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白井明大詩集『心を縫う』について   



 「心を縫う」は、不思議な味わいのある恋愛詩集だ。この不思議な味わいを、なんといえばいいのかよくわからない。都会でアパート住まいをしている青年がひとりの女性に恋をする。この現在進行形で恋をしているときの自分の気持ちの振幅を、できるだけ夾雑物を取り去って、拡大鏡をあてるように正確に描いてみる。そうするとこういう詩群がうまれるのだろうか。詩は一見手放しで、恋人に対する自分の思いのたけを自然になぞるように書かれているように見える。けれど、すこし注意して読むと、場面の転換や、言葉の選びかたに、独特のつよい選択が働いていて、いわば、全編が深みのある淡彩画のようなタッチで統一されている。恋愛感情に特有な求心的な心の動きを、あえて観念的な比喩やいいまわしを排除して再現してみた、というような印象をうけるのだ。ただそういうことが、作者の方法的な作品の構成意識の所産というふうに言いきれないところがあるのは、それが一方で作者の資質がまねきよせた取り替えのきかない心のドラマのようにも見えるからだ。


そうじ


夕方そうじをしていて
窓の向かい
こっちよりもすこし高い建物が
黄赤がかっているのをみていて
せつなくなった
ときみにメールする

返事は声が来て
そうじ嫌だったんじゃないの
とはぐらかされて
笑われていながら
そうかも
笑い返しているうちに

日が
ずいぶんうすくなってきて
もうへいき
と答える

さっきまであんな
黄赤がかっていた建物の壁が
もう暗がりにまぎれている

いろんな物を袋につめて
洗たく機のわきにまとめて置いて
耳をすますとさっきの声が
残っててきこえる

いつまでも残ってて
わるいな
という気がして
もうせつなさは
なくなっていいにした


 掃除をしていて、ふと窓の外の建物が夕光に染まっているのに目をとめる。その夕映えの美しさを見ているうちに、せつない気分になったことを恋人に伝えたくて(たぶん携帯電話で)メールをだす。恋人からは、すぐに(たぶん携帯電話で)声の返事が返ってきて、そんなロマンチックなこといって、本当は掃除をさぼりたかっただけなんじゃないの、と優しく冗談めかして言われ、やんわりとはぐらかされたようにも感じるが、恋人と楽しく話しているうちに伝えたかった思いも自分のなかで落ち着いてきたように感じて電話をきる。
 たぶんこういうことは誰にもあると思うのだが、この作品で印象的なのは、やはり最期の連だ。恋人と楽しく話しただけなのに、「わるいな」という気がしたのは、なぜだろう。自分本位の理由でメールを出して、相手に負担をかけたかもしれない、メールをしたら、相手がきっと電話してきてくれるだろう、という相手の気持ちを予想して、けっきょく自分は相手の気持ちに甘えてメールを出したのではなかったか、そういうふうに語り手の気持ちが動いたとすれば、そうした関係への気遣いが、せつなさ、という自己感情を思いのまま相手に伝える事を、もうやめよう、というような、ひとつの決意(思いきめ)のようになっていったのが納得できる。これはちょっと大袈裟にいえば、幸福な他者の発見のプロセスを描いているという言い方をしてもいいかもしれない。この作品で恋人が他者性をあらわすのは、否認や、拒否のみぶりとしてでなく、もし自分が連絡すれば、かならずこたえてくれる、そういう信頼感のうえで、恋人のこたえてくれる気持ちの裏側にあるものを気遣う、というかたちで、語り手は自分のなかの他者像を確かめているという流れのなかにあるからだ。
 この詩が現代的だといえるとしたら、たぶん、メールや電話という交通手段が、手段としてあまりに手軽にあることから生じている「自由な」事態から、人の心がどんなふうな契機で、相手を思いやるような距離をおけるのか、というテーマが自ずと表現されているからだと思う。


部屋と


この部屋は
深呼吸をはじめようと
肺が大きく
開いている
ように空いている

きみがやって来る
スペースを空けようと
部屋が
いつになくよそいきの
表情というか
佇まいというかをして
きれいに深呼吸する
ように
ののんのんと
空いている

嬉しいのは
ぼくなのに
部屋が嬉しくしていて
来るのはきみだから
部屋はときときと
よそいきの
ナリをしはじめて
大きくスペースを空けて

かと言って
ぼくの居場所が
小さくなるとかでなく
ただ
きみがいるぶんだけ
広くなっていく
また今日も
また明日も


 時々恋人がやってくるアパートの一室。ふだん見慣れていてなにげなく過ごしているその部屋が、恋人がやってくるというだけで、明るく新鮮に息づいてみえる。部屋を整頓したり掃除をすることの意味のひとつひとつが、自分ひとりのためでなく、未来の恋人の来訪に関係づけられているからだ。こういうことも体験者には(^^;よくわかる感じがすると思う。弾んでいる自分の気持ちが、自分の手で整理された部屋という空間に形になって現れることで外化され、そのことで、「嬉しいのは/ぼく」なのに「部屋が嬉しくして」いるような充足感に満たされる。こういう魔法にかかったような恋愛の症状(^^;が、うまくすくいあげられている。ただ、ふつうだったら、この部屋自体が嬉しがっているという感覚は、いえそうでいえないところだと思う。そのことがオーバーでなく、実感のように伝わってくるところに、技巧とはいえないような作者の資質の伸展が表されているような感じをうける。


匂い


おきなわの匂いがする
、ていうと
何が
、てきかれる

そばに寄って
 台所で
肩先にうしろから
 料理のあいま

鼻を近づけて
 うしろから抱きしめて
肌のうえにとどまっている
 迷惑がられながら
匂いを嗅いでいる

包丁の手が止まって
鍋が火にかかったままで
換気扇が回りっぱなしで
まな板の何か
鶏肉でもニンジンでもピーマンでも
切られ途中でいて

道を走る
さざ波の音
洗たく物をかわかす
椰子の風

匂いのもとの
日焼けどめの肌を
なめたら
潮の味がした


 キッチンの流し台にむかって料理を制作中の恋人に背後から近づいて行ってそっと抱きしめる。恋愛映画のワンシーンにでもありそうな情景を描いたこの作品は、この恋愛詩集のなかに置かれたとき、ある種のスケール感のある奥行きをつくっているように思える。それは、いくつもの作品の中で、いつも恋人の気持ちを無限に気遣っているような「ぼく」の、恋人への接し方が、ちょうど「ぼく」が故郷の風物のイメージを懐かしみ、遙かに慈しむ時のような肯定的な感情に重ねられているのではないか、と連想をさそうからだ。都会のアパートの窓から届く雑踏や行き交う車のかもしだす喧噪も、故郷の海辺にうち寄せるさざ波のように聞こえるときがあるし、青い空を背景にすれば建てこんだ住宅地のベランダの洗濯物のはためきも椰子の葉を揺らして吹き過ぎる風のように思えるときもある。こういう故郷を離れて都会で暮らす人の感覚が、恋人であるその人の「日焼けどめの肌」の匂いに溶け合っている。そういう発見の驚きや、そういう連想の面白さ、ということでなく、そうした生活実感を表現する心の通路の自然さ、のようなものが、たぶんこの詩の実現していることだ。その思いの重さが、「何が」(?)といわれたり、「迷惑がられ」たりすることの、人間同士の関係が本来もっているそこはかとない危うさをはらみながら。






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白井明大詩集『心を縫う』(2004年6月30日発行 詩学社・1700円)








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