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徳弘康代詩集『ライブレッドの重さについて』ノート         三編の詩を中心に   


      「空気の中にあるものが、やわらかく人や木や建物にあたってすぎてゆく。
       見えないけれど、何かの拍子で感じることがある。」(あとがきより)




 徳弘康代詩集『ライブレッドの重さについて』(詩学社)は、見えないけれど、ときに確かな存在のように感じられるものについての詩集だ。この見えない気配のようなものはなんだろう。そういう関心が、ずっと考えぬかれていて、思わぬ場所に言葉のきりくちをひらいていく。


夜中に
やわらかなまるいかたまりが
からだにぶつかって
すぎていった

声のようなかたまり
耳ではなくからだにふれる


ねこは身をおこし
あたりを見回して
また眠る

(「声」より)


 こうした見えないものは、私たちの感覚に、一瞬の気付きのように留まり、やがて通り過ぎていく。それは意味づけのしようのないできごとだ。けれど、こういう不思議な気持ちの動きをふりかえると、いくつもの思索のヒントのようなものが隠されていることがわかる。たとえば、今そこに「ある」と視認できることと、今そこに「ない」と視認できることの時間や空間的な判別で、世界は成立しているように思われているが、この「見えないもの」は、そういう区別をどこかで、こえてしまっているように思えるというようなことだ。


1「ふところにないを入れて」



花園を歩く
ふくろの形の花の中に
あふれている ない
ふくろごと手渡す
ないの束
人は喜んでそれを
ないのコレクションに加える
なんと美しいないの束

  (「ふところにないを入れて」一連)


 形がある花は、それを「見えないもの」の実在という側面からいえば、もう形ある花ではない。それは、「ない」という様態で存在するような、「ない」花なのだ。けれど、その「ない」花は、束ねられ、「美しいないの束」として、コレクションされる。「ない」花ということには、目に見える花の形から感じられる美しさも、当然失われているはずだから、「美しいないの束」という概念は、矛盾した修辞だといえるかもしれない。では、ここでは、言葉がもてあそばれているだけなのだろうか。


ないを漂わせて立っている
男の人のその声から
ないをいただく
ありがとう まっすぐ立っていられないほど
傾いた声の中に
満ちている ない
コレクションに加える
音声のない

  (「ふところにないを入れて」二連)


 二連では、男の声としてきこえる言葉を、きこえない声としての、「ない」(声)として受け取る、ということが描かれている。音声の「ない」。これは、無音ということとは違う。声があって、はじめてそこに生まれ、伝えられるような声の「ない」なのだ。


人はないのサンプルを集めている
個々のないから立ち現れる
本来的なないをとらえるため
今やないはあり ないは聞こえ
さわることさえでき
人は知ろうとする

そのあたたかい懐にあって同じく
柔和なないについて

まだ何も踏んだことのない足の裏にあって
同じくやわらかいないについて

否定しつづけた人が初めて肯定したとき
その空気に現れたふくよかな
ないについて

  (「ふところにないを入れて」三連以降)


 三連以降で、詩の言葉は、思わぬ方向に伸びやかな転換をみせる。見えないし、聞こえもしない実在としての「ない」を、ここで登場する「人」は、「本来的なない」をとらえるためにサンプルのように集め、その「ない」を知ろうとするのだという。では「本来的なない」とはどのようなものなのか。懐の温みのように「柔和」で、生まれたばかりの赤子の足の裏のように「やわらか」で、というようにその感触が語られるが、最終連の理解はむつかしい。「否定しつづけたひとが初めて肯定したとき」という表現が、なにか別のことの比喩であるというよりも、ちょうど三連目の「今やないはあり ないは聞こえ」という行のように、「ない」ことが「ある」ことに転じるときに生ずる、心の機制そのものを言い表しているように思えるからだ。

 人が求める「本来的なない」とは、「美しく」「柔和」で「やわらかで」「ふくよか」である、そういうところまでこの作品は断言しているように思える。ここで書かれていることは、ちょっと仏教的な「悟り」(涅槃)の境地を連想させるところがあるが、見る、聞くという日常の感覚から、その存在の否定態であるような「ない」という感触に関心をとめ、ここまで、いってみれば着想を深化させて、平易なことばでいいきった作品は珍しいのではないかと思う。



2 「桃の節句」


桃の節句


明日ね 明日帰ってくるってさ と
言われても
猫にわかるのは
その人が今ここにいないということだけ

後でね 後であげるから と
言われても
猫にわかるのは
今お皿の上に何もないということだけ

お土産持って帰ってくるってさ と
言われても
わかるのは ゆっくりできる
あったかい膝がここにないことだけ

もうすぐね あったかくなるよ と
言われても
あったかいのは 畳の上の
三角の陽だまりだけ
今のところ


 「ある」と「ない」を、目にみえ、耳に聞こえることだけで、区別する。そういう普通に人がやっている判断作用の特徴を、もうすこし端的にいってしまえば、たとえば「猫」にとっての世界のようなものが考えられる。人間はペットである猫を擬人化して、自分の子供や友人のように対応する。猫がまといつく、空腹を訴える、甘えた声をだして膝にのろうとする。飼い主は子供にいいきかせるように、あとでかまってあげるから待っていなさい、というのだが、その意味は猫には通じない。人が思わずそうやって声をかけてしまう、すれ違いのもどかしさや意志のつうじない猫のあわれさみたいなものが、この誰にも覚えのあるような情景を繰り返す作品から感じ取ることができるけれど、この関係の空壁のようなものに作者を導いたのは、やはり「ある」と「ない」によせる持続的な関心のようなものだろうとは、想像してみたい気がする。

 そういう視線からすると、猫には、今現在に目に見え、耳で聞こえ、匂いで感じとれる世界だけがすべてなのだ。「ない」ということが、実は未来の「ある」ことに転化する、という想像力をもたない猫は、まつ、ということができない。この場合の「ない」は、「ある」ものが同時にもっているような実在としての見えない「ない」の空間的なあり方ではなく、存在に時間の経過のかかわる、ものごとが生成流転するというような意味での「ない」だ。ただ、この詩を読んで、猫のことを言っているようでいて、人間のことを言っているというふうに感じとることができるとすれば、「今やないはあり ないは聞こえ」(「ふところにないを入れて」)という「本来的なない」の観念をめぐって、作者が思いめぐらしている様子が想像できそうな気がする。たぶんこの作品で、「ない」が未来の「ある」ことによって、猫にとって実現されるのが、飼い主との再会であり、食事であり、暖かな膝の上の眠りであり、春の訪れであり、というような肯定的なイメージで語られているのは、そのことと無関係ではないだろう。



3 「ライブレッドの重さについて」


 あとがきの「作りたてのライ麦パンをある人からいただいた。持って帰る電車の中、パンを膝の上にのせると、まだほのかに温かくて、ちょうどいい重さに、何か実在するたしかなものを感じた。ライ麦パンの実在感は食べた後も、ずっとそばにあって、形がなくなった分、自在にそのあたりに漂った。」ということばは、詩集のタイトルにもなっている、この「ライブレッドの重さについて」という作品のうまれたきっかけをよく説明していると思う。


とりだしたライブレッドを一斤そのまま
皿にのせてさし出すと
人はそれを一口の大きさに縮小して
一度に食べてしまいました
食道を通りながら 限りなく
大きくなっていくライブレッドが
あたたかい声になって出てくるのが
見えました
ライブレッドが
胸から胃へ 胃から顔へ
広がっていくのをかんじていました
私はそれが少し
直截すぎる気もしました

それから私たちはよく
ライブレッドといました
五月の芝生の上で
ライブレッドは
鰭で飛ぶ大きな魚になり
まわりに群れて
その深さを飛ばしました
あわい赤の魚は
そこにいる人々の影をうけると
透明な紺に変わりました
近づかず
けれど離れず
私たちはライブレッドの赤い色を
見ていました

  (「ライブレッドの重さについて」一、二連) 


 膝にのせたライブレッドの実在感が、パンを食べたあとも残って、その見えない感触があたりに広がっていくように感じられた、という体験から、周囲に広がっていった、もはや形のないライブレッドの実在感(だったもの)のゆくすえの変幻を、作者はファンタジックな絵本を描くような筆使いで空想の羽根をのばして書いている。


六月の庭で
ネガティブのエネルギーのことを
思いました
ないエネルギーの
ない大きさについてです
私たちはそれを測りかねていました
いつかすこまれるだろうという気持が
枯山水の庭にみちていました

七月の雨の島で
びわの実と枝くらい
とおく隔たって 私たちは
ライブレッドをかんじていました
ライブレッドの中にいると
その重さが浮いていくのが
わかりました
重さはとてもあたたかく
それは私たちを
八月へ向かわせさえするのです

  (「ライブレッドの重さについて」三、四連) 


 目に見えないライブレッドの実在感は、やがて空にひろがってき、五月、六月、七月と月日がたつうちに、世界に遍在する空気そのもののようになっていく。この経過は、「私たち」が、ライブレッドそのものの変化を客体を見るように観察しているというより、「私(たち)」の心の中でのライブレッドの実在感としてあったものが、やがて「私(たち)」のおりおりの気付きによって、変貌していった経過の報告のようにも読むことが出来そうな気がする。「ネガティブのエネルギー」とは、「ある」ことの別の側面としての「ない」ことのもつ力であり、それは「ある」ことと同等にこの世界を支えている。むしろこの「ネガティブのエネルギー」の存在についての気付き(「本来的なないをとらえ」ること)によってはじめて、世界はその十全なすがたを「私たち」のまえにあらわすのだ、というように。

 目に見える「ある」ことの否定態としての「ない」は、ともすれば、喪失や、死や、衰退といった身近な負のイメージと結びつきがちだが、東洋的な「無」ということは、そういうこととは違う。これまでみた三編の「ある」「ない」をテーマにした詩作品で作者が「ない」に付与しているイメージは、むしろ、そのことの気付きが、人をして、希望や幸福や生きる力にむかわせる、というものだ。そういう意味で「私たち」が「ネガティブのエネルギー」の中にやがてすいこまれるだろう、という気持ちにさせられる場所が、禅寺に瞑想のために設けられた「枯山水の庭」だという設定は、さりげなく周到におかれた言葉の布置とでもいうべきだろうか。



4 終わりに


 徳弘康代さんの詩集『ライブレッドの重さについて』は、目にみえず、耳にもきこえないけれど、この世界にあって見えない触覚にさわるようなかたちで人の心にはたらきかける、そういうイメージへの関心に貫かれている詩集だと思う。この関心の持続がどこからやってきたのかわからない。けれど作者はこの詩集で、そういう不在というかたちをとおしてしか、語りえないイメージの感触とでもいうべきものを、できるだけわかりやすい言葉で、なんども書留めようとしている、という感じがした。

 たべたあとにも残っているライブレッドの実在感のように、物は、その場から失われたあとにも、空白の輪郭をたもっているような、実在感を残すことある。その実在感は、その物に対する人の固有の思い入れがつくりあげるものだが、その思い入れから固有の情緒のようなものを引き算してしまうと、そこに抽象的な不在のイメージが残る、と考えてみる。そうした不在のイメージに、たとえば単純に「ない」実在という言葉をあたえてみる。この「ない」は、そういってよければ、あらゆる「ある」存在とわかちがたく結びついている。世界とは「ある」と同時に「ない」ことなのだ。そして、この存在の「ない」という側面は、普段は「ある」ことによって、かくされているが、私たちの気付きによって、さまざまな場面で、こちらがわの「ある」世界に姿をあらわすことになる。


送られてくる信号は
かすかで
こちらも静かでないと
ききとれない

(「雨期」より)


 ある種の非現実感が、世界をみたしている。目に見えるものを結びつける関連が、そのために不確かなものになる。けれどその不確かさは、詩や思索の源泉であり、言葉にするなら、むしろ不確かであることによって、満たされているような世界を構成することになる。深読みしていうと、これはある種の希求や願いによって均衡を保たれた不確かな世界なのだ。そのために言葉はある平明な抽象の水準から破綻することもなければ、語り手が世界の不確かさに恐怖する、その不安が直接語られることもない。読む者は世界の見え方、ひとつの見方に導かれるような示唆をうけとる。たぶんその示唆をつくりあげる、というところに詩の完結感(価値)がめざされていて、そこをうまく通過できると、詩に共振できる感覚がやってくる。『ライブレッドの重さについて』には、とても平明な言葉、感覚的な表現で、たぶん作者によって何度も反芻されたように思える、世界のあり方についての柔軟な思索や洞察が語られている。こういう詩集にであえることはあまりないことだと思う。



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徳弘康代詩集『ライブレッドの重さについて』(2004年9月17日発行 詩学社・1200円)






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