[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




 村野美優詩集『セイタカアワダチソウのうた』を読む


 村野さんの詩の核心には、「童心」ということがある、と、まずはいってみたい気がする。別のいいかたをすると、たぶん、この作者は詩を書いているときに、自分が子供だった時の心にすっと入っていける通路のようなものが、身についているのだと思う。そしてそれは、いわゆる「子供らしさ」を作品上で演出する表現技巧の問題のように思えなくて、いつも作者の遠い記憶や資質の奥のほうから湧きだしてくる深い声がその基調になっている、という気がする。

 この感じは、私の知っているかぎりでいうと、金子みすゞの童謡詩の世界に似ている。子供むけの詩というジャンルが意識的に創生され、最初の興隆の時期を迎えた大正期ころの童謡詩の世界に似ているといえば、もうすこし穏当なのかもしれないが、あえて金子みすゞといいたいのは、この二人の詩人がが詩を書くときに内面に入っていくときの入射角のようななものが、資質的に似ているのではないか、というふうなことを思うからだ。まずは、村野さんの詩集『セイタカアワダチソウのうた』の中から二編の作品をひいてみる。


てがみ


宛先を
知らせたおぼえも
ないのに

一億五千万キロの果てから
わたしの窓へ
まいにち届く
光のてがみ

宛先を
知らせても
なかなか届かない

同じ星に住む
あなたのてがみ


 太陽の光が遠い距離をへだてて、毎日、自分のもとに届けられる。それは、自分がここにいると「知らせたおぼえ」もないのに、自分に無償で与えられる恵みのようなものだ。そこには、この世界がこの世界としてあること、そこに自分が存在していること自体の、不思議さのようなものがある。と、こうした世界のありかたに対する初源の驚きは、とりあえず「童心」に属している、とはいえよう。その太陽(のひかり)と自分を結ぶ不思議な関わりを、人が人に送るような「てがみ」のようにイメージするとき、人同士のなりわい=人為のようなものは、この無償の自然の恵みから照りかえされて、その虚ろいやすさを露呈する。「光のてがみ」と「あなたのてがみ」、この本当は似ていないかもしれない異質のものを、端緒の詩的なイメージが結びつけるが、そのイメージに仕返しされるように、やがて自分はその異質さをも再発見してしまう。この世界にはふたつのしくみがあること。それもまた「童心」の中で生じる端緒のかなしみ、であると、いえるのかもしれない。


凩の郵便


もうすぐ師走
空の王国もせわしくなります
王さまはせっかちなので
まだ昼の明るいうちから
日暮れの支度をせきたてています

 夕焼けは今が見頃じゃ
 さっさと一日を終わらせよ

王さまの年賀状は
さくらの葉っぱに
夕焼け空を刷り上げたもの
けれども
年を越す前に
地上に着いてしまうので
ひとびとは落ち葉とまちがえて
焚火で燃やしてしまいます

あたりは ぷうんと
夕焼けの いいにおい

宛先人不明のてがみは
凩の郵便で
空のかなたへ
送り返されてゆきます


この作品では、太陽から届く「光のてがみ」が、空の王国に住む王様(太陽)から届けられる、夕焼けを刷り上げた葉っぱの年賀状、というふうに具体化されている。作品の展開には、とても魅力的な空想(おはなし)がこめられているが、やはり自然と人の対比とすれちがい(に気付く「童心」)が、前作同様にテーマにひそんでいて、かすかな悲調のようなものを喚起する。次に、全集から抜き出した金子みすゞの作品二編を引用してみよう。


世界中の王様


世界中の王様をよせて
「お天気ですよ。」と云ってあげよう。

王様の御殿はひろいから、
どの王様も知らないだらう。
こんなお空を知らないだらう。

世界中の王様をよせて
そのまた王様になったのよりか、
もっと、ずっと、うれしいだらう。


ゆびきり


牧場の果にしずしずと
赤いお日さま沈みます。

柵にもたれて影ふたつ、
ひとりは町の子、紅リボン、
ひとりは貧しい牧場の子。

「あしたはきっと、みつけてね、
七つ葉のあるクローバを。」

「そしたら、ぼくに持って来て、
そんなきれいな噴水(ふきあげ)を。」

「ええ、きっとよ、ゆびきりよ。」
ふたりは指をくみました。

牧場のはての草がくれ、
あかいお日さま、ひとりごと。

「草にかくれて、このままで、
あすは出ないでおきたいな。」

 金子みすゞのこうした作品の中にも、太陽(自然)とひとのなりわい=人為の営みの、対比のようなイメージが自然にふくまれている。王様たちの栄華も、空いっぱいに満ちた陽光とは比較にならないし、生まれや育ちの違う子供たちのかわす約束事が果たされないことを、自然の側からする視線が、哀しみをもってみまもっている。もちろん、こうした構図自体が、特別なものであるわけではない。むしろ、金子みすゞや村野さんの作品を読んで、すっと心に通うものがある、と感じられ、その感じの確かさが信じられる程度には、だれにも共通な構図なのだと考えたほうがいいことだと思う。ただ、こうした自然と人為の対比を、ある角度ですくいあげるとき、人がとりうる内発的な感受性の質はさまざまであり、そこでこのふたりの詩人に共通した自然な通路のようなものがある、と、私がかってに考えている、というのにすぎないということなのだが。

 私がこの資質の類似性ということを最初に思ったのは、村野さんの前詩集「はぐれた子供』(花神社)の中の、「夢中歩行」という作品を読んだときのことだ。


夢中歩行


たましい という
ふたごの実がはじけて
ひとつの種は地に
ひとつは天に落ち

地には 子どもが生まれ
天には 星が生まれた

子どもはさびしかった
星もさびしかった
星は 眠りの中で
子どもの背中を見ていた

子どもはおもっていた
 じぶんは 星の見ている
 夢の中にいるのだから
 星が目を覚ましたら
 ここから消えてしまうだろう と

けれども 星は
ふたたび目を覚まさなかった
星の見る夢の中で
子どもはさびしく生きていた

ときどき 子どもは
眠ったまま階段を昇った
大人は 夢遊病だと言って
笑ったけれど


 数年前にこの作品を読んだとき、すっと連想した金子みすゞの作品がいくつかあった。その時の記憶を正確に思い出せないが、再度金子みすゞの詩集をひもといてみて、ひっかかったものを三編ほどあげてみる。たぶん当時と判断はかわっていないはずだと思う。


みえない星


空のおくには何がある。

  空のおくには星がある。

星のおくには何がある。

  星のおくにも星がある。
  眼には見えない星がある。

みえない星はなんの星。

  お供の多い王様の
  ひとりの好きなたましひと、
  みんなに見られた踊り子の、
  かくれてゐたいたましひと。


向日葵


おてんとさまの車の輪、
黄金のきれいな車の輪。

青い空をゆくときは、
黄金のひびきをたてました。

白い雲をゆくときに、
見たは小さな黒い星。
天でも地でも誰知らぬ、
黒い星を轢くまいと、
急に曲がった車の輪。

おてんとさまはほり出され、
眞赤になってお腹立ち、
黄金のきれいな車の輪。
はるか下界へすてられた、
むかし、むかしにすてられた。

いまも、黄金の車の輪、
お日を慕うてまはります。


玩具のない子が


玩具のない子が
さみしけりゃ、
玩具をやつたらなほるでせう。

母さんのない子が
かなしけりや、
母さんをあげたら嬉しいでせう。

母さんはやさしく
髪を撫で、
玩具は箱から
こぼれでて、

それで私の
さみしいは、
何を貰うたらなほるでせう。


 村野さんの詩では、子供の出生についての話が、最初に伝説か神話のように登場する。この神話は、作品全体を「現実」として支えているけれど、誰が創造したのか、というと、作者=当の子供の(さみしい)心というほかない。そして作品の流れ中で、この子供の創造した神話が、いわば「真実」として現実に流出してくる、というみごとな構成になっていると思う。子供(自分)の心のさびしさの由来を、地上的な人間関係(前述の言葉でいえば人為性)ということでなく、たとえば、闇の空に遠くひかる寂しげな「星」や「太陽」との結びつきで空想すること、そこに私的な神話ともいうべき空想の物語をうみだすこと、その物語が、人為性との対比によってきわだつこと。そうしたことを、いわゆる硬い詩語を使わずに、自然な(自分の物語)としてかたること。一方は現代詩であり、一方は童謡詩として書かれたものだが、二人の作者の幾つかの作品には、そうした特徴が共通していて、それは(たぶん子供の心(「童心」)が宿す端緒のさみしさ(存在論的な寂寥)をいいあらわそうと動く心の動きのように)資質の類似といっていいほど似ているのではないか、と、思ったのだった。その動きは、「喪失」というテーマにもみられる。以下に村野さんの「カバン」という詩と、金子みすゞの「白い帽子」という詩を引用してみよう。


カバン


ある日 わたしはカバンを買った
青い布地の手提げカバン

わたしはカバンに財布を入れた
        日記を入れた
       パンツを入れた


アルバイトと
ぶらぶら歩きと
てらてら暑い陽射しを入れた

ときどき わたしはカバンを洗った
色あせて 少し擦りきれて
だんだんと わたしに似てきた

カバンはわたしにぶらさがった
わたしもカバンにぶらさがった
カバンとわたしは釣合っていた

ある日 わたしはカバンを無くした
無くしたカバンの
ちっぽけな重さに
足下がぐらりと揺れた



白い帽子


白い帽子、
あったかい帽子、
惜しい帽子。

でも、もういいの。
失くしたものは、
失くしたものよ。

けれど、帽子よ、
お願ひだから、
溝なんぞに落ちないで、
どこぞの、高い木の枝に、
ちよいとしなゆくかかつてね、
私みたいに、不器つちよで、
よう巣をかけぬかはいそな鳥の、
あつたかい、いい巣になつておやり。

白い帽子、
毛糸の帽子。


 童心を描くというとき、作者はすでに自分の子供時代を喪失されたものとして思い描く。しかし子供時代そのものの中に喪失という観念がなかったということではない。子供が自分が大切にしていたものを失った時の哀しみ。金子みすゞは故郷の風景や家屋に対するものまで、子供の日常の心に写る喪失のかなしみを沢山の作品にうたった。「白い帽子」は、作品制作の時間的な経緯まで調べていない想像にすぎないのだが、たぶん西条八十の霧積高原を舞台にした作品「帽子」を受けていて、そのぶん子供が物をなくす痛みをのりこえた後のような(くやしさ半分にあきらめて無理に自分で道理を発見したときのような)、ちょっと微妙にひねった作品になっている。村野さんの作品「カバン」には、自分のカバンをなくした「くやしさ」をなぞったら子供の気持ちそのままになってしまったというところがあるが(^^;、そういう自然な感情の流露の同質性を感じていただければいいと思う。


 村野さんご自身は、詩集『セイタカアワダチソウのうた』のあとがきで、
「第一詩集『はぐれた子供』から十一年がたちました。『はぐれた子供』が、拘りつづけてきた子供時代への別れの意味で編まれたものだったとすれば、この『セイタカアワダチソウのうた』は、その次に過ぎた時代(青春期)に捧げるかたちに期せずしてなったもの、という気がします(そこには、まだ子供の影が消えないのですが)。」と書かれている。確かにこの詩集にはテーマとして恋愛を主題にした作品がいくつかあって、なるほどと思えるのだが、私がいいたい「童心」ということにてらせば、「まだ子供の影がきえない」、ことをひそかに嬉しく思った(^^;。もっとも、それはあるひとつの固有といっていいような作者の表現の通路のようなものをさしているので、ここまで書いてきた金子みすゞの作品との比較も、ただその資質のありようにふれたいがためのものでは、あったのだ。。
 最後に「過ぎた時代(青春期)に捧げる」、という意味での恋愛のうたの中で、とくに目をひいた瑞々しい作品を紹介しておきたい。


よる


その人と 二人きりで
夜の川原に下りてきた

わたしたちは何も言わずに
川のつぶやきを聞いていた

川の水は 二人のかわりに
口ずさんでいるようだった

ときおり川向こうの線路を
二本の 列車が 交差した

光の列は 二人のかわりに
目と目を合わすようだった

わたしたちは川原の草に
少し離れて腰を下ろした

わたしたちの間で 闇が
川風に冷えて 固まった

.....................そうして夜は
ゼラチン質になってふるえた


付記)金子みすゞの作品をお好きですか、というようなことを以前村野美優さんにメールでお聞きしたことがあって、保存メールを確認したのだが、みあたらない。記憶では、ほとんど読んだことがない、というようなご返事だったと思う。それは、数年前のことなのだが、私の想像では、たぶん今でもあまり読まれていないのではないか、と言う感じがする(^^;。この稿では、私がその時に、比較のように金子みすゞという名前をだすことで、いいたかったこと(いいそびれたこと)、の一端を書いてみたいと思った。ファンとしては村野さんにいつか金子みすゞの詩を読んでみてもらいたいという、ひそかな目論見もあって、引用を多めにとりあげてしまった(^^;。



ARCH

村野美優『セイタカアワダチソウのうた』(2005年2月7日発行 港の人・1800円)

ARCH

村野美優『はぐれた子供』(1993年12月25日発行 花神社・2000円)

金子みすゞの作品については、全集『空のかみさま』『さみしい王女』『美しい町』(いずれも出版社はJULA)を参照しました。





[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]