び心をひめた手仕事というのも今ではあまりみかけなくなっていると思う(またしても私が知らないだけかもしれないが)。







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