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坂井信夫詩集『黄泉へのモノローグ』ノート   



 「あれから100年かけて、ようやく人間になった」という「おれ」が、そのことを「おまえ」に告げるために、「内なる方向指示器」のしめすまま、とある山の山頂をめざす。辿り着いた山頂の円形劇場のような原っぱで、「おれ」は、切り株の底の黄泉の国から現れた「おまえ」に出会い、「おまえ」の演じる所作や踊りを見ているうちに、過去(人間であった頃)に見た映画のシーンをその場の記憶の情景とともに思い出す。翌日も、またその翌日も。。。

 そういう日毎夜毎のくりかえしが、「おまえ」の扮装や所作、そこに流れる音楽、想起される映画、といった趣向を、毎回微妙にかえて十数回続く(註1)。最後の数日、「おまえ」の演じる舞台劇を見た後に、「おまえ」が鶴の姿に変身するのをみとどけた「おれ」は、ちょうど手持ちの一箱の煙草が尽きた20日目に「山からおりる」ことを決意する。20の詩章からなる坂井信夫詩集『黄泉へのモノローグ』は、そういう驚くべき構成をもった一編の長篇散文詩として成立している。

 遠い過去に死んだ恋人の霊をとむらうために、ある山の山頂(黄泉の国につながっているような霊場)にやってきた男が、そこで亡霊となった女のこの世への執着の姿を日毎夜毎にみとどけ、その結果、彼女の霊は、鳥となって成仏する。そういう民俗伝承や能舞台のようなストーリーの構成を、この長編詩に重ねることはできるかもしれない。

 けれど、作品を読んでいて感じるのは、そうした古典的な物語の枠組みを故意に踏み外していくような、いくつものイメージの広がりや強さのようなものだ。そのひとつは、「おれ」=「作者」と同定したくなるような、「おれ」の断片化した記憶の描写の鮮烈さがもたらすリアルな情緒であり、ひとつは、「おれ」という言葉が、任意の記号でしかないような、全編がいかにも「つくりもの」のような感触をもたらす「恣意性」や「趣味性」に満ちた雰囲気だ。このふたつの逆方向の強いイメージの動きは、「おれ」と「おまえ」の関係でいえば、そこにふたりの情緒的な深い結びつきを暗示する言葉と、二人の関係が仮構的につくられた形式的なものにすぎない雰囲気を匂わすイメージの混在という言い方で示すことができるかもしれない。印象は個々の個所でひきさかれていき、全体としては、詩の中にでてくる「もどろぎ座」という言葉のように、不思議なもどろ(まだら模様)の世界をつくりあげているという感じがする。

 ところで、この作品の「黄泉へのモノローグ」というタイトルは、とても象徴的に思える。この作品で語られているのが、「おれ」と「おまえ」の物語(「おまえ」という対象の存在や所作に感応して、「おれ」が語る物語)のようでありながら、実は「おれ」のモノローグ(独白)でしかないことを、予め、あかしているように思えるからだ。「おれ」が「おまえ」の姿をみて想起するのは、過去に聴いた音楽や、映画のシーンなのだが、その映画(をみたこと)と「おまえ」の関係は、いつも緊密に結びついているわけではない。むしろ「おまえ」と無関係に、「おれ」は自分の過去の記憶に沈潜しているようにみえるところがある。それが10数回もバリエーションを変えて変奏されると、「おまえ」という存在は、逆に「おれ」が、これまで書いていなかった別の映画のシーンの印象を顕現する(独白する)ために使われている道具だてのようにも思えてくる。

 たしかに、最後には、「おれ」は、「おまえ」が鶴の姿に変身したのを見届けて、「そうか、おまえは百年かかって鳥に戻れたのかと、おれの胸ははり裂けそうになった。」と「おれ」が感じたかように作者は書く。しかし同時に、「ああ あたしにはおまえしかみえない」という「おまえ」の言葉をさして、「偽の台詞を口にするのだ」とも書いている。

 要するに、なにか度をこしたものをめざして、作品がつくられているようなのだが、そのことで、「記憶の物語化」ということの意味をめぐって、読者はちょっと名状しがたいような思いに誘われることになる。この作品にこめられた「おれ」の記憶。そこには確かに誰にも覚えのあるような、ある忘れがたい女性についての作者の青年期の思い出が溶かしこまれている感じがする。しかし、その思い出は、作者である「おれ」が、その青年期にみた映画のシーンを想起することと、どこかで区別することができなくなっている。というよりも、私たちが自明のように考えている、この記憶の「区別」ということは、作者のしめすような、ある舞台(観念=言葉の場所)の中で平準化されてしまう。それはどういうことなのか。

 これには確証も何もなくてうまくいえないのだが、この物語詩は、なにかに誠実であろうとして、その誠実さをまっとうできないというようなこと、誠実であろうとすると、そのことを逆に裏切るような形でしか記憶が想起できないような「現在」ということの、喩になっているのではないか、といえそうな気がする。人にとって、現実に、ある忘れがたい女性がいたとすれば、彼女についての記憶は、私たちの生の一回性とでもいうものにつつまれている。彼女と出会ったのは、ある特定の年のある日のある午後であり、ある場所で、ある音楽を聴きながら語りあい、ある映画を見に行った、、、それは歴史の時間に動かしがたく埋め込まれたような「事実」である他ない。そういう記憶のありかたを、この物語の構成はみごとに裏切っている。そこには、こうした一回性の記憶が呼び起こすはずの「再現」がないからだ。物語の「おれ」が「おまえ」の現前のたびに想起するのは、常に別の場所、別の記憶でなくてはならない。同じ記憶、たぶん彼女と自分を結びつける一番重要な記憶を何度も呼び起こしてはならない。物語にそういうルールを課したとき、語るべきことは微妙に変質する。あたかも記憶の中に「おまえ」が「不在」というかたちで遍在していたかのような、「偽の」「おまえ」を記憶はまとうことになるのだ。

 物語では、シャンソンの「パダン、パダン」という曲が、ある意味「おれ」と「おまえ」を結びつけるテーマ曲のように何度も流れる。しかし、その曲の歌い手は、エディット・ピアフ、イベット・ジロー、岸洋子、ローラ・ベルティエ、律彩子、パターシュ、マショーンというように、そのつど異なっていることが強調されている。ここで、もしそれが一回性の記憶としての「曲」だとすれば、その思い出は曲の固有な歌い手とも結びついている筈ではないだろうか。物語はそうでなく、いわば、歌い手の固有名よりも「曲」そのものの再現にこだわっている。この固有名と曲の関係は、ちょうど、「おまえ」の記憶とその舞台の関係に似ている。

 「木は森にかくせ」といったのは、チェスタートンだったが、この物語の手法を、いわば数ある「偽の」思い出の中に、本当の思い出を、まぎれこませるためのものではなかったか、と考えることはできそうな気もする。では、この「再現」を禁じるというルールによって、変形された「おまえ」の記憶の、「おまえ」とは、いったいだれなのか。

 そういう問いは、唯一作者のモノローグの舞台の外側からやってくるような、「おまえ」が崩折れるのをさして《あれは死後の疲れだ》と「おれ」の耳もとで囁く「死者K」、「音楽は、悲しんでいる者がさらに悲しむために聴くのだ、」と、「おれ」の耳元でささやく「かってゆるやかな自死をとげた詩人K」という存在のことを、想起させるように思える。この「おれ」と「おまえ」の物語で、ただひとりその外部にいるような「詩人K」は、作者にとって、どのような「黄泉」との境界にある存在なのだろうか、と問うところで、想念は、もうたちどまるほかないとしても。



付記)著者はこれまでに20冊の詩集を上梓されていて、本書は21冊目にあたるという。この詩集の出版記念会のときに、主席者には、倉田良成さんの「もどろぎの座---『黄泉へのモノローグ』小考」という詩集評が配られた。それは、この作品を「痛切な恋愛詩集」として読む優れた読解で、すでにこの一文を書き上げていた私としては、一読して、自分は相当的はずれなことを書いたのかもしれないと思い返させられたりもしたのだが、これは後のまつりということで、あえて稿を改めずに掲載させてもらうことにした。ほんとうは倉田さんのように、著者の近年に至る詩的営為の持続をよく御存知のひとが、こうした感想文を書くのが相応しいのだと思うが、私は若い頃に坂井さんの詩集『棘のある休息』一冊を読んだだけの読者で、そういう用意もなく、ある意味で「寓意化」への強い求心力と、その動きを意図的に拒否するような強い遠心力を備えた物語詩を読んだという、曰く言い難い読後の感触だけをたよりにこのノートを書いたことを付記しておきたい。

 なお、倉田さんの詩集評「もどろぎの座---『黄泉へのモノローグ』小考」は、倉田さんのサイト「γページ」「批評・エッセイ」のコーナーに収録されている。拙文と併せてお読みいただけるといいと思う。


註1)この作品に登場する映画、音楽について。この詩には、日活名画座でみた『天井桟敷の人々』、神田駅ちかくの古びた映画館でみた『雨のしのび逢い』、『リラの門』、池袋でみた『勝手にしやがれ』、『かくも長き不在』、『ヘッドライト』、日活名画座でみた『舞踏会の手帖』、『望郷』、『モンパルナスの灯』、『男と女』、『禁じられた遊び』、東京文化会館でみた『黄金の心』、四十年前の新宿でみた『去年マリエンバードで』、宮益坂をのぼった映画館でみた『いぬ』、六十年代の夏に築地にあった古い映画館でみた『二十四時間の情事』、六十年代の初冬にシブヤでみた『突然炎のごとく』、そのほか、本文中にタイトルはでてこないが、『欲望という名の電車』、『夕鶴』といった演劇作品の名前が登場する。また、『ガラスの動物園』は、名前の表記もないが、作中でそれとわかる暗示がされている。

 登場する音楽の曲名や作曲家、歌手の名前では、グルック「精霊の踊り」、「パダン、パダン」(ピアフ、イベット・ジロー、岸洋子、ローラ・ベルティエ、律彩子、パターシュ、マショーン)、「死の舞踏」、ディアベリ「ソナチネ」、「わが心の森には」、「郵便配達」(ムスタキ)、「ミラボー橋の下を」(シモーヌ・ラングロア)、「そして、今は」(ジルベル・ベコー)、シベリウス「悲しきワルツ」、「イザベル」(シャルル・アズナブール)、「ラクリモーサ」、カナロ「黄金の心」、モーツァルト「四十番メヌエット」、「暗い日曜日」(ダミア)、中島みゆき、など。



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坂井信夫詩集『黄泉へのモノローグ』(2004年11月30日発行 土曜美術社出版販売・2000円)






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