[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




平居謙詩集『春の弾丸』について   



ねこ


猫みたいな声をだしてください
キャンプファイアーの罰ゲームで
彼女は言われたんだけど
真っ赤になった顔は
炎のせいで
誰にも気づかれなかったのさ
だから彼女は
割合平気ぶって
彼といるときみたいに
甘えた声をマイクに向かって
少しだけ鳴いた


 平居さんの詩の特徴のひとつは独特なエロスへの傾斜やこだわりにあると思う。エロスの扱いかたは作品によってさまざまだが、この「ねこ」という詩にも、そういう特徴がよくでている。キャンプファイアーの罰ゲームで猫みたいな声をだしてくれと言われた女性が、その要請の含意する性的なニュアンスを(過敏に)察知して、さっと顔をあからめる。けれど彼女はそのことが顔を照らす炎のせいで誰にも気付かれていないことにすぐ気をとりなおして、さりげなく甘えた声で猫の鳴き真似をしてみせた。

 この詩では、彼女が顔をあからめるのを「語り手(だけ)」が見た、ということが、詩のエロスの核心になっているように思える。炎のせいで、誰にも気づかれないはずなのに、なぜ「語り手」だけにそのことがわかったのか。それは、彼女が顔を赤らめるはずだということを「語り手のわたし(だけ)」が知っていて、彼女の過敏な連想の経路に、すぐ感応することができたからだ、というふうにも受け取ることができそうだ。

 では、そのような「わたし」とは、彼女の恋人だというふうに解釈できるだろうか。そうみなせそうで、そうではないところに、たぶん作者の(へんな言い方だが)誠実さがあるように思う。端的にそういいきれないのは、作品中の「彼といるみたいに」という行が、彼女には別の男友達(恋人)がいるかもしれないことを暗示しているからだが、作品からこの行をとりさってしまえば、「わたし=語り手」=彼女の恋人、という解釈は成立するし、作品としてもしっくりくる感じがする。けれど、「彼といるみたいに」という行があることで、わたしだけが知っている、ということの意味が、別の客観性にみちびかれる。この詩は、恋人である「わたし」だけにわかるような彼女の仕草を歌った作品ではなくて、作者が、彼女の「恋人=彼」の位置に想像的に自分「わたし」をおいて歌った作品であり、いわばエロスの観察者のうたなのだというように。この作品が、そういいたければ青春映画のワンシーンのような感じをさせるのもそのことと無関係ではないだろう。

 この作者の、独特なエロスへの傾斜ということは、たぶんこのエロスの観察者としての位置をその体験者、当事者としての位置にすりかえたり、あいまいにしたりすることへのこだわりからきている、というような感じがする。この一線を越えてしまうことで、語り手は詩のうえで性的なスーパーマンに変身したり、自在に「過激」になったりすることができる。また、その一線をこえることが、日常の言葉の保守性や規範をこえることであるという意味で、そういう作品がうまれる動機もありふれてはいるだろう。ただそういう「禁忌を破る」といったことの意味は、たぶんもう言葉のみかけほどには、過激なことでも、刺激的なことでもなくなっている。

 エロスの観察者という位置は、性についての情報が氾濫し、それを自然なことのように呼吸して育った世代の感覚、実生活での体験とうらはらに、性的なイメージの体験だけは老練な耳年増目年増のように浴びている時代や世代の感覚に、そのまま重ねられるところがあるように思える。このことが、どれだけの規模と深さで時代や世代の観念のなかに浸透しているのかよくわからないが、過剰な性のイメージが現実の他者との関係の中できしみをあげる、そのことが、不可避な受苦のように自分の自然な性のイメージにまで浸透していることの感覚が、よく分離されているように思える作品をあげてみよう。


狂った僕のハーモニカ


歪んだ音符を吐き出しながら
僕のハーモニカは空を飛ぶ
曲げられた時間。
友だちに戻ろうよ。
とか彼女は歌うのだ。
ともかくぽろぽろ泣きながら
行ったこともない廃船置き場で。
ソレヲ吹くヲンナの顎を夢に見たり
ソレヲ吸う顎の角度に憧れたり。
山で匂う嫌なにおい
記憶の生ぬるい味。
部屋。
濁った果実酒。

ごめん、
言ってる意味が
分からない
ごめん、
言ってる意味が
分からないよ
風の音に遮られて
そんなふうにしか
聴こえない
どんなに美しく
吹こうとしていることやら。
それなのに、
歪んだ音符を吐き出しながら
僕のハーモニカは空を飛ぶ。


 意味の連鎖というより、イメージの連鎖でたどっていくと、恋人に別れを告げられた「僕」が、その事実を否認したくて、泣きながらハーモニカを吹いている。その行為は彼女の思い出をとかしこんだ一種の自己慰撫につながるものであるはずなのに、ハーモニカからは歪んだ音(妙にリアルな願望としての性的なイメージの記憶や想像)しかでてこない。けれどそうであることが、僕のなけなしの心象なのだ、というようなことが語られているように思える。性そのものが忌避されているわけではない。むしろ自分のなかで性の自然性が生理のようにたかまっていること、それがエロスとして関係の幸福に結びつくことが信じられている。しかし、そうした性のイメージが一方で、「狂ったハーモニカ」の奏でる「歪んだ音符」や「嫌な匂い」といった否定的な色合いで染め上げられているのは、たぶん、関係の喪失という事態、が、もたらしたものではない。むしろ関係の喪失とは、そのことを「僕」に気付かせる契機のように描かれようとしているのだといっていいように思える。

 エロスの観察者であること、性のイメージをきわどく、克明に再現できること、そういうことも書く本人にとっては意味あることだということは今も昔も変わらないかもしれない。しかし昔と変わっているということがあるとしたら、そうした表現の意味がある水準や衝撃の度合いで共有できるというような場がもうどこにも想像できないように思えることだ。ハーモニカの美しい音色のほうが虚偽で、歪んだ音をだすハーモニカのほうが、本当だ、というところまでいきついたところで、「狂った」という言葉は、もう内容的な関連と実質をうしない飾りのようになってしまう。


やどかり


この先、どこまで行こうかな。
そんなことを、
潮の香りに晒されながら
ちょっと考えてみようか、などと
思っていたんだけれどね。
哲学的にね。
でも、
うかれちゃったよ
うん、
うんとうんと
うかれちゃった。
あの夜はね。
打ち返す波の合間から
ふと砂浜の方に目をやれば
そこには二匹の
犬がいたんだ。
蟹の類であるおいらと犬とは
無縁の間柄で
おそらく言葉も歌もなく、
そこには視線の交わりさえも
何もない
ただ、フラダンスをおどる
二匹の犬たち
を見ていた
もしかしたらそれは
決して見てはいけない
犬たちのまぐYなのかもしれないけれど
おいらに分かるはずもなく、
ただフラダンスをおどる
犬を見ていた
うかつだったね
うかれちゃったよ
おいらは固い貝殻を抜け出して
ぴんく色の粘膜をぺたぺたさせながら
浜辺を歩いてしまったんだ
やどかりだというのに
やどかりだというのに
うかつだったね
うかれちゃったね
今もまだその浮かれ具合が
おいらの新しい殻の中に
音感のように残っていて
ぎくしゃくぎくしゃくと
不協な残像をつくっているのさ
だけれども、決してそれは
嫌な残り香などじゃなく
潮が引いて吹っ切れた朝の光の中に済んでる
みたいな
輝かしいような
馬鹿馬鹿しいような具合の変てこな
二匹のフラダンスをおどる
犬たちとの
出会いのように鮮烈でリアルな
匂いを
おいらがやどかりであるという
定義の中に、
ふとなつかしい異和を
むんむんと放っているのだ


 この「やどかり」という作品には、作者の詩法がよくあらわれているように思える。犬たちの踊る情景を見て、「やどかり」である「おいら」が感じた衝撃とその追想もふくめた、ひとつながりの体験の表白が、作者にとっての作品を創作する契機と、その表現上でうちたい強点までを証しているように思えるからだ。

   この作品は、あるとき哲学的な思慮にふけりながら浜辺を散歩していた作者が、とつぜん目の前で二匹の犬が交合しているのを見出して、思わず我を忘れて見入ってしまったという体験を、そのとき感じた強い印象とともに思い出し、それを書き留めていると考えることができるだろうか。そういう体験が下敷きにありそうなことはおくとして、目につく特徴は、書き手の作者が「やどかり」になぞらえられたり、(たぶんひろい意味での)エロス的なイメージが「二匹の犬のフラダンス」になぞらえたりしていることだ。こうしたなぞらえは、作品に軽い調子をあたえているが、作品の内容は作者にとってのエロスのイメージをとらえようとするときに生じるとても誠実な心情の告白になっているような気がする。

 最初に浜辺近くの海上で浮いているやどかりは、これから詩を書こうとする作者の思いをうつしたもののように現れる。哲学的に(ちょっと襟をただしてというところだろうか)、自分のゆくすえについて思索しながら詩を書きたいと思った。けれどこのやどかりは、浜辺で演じられている二匹の犬のフラダンスを目撃したことで、つい「うかつ」に浜辺にひきよせられてしまい、やがては「うかれ」て浜辺を歩いてしまう。思索どころではなくなってしまったのだ。それは「やどかり」である「おいら」が、固い殻まで脱ぎ捨てて身をさらすような、危険に満ちた「うかつ」なことだったけれど、自分とは無関係な犬たちの踊りをただ見ていたというそのことが、自分を「うかれ」させた、その気分というものは、けして嫌なものではなかった。作者は、このいわくいいがたい印象を、「潮が引いて吹っ切れた朝の光の中に済んでる/みたいな」とか「輝かしいような/馬鹿馬鹿しいような具合の変てこな」、「出会いのように鮮烈でリアルな」といった、いろんな言い方で表現しようとしているが、たぶんここが、いちばんの喩の発生の現場でありながら、価値概念にひっかかってうまくいえないようなスリリングな印象をあたえる個所だと思う。

 この作品で、なぜ「おいら」は「やどかり」になぞらえられているのだろうと考えてみると、それは作品に浜辺の「やどかりと犬のフラダンスの出会い」というシュールな舞台装置でナンセンスな軽い調子を与えるということ以上の意味をもっているように思える。そういう視点からいえば、この作品で書かれていることは、「この先、どこまでいこうかな。」という詩の冒頭の行に対応するように、この先、ではなく、これまで生起したことが語られているのだ。「やどかり」が、浮かれて思わず知らず固い殻を脱ぎ捨てて「ぴんく色の粘膜をぺたぺたさせながら/浜辺を歩いてしまった」ことは、そのまま作者の性の目覚めを暗示している。そのことの意味が、(まだ)「おいらに分かるはずもなく」というふうに見られた二匹の犬のフラダンスは、フロイトなら、原光景と呼ぶところかもしれない。そうして、成長して新しい殻(自我)のよろいを身につけた今の「おいら」の中にも、その体験の残響というようなものが、なまなましく「なつかしい異和」のように残っているのだ、と。

 こんなふうに読み解いてみると、この詩は、前記したように、「思索どころでなくなってしまった」ということではなく、象徴的に作者の過去の原体験をめぐることで、「思索」を果たしている詩なのだといえると思う。喩の発生の現場でちらすスパークは、たぶんさまざまな意味を呼び込むことを作者に要請する。人間は「やどかり」なのに、自分は「やどかり」の中に「ぴんく色の粘膜」を見てしまうこと、その「なつかしい異和」は、「誰にも気付かれなかった」彼女の羞恥にほてった顔や、「狂ったハーモニカの音色」として、この作者のいくつもの作品に遍在する。その異和を語り解きたいというモチーフが、この作者を作品の創作に向かわせる強いうながしのひとつになっているという感じがする。


註)「狂ったハーモニカ」には、転載させてもらった本文以下に、註としての詩句がついていましたが、その個所の表記は省略させてもらいました。他の引用詩は作品の全文です。



ARCH

平居謙詩集『春の弾丸』(草原詩社 2004年3月20日発行・1500円)








[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]