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 一色真理詩集『偽夢日記』を読む


 この詩集の存在を知ったのは、「リタ」VOL14に掲載された海埜今日子さんの詩集評「偽の痛みが濡れている、から。」という一文に接してのことだった。もっとも、著者の一色真理氏が、ご夫妻のホームページ「詩・夢・水平線」の中の「夢の解放区」というコーナーで、「仲間たちと共に、朝記録した夢をその日のうちにメーリングリストに発表し、意見を述べ合う活動を続けている。」(詩集の「覚書」より)ということは知っていて、以前そのコーナーで紹介されている夢の記述の数々を拝見していたということはあった。そんなわけで、詩集評を読んで興味を覚えたことに加えて、長年夢の記述を持続されている方の詩集の中に、どんな夢のイメージが定着されているのだろう、という、また別様の興味も湧いたのだった。

 ただ最近では詩集の紹介記事や詩集評を読んで面白そうだと思っても、その本をすぐに買いに動く、ということは滅多にない。私の場合、大抵そういう本は暫くは心のすみに気に留めている状態で、縁あって図書館や書店などで巡りあったら、思い出して借りたり買うという感じになることが多い。本書についても、原稿をいただいた海埜さんに、この詩集は面白そうですねとかなんとか、メールをお出しして忘れていたのだが、しばらくして海埜さんと本のやりとりをする機会があって、その流れで、というのも変だが、幸いにも海埜さんのご厚意で詩集をお借りして読むことができたのだった。

 そういうわけで、夢のイメージの記述、ということに大いに興味をもって本書をひもといたのだが、巻末の「覚書」を読むと、「本詩集に収めた作品は実際に記録した夢のイメージを素材に、全く別の文脈に置き換えてフィクションとして構成し直したものである。」とある。この断り書きは、詩集全体を読むと、なるほど、と頷けるところがあって、夢に見たイメージを素材にしながらも、「全く別の文脈に置き換えてフィクションとして構成」されたもの、すなわち「偽夢日記」なのだな、と首肯できるのではあった。

 では、作者自ら「フィクション」といい、「偽夢日記」と名付けている詩集から、どんな夢のイメージを読み取ったらいいのだろうか。というのは、夢のイメージとわざわざ区別していいたい場合、人が意識して練り上げた空想や想像のイメージということとは違って、ある無意識の層から、夢見ている半覚醒状態の意識の層に届けられる、といった、イメージのもつ特殊な性格を含んでいると考えられるからである。

 たとえばこの詩集を読んで、いくつかの作品を横断した記述主体の心の物語のようなものが読みとることができる。それは端的にいうと「父親へのこだわり」であり、記述主体が、子供の頃に飼っていた兎を、父親が殺した(飼うことを禁じられ、父と争ううちに兎が死んでしまった)、というような象徴的な出来事が、そのこだわりの由来を明かすかのように表現されている。けれど、こうした読み方は、作者が実際に見た夢の記述を、何度もくりかえし見られたひとつの実体験のストーリーとして忠実になぞっている(表出に強点をうちたがっている)、という前提がないと意味をなさない。作品が夢のイメージを「全く別の文脈に置き換えてフィクションとして構成」したものだとすれば、このストーリーは、作者が捏造した「偽」の夢(ある原体験をもとに父親像にこだわる男の物語)を語っていると理解することも可能だからだ。そこで、作品の理解=了解は、微妙にぶれることになる。

「夢」の理解ということが、実のところ、精神分析的な解釈で解きあかせるものなのかどうかは、現代の水準で確定していないといっていい。そういう意味でこの詩集は、その確定しえないところで読者に向けて仕掛けられた詩=文学からするひとつのたくらみ、と言うこともできそうな気がするのだった。たとえば、

「偽の夢の日記というフィクションは、マイナス×マイナスがプラスになる、という公式があてはまるのだろうか。偽の日記、偽の夢。たぶん。きっと。だってこんなにいたましくもバスに乗ってやってくるのですもの。」(海埜今日子「偽の痛みが濡れている、から。」)

 この評者が感じている「いたましさ」は、むしろ評者が、物語の仮構性を知り抜いたうえで、対象に共振しえたとき生じた感受を証している。いってみれば、偽の夢、偽の日記、(夢ににせた記述、日記ににせた記述)を書こうとする意識の否定性ゆえに実現されてしまったもの、それだけが現在こうして伝えられるものではないのか、という問いかけのように。

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 夢のイメージということには、大まかにいうと、ふたつの接近のしかたがあるように思える。ひとつは今書いたような無意識から流出する意味的(物語的)なイメージの流れをたどること(時間的に再構成すること)であり、もうひとつは像的なイメージの変成や転換に注目するということ(空間的に再構成すること)だ。この像的なイメージは、詩集全編にうめこまれていて、この詩集をきわだったものにしているように思えた。以下に抜き書きしてみる。

 「ふと気がつくと、バスの中でぼくだけが後ろを向いている。ぼくを除いて、ほかの席は全部前向きなのだ。すべての乗客の視線がぼくに集中しており、刻々と雰囲気が険悪になってきた。」(「バスに乗る」)

「犬とも猿とも見えるものが、ぼくといっしょにいる。」(「燃える木」)

「巨大な木の根がひとつ、ごろんと百メートル道路にころがっている。空中に高々と根を張り、樹幹と枝葉を地下百八十メートルの深さまでさかさまに伸ばしているという、途方もない大ケヤキだ。」 「舗道の敷石から両足を突き出し、上半身を地中にめりこませている女は、ぼくの妻だった。(まだ年若い妻のふとももをおおう下着の白さがまぶしい!)」(「地獄」)

「妻が逃げるうさぎをつかまえて、掃除機に吸い取ってしまった。掃除機の細いホースの中をうさぎがどんどん吸い込まれていくのが、外からはっきり分かる。」(「逃げるうさぎ」)

「最近頻々と夜中に父の霊がやってくる。黒いなすびの形をしたものが、襖をこじあけるようにして、ぼくと妻の寝室へ強引に押し入ってくるのだ。」 「エレベーターのドアは水でできていて、開くとき僅かに水しぶきがぼくの頬を濡らした。白い服を着た若く美しい妻が長い指でたくみにエレベーターを操り、エレベーターは水中を光の坩堝のような海面に向かって、ぐんぐん上昇を開始する。もう一度水のドアが開くと、そこはラッシュアワーの横浜駅のホームだった。」(「大桟橋」)

「ふと見ると、天井に大きな穴があいて、男がひとり大きな目でじっとぼくを見おろしている。ぼくは前をはだけた乱れた寝巻姿なので、恥ずかしくてたまらない。」(「赤い歯車」)

「知らない土地で道に迷う/ぼくは裸で とても恥ずかしい」(「水の中の太陽」)

「ゆうべぼくはひとりで覚生山から東山公園行きの終バスに乗りました。ロケットによく似た流線型のきらきら光る銀色のバスです。丸い二重窓から見る末盛通の空は飛び交う火の玉でもう真赤です。本山には巨大な蛇のようなものが横たわっているし、唐山あたりはゼラチンみたいに固まったくさくて黒い水がいっぱいです。」(「終バス」)

 めにつくまま、という感じで抜き書きしてみたが、これらの記述にみられる像的なイメージは、たぶん誰でも夢のなかで似たような情景を見たり体験した記憶があるものではないだろうか。もちろん像的イメージといっても、それを見ている主体が感じる強い情緒と結びついている場合が多い。また言葉で表記されることによって、すでに変形や省略が起きているし、脚色が加えられている個所も多いだろう。だが、こういう記述を読んでいて「いかにも夢らしい」と感じてしまうことには、ある種の普遍性があるように思える。乱暴にいってみれば、こうした記述の素材が覚醒時の想像力だけによってつくりあげられたたものでないことが、ある種の信憑をもって直感的に了解される、というようなことが起こるのだ。

 夢の像的なイメージの探索が、ある意味で、詩の源郷をたずねるようなスリリングな魅力に満ちていることを、こうした詩句は教えてくれるように思える。そういう意味では、この詩集にこめられた、像的イメージの鮮烈な描写や、奇想天外な情景に必然のように付随する情感の記述に、多くの読者が前意識のさわりにふれるような懐かしさを覚えるだろうと思う。





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一色真理『偽夢日記』(2004年12月24日発行 土曜美術社出版販売・2000円)






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